第六話:山崎の戦い
決戦前夜、羽柴軍の陣幕は、熱気と殺気で張り詰めんばかりだった。
仁斎は、巨大な軍議用の地図を前に、集まった諸将へ冷静に語りかける。その姿は、猛獣の群れを前にした、ただ一人の調教師のようであった。
「明智軍の布陣は、淀川と天王山に挟まれた狭隘な地。守るに易く、攻めるに難い。ですが、それは敵が万全の時ならばの話」
仁斎は、地図上の一点を、扇子で指し示した。
「我らの電光石火の進軍は、光秀の計算を狂わせています。奴は、もっと時間をかけて防備を固める算段だったはず。今の明智軍は、まだ工事の終わっていない城と同じ。見かけほど堅牢ではございません」
『敵のプロジェクト計画は、我々の奇襲的アプローチによって完全に破綻した。これが、我々の最大の勝機だ』
仁斎は、居並ぶ武将たちを見渡し、静かに続けた。
「この戦の勝敗は、ただ一つ。天王山を、どちらが先に押さえるか。それだけで決まります」
秀吉の隣に座る黒田官兵衛が、ほう、と感嘆の息を漏らす。
「仁斎殿のおっしゃる通り。天王山を制するは、戦場全体を制するに等しい」
『天王山は、このディールにおける支配株主が持つ**“黄金株”**だ。市場の趨勢に関わらず、これを手にした側がディールそのものを支配する絶対的な拒否権(Veto Power)を得る』
仁斎は、秀吉に視線を送った。
「羽柴様。夜陰に乗じ、中川清秀殿に精鋭を率いて天王山を急襲させ、夜明けと共に山頂を確保すべきです。そこから、明智の本陣を見下ろす形で、一気に攻め立てます」
その夜、中川隊は音もなく闇に紛れ、夜明け前には、天王山の山頂で鬨の声を上げた。
「天王山は、我らが押さえたぞ!」
その声は、羽柴軍四万の士気を天まで高め、同時に、明智軍一万六千の兵の心に、決定的な楔を打ち込んだ。
戦いは、もはや一方的な蹂躙であった。
仁斎は、秀吉や信孝が陣取る本陣の丘から、眼下に広がる戦場を冷徹に見下ろしていた。彼の網膜の裏では、【査定】のスクリーンが、無数の戦況データを更新し続けている。
【対象:明智軍】
**ステータス:**指揮系統に混乱発生(Disruption)
**士気(Morale):**65 → 45 → 28…(急降下中)
**主要KPI:**天王山からの側面攻撃による損害率上昇、兵の逃亡率20%超
【対象:明智 光秀】
**ステータス:**指揮中 → 混乱 → 敗走(Liquidation in progress)
『計画通り、敵の中核部隊は側面攻撃で機能不全に陥った。これ以上の抵抗は無意味だ。あとは、残存資産(敗残兵)を掃討するフェーズか』
戦場の喧騒が、まるで他人事のように聞こえる。
人の死も、血の匂いも、仁斎の思考の前では意味をなさない。それは、数千億円のディールを動かしていた頃から、何も変わらない。彼の世界は、常に数字とロジックだけで構成されていた。
やがて、伝令が本陣に駆け込んできた。
「申し上げます! 敵将、明智光秀、敗走中に落ち武者狩りに遭い、討ち取られたとの報! これにより、明智軍は完全に崩壊いたしました!」
「おお!」と、陣営が歓喜に沸き立つ。秀吉は、天に向かって拳を突き上げた。
「やったぞ! これで、上様の無念を晴らすことができたわ!」
その熱狂の輪から、仁斎は一人、静かに離れていた。
『クーデターを起こした旧経営陣(明智光秀)の清算が完了。これで織田家の経営権は、暫定的に我々の手に戻った』
勝利に酔う秀吉を一瞥し、仁斎は思考を巡らせる。
『だが、ディールはまだ終わらない。これからが、最も厄介な**“Post-Proxy-Integration”**…勝利した委任状争奪戦の後の、権力基盤の統合フェーズだ』
この勝利は、あくまで「経営権を不法に占拠した取締役」を排除したに過ぎない。
会社の所有権が、誰の手に渡るのか。それは、まだ決まっていないのだ。
北陸には柴田勝家が、関東には滝川一益が、そして、織田家には信長の息子たちがいる。彼ら「大株主」の意向を無視して、秀吉が次のCEOの座に就くことはできない。
仁斎は、勝利に沸く自軍の喧騒の向こうに、次なる戦場の姿をはっきりと見ていた。
『戦の勝者は、必ずしもディールの勝者ではない。本当の戦場は、これから開かれる清洲での――株主総会だ』
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