第六十話:銀の呪縛
スペイン帝国が仕掛けた経済封鎖は、見えざる毒のように株式会社・日本の血流を蝕み始めていた。
その最初の兆候は武士たちの生活に現れた。
「おい、この銀で米がこれだけしか買えぬのか!」
大坂城下の米問屋で一人の旗本が怒声を上げていた。銀で禄を受け取る多くの武士たちが実質的な収入減に苦しみ始めたのだ。彼らの不満は日増しに高まっていく。
次に毒は商人の世界を侵した。
堺の広大な屋敷。豪商・今井宗薫は蔵に山と積まれた銀の延べ棒を絶望的な顔で見つめていた。
「…動かせぬ。動かせば動かすほど損が出る。ただの鉛の塊ではないか…」
南蛮貿易が止まり銀の価値が暴落した今、彼の持つ莫大な銀資産は利益を生まないただの重荷と化していた。
そしてついに毒は国の根幹である農村にまで達した。
仁斎の執務室に石田三成が駆け込んでくる。
「宰相様。地方からの報告。銀の値崩れは農村にも及んでおります。綿花などの商品作物を作り銭で米を買うていた者たちが、食べるに困り各地で一揆の兆候が…」
三成はさらに続けた。
「昨日、摂津の代官所に百姓たちが押しかけました。『銀で年貢を納めよと言われても、米しかない。この米で納めさせてくれ』と。代官は法度通り銀での納税を求めましたが、百姓たちは『銀など見たこともない』と…」
「結果はどうなった」
仁斎が問う。
「代官所の前で座り込みが始まっております。このような事例が各地で起きれば、年貢の徴収そのものが立ち行かなくなります」
仁斎は頷いた。
『銀本位制の限界だ。農村では今も米が実質的な通貨。この乖離が国を引き裂こうとしている』
この国難に対し信長は再び評定を招集した。
広間の空気は重く淀んでいる。
信雄を担ぐ老臣たちは声を揃えて言った。
「銀が安くなったのならもっと多く掘ればよい! 石見の人夫を倍にされよ!」
『愚かな。供給を増やせばさらに価格が暴落するだけだ。問題の本質が全く見えていない』
仁斎は心中で切り捨てた。
次に前田利家が秀頼を代表して進言する。
「明国は銀を欲しておりまする。イスパニアの商人を介さず我らが直接明へ銀を輸出すれば、新たな販路が開けましょう」
『悪くない。だが時間と費用がかかりすぎる。今の危機を乗り切るには遅い』
そして最後に仁斎が口を開いた。
その提案はその場にいる全ての者の度肝を抜いた。
仁斎は一瞬、言葉を選んだ。
『管理通貨制度、信用創造、中央銀行…。現代なら経済学の基礎だが、この時代の人間にどう説明すれば理解してもらえる? いや、理解など求めてはいけない。まずは「使える」ことを実感させるのだ』
深く息を吸い、仁斎は諸将を見渡した。
『難しい理屈は後でいい。今は彼らが最も理解しやすい言葉で、最も単純な仕組みから始めよう』
そして口を開いた。
「皆様。我らが苦しんでいる本当の原因は南蛮船が来ないことではございません。我らが国の富の価値を銀というただ一つの石ころに頼りすぎていることにございます」
仁斎は諸将を見渡し静かに続けた。
「ならばその呪縛から解き放たれれば良いのです。これより我らは銀の重さで物の価値を決めるやり方を改めます」
その言葉に福島正則のような武断派が叫んだ。
「宰相殿、紙切れが銭の代わりになるなどと戯言を!」
その野次を予測していたかのように、家康が静かにそして鋭く問いを投げかけた。
「…面白いお考えだ。だが宰相殿、その紙切れの価値を一体誰が保証するのですかな? 銀や金で裏付けられておらぬのであれば、それはただの絵にすぎませぬぞ」
その本質を突く問いに仁斎は待っていたかのように答えた。
「その価値を保証するのは上様、そしてこの日の本そのものにございます」
彼は三つの策を提示した。
「第一に今後全ての年貢はこの『会所手形』でのみ納めることを法と定めます。これにより全ての民はこの手形を欲することになります」
「第二に日の本会所は常にこの手形と米を、定められた比率で交換することを保証いたします」
「そして第三にこの手形は我が国の総石高と富に見合う量しか発行いたしませぬ。決して無闇に刷ることはないと、この仁斎の名においてお約束いたします」
それは国家の信用そのものを担保とする管理通貨制度の誕生を告げる宣言だった。
広間が理解不能な提案にどよめく。
その混乱を切り裂くように一人の男が血相を変えて広間へ駆け込んできた。
茶屋四郎次郎だった。
「申し上げます! 堺にて大手両替商、三国屋が潰れました! 銀の値崩れに耐えきれず…! それをきっかけに預けていた銭を引き出そうと人々が殺到し、取り付け騒ぎが起こっておりまする!」
堺の経済が麻痺する。その報は諸将の顔から血の気を奪った。
仁斎はその光景を冷徹に見つめていた。
『信用不安…。始まったか。イスパニアの狙いはこれだ。日本の経済を内側から破壊する』
だが彼の思考はすでに次の一手を読んでいた。
『…だが好都合だ。この混乱と恐怖こそが、俺の新しい金融システムを受け入れさせる最大の追い風となる』
仁斎は混乱する諸将を一瞥すると上座に座す信長へと視線を向けた。
信長はその眉一つ動かさず、ただ面白い見世物を見るようにその全てを眺めていた。
そしてその視線が仁斎と交錯する。
二人の怪物だけがこの国家的な金融危機を「好機」として捉えていた。
信長は口の端に笑みを浮かべると言った。
「面白い。…仁斎、貴様のそのふざけた紙切れでこの国を救ってみせよ。許す」
評定が終わり、諸将が退出していく中、仁斎は一人その場に留まっていた。
信長もまた、玉座から動かない。
二人の間に、言葉にならない会話が交わされる。
『お前の紙切れが失敗すれば、この国は崩壊する』
信長の眼がそう語っている。
『承知しております。だからこそ、必ず成功させます』
仁斎もまた、視線でそう答えた。
やがて信長が立ち上がる。
「仁斎。お前が俺に教えた言葉がある。『虎穴に入らずんば虎子を得ず』…そうであったな」
信長は続けた。
「だが、今回は虎穴どころか、底なしの淵に飛び込むようなものよ。それでも、お前を信じよう」
そう言い残し、信長は去っていった。
一人残された仁斎は、震える手を見つめた。
『現代の知識があっても、それを実現するのは俺の手だ。失敗は許されない』
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