第五十九話:スペイン帝国の逆襲
継承者問題という信長が投じた一つの石。
その波紋が大坂城の水面下で静かに広がっていた初夏、日の本は全く予期せぬ方向から攻撃を受けることになる。
堺の豪商、茶屋四郎次郎が血相を変えて仁斎の執務室へと駆け込んできた。
「宰相様、一大事にございます!」
「どうした」
「南蛮船が…一隻も来ませぬ。もう三月になりまする!」
その一言は株式会社・日本の経営を揺るがす凶報だった。
異変は瞬く間に国中に広がった。
堺の港からはいつもなら南蛮船で賑わう活気が消え、閑散としている。
生糸、香料、そして何よりも鉄砲の火薬の原料となる硝石が全く入ってこない。商人たちが残り僅かな在庫を奪い合い日に日にその値が吊り上がっていく。
マニラにいる桔梗の配下からはより直接的な報告が届いた。
現地の日本人町への食料供給が止められ日本船の入港はことごとく拒否。日本人商人が次々と投獄されていると。
九州の大名たちからは「このままでは年貢も納められぬ」「火薬がなければ鉄砲の訓練もままならぬ」という悲痛な訴えが殺到した。
評定の席で諸将が口々に不満を述べる中、信長は静かに一人の南蛮人を呼び入れた。
長年日本に滞在し仁斎の管理下に置かれていたイエズス会宣教師、ヴァレリアーノだった。
彼は深々と頭を下げると告げた。
「信長様。これは新たにイスパニア王となられたフェリペ三世陛下の命によるものにございます。日本との一切の交易を禁じ、銀の流れを止めよとの勅令がゴアの副王より発せられました」
「銀の流れ?」
「はい。日本の鉱山から出る銀が我らの手に渡らぬようにするため。そして日本が銀で南蛮の品を買えぬようにするためです」
それは武力ではない。経済による兵糧攻め。
スペイン帝国による日本への本格的な経済封鎖だった。
この未曾有の国難は、くすぶっていた後継者派閥の動きを一気に活発化させた。
保守派の老臣たちは織田信雄を担ぎ声を上げる。
「こんな時こそ織田の御名による威光で国をまとめるべきだ!」
前田利家は密かに堺の商人と接触し秀頼派の結束を固める。
「幼君でも我らがしっかり支えれば商人衆も安心するはず」
そして黒田如水は仁斎派の諸将に向かって断言した。
「この『銀の戦』とやらを真に理解し対抗できるのは、宰相様ただお一人をおいて他におらぬわ」
三つの派閥の思惑が渦巻く評定の席。
信長はその光景をただ不敵な笑みで眺めていた。
「なるほど、南蛮人どもも考えたものよ。刀を交えずして銭の流れを止めることで我らを苦しめるか。面白い。銭の戦もまた戦よ」
そして彼は思いがけない命令を下した。
「三人の後継者候補にそれぞれこの国難への対処案を出させよ。最も優れた策を出した者を、次期当主とする一助としてやる」
月末の評定で三つの案が発表された。
信雄の名の下で老臣たちが提出したのは「南蛮人など要らぬ。国を閉じ日の本だけで生きていけばよい」という単純な鎖国案。
利家たちが秀頼の名で提出したのは「明国朝鮮と手を組み南蛮に対抗する」というアジア同盟案。
そして最後に仁斎が提示したのは、全く異なる第三の道だった。
「南蛮に頼らぬ新しい交易路を開拓いたします」
深夜。桔梗が仁斎の元へ重要な情報をもたらす。
「宰相様、長崎で不穏な動きが。南蛮人の宣教師が『信長は神の敵』と触れ回っております。信徒の一揆に繋がりかねませぬ」
仁斎は頷くと傍らにいた三成に告げた。
「硝石がなければ火薬が作れぬ。だが明国の商人(華僑)の中には別の道で南蛮の品を扱う者もいるはずだ」
「ではその道を太くすれば…」
「そうだ。南蛮人の締め付けを別の商人たちで破る。聞くところによれば紅毛人と呼ばれる新たな異国人が、東の海でイスパニアと争っているという。彼らと手を組む」
評定の席で仁斎はその具体的な策を述べた。
信長は全ての案を聞き終えると意外な宣言をする。
「どれも一理ある。故に三人で協力してこの危機に当たれ」
しかしその目は笑っていなかった。
『誰が本当にこの国を導けるか見せてもらうぞ』
大坂の市場では物価が日に日に上がっていく。
特に硝石の値は一月で三倍に跳ね上がっていた。
民衆の不満も高まりつつあった。
仁斎は思う。
『これが後の世で言う経済封鎖か。だがこの時代の人間にそれを理解させるのは…』
その時。
茶屋四郎次郎が再び息を切らして駆け込んできた。
「宰相様! 平戸に見慣れぬ船が! 南蛮船とは違う、奇妙な形の…!」
南蛮との経済戦争は、予想外の展開を見せ始めていた。
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