第五十八話:継承者という難題
石田三成の声が、淡々と数字を読み上げていく。
「越後からの年貢、予定を上回ること三千石。堺の商人衆からの運上金、先月比で二割増…」
株式会社・日本は、かつてない繁栄の中にあった。
だが、その報告を聞く男の様子に、微かな変化が生まれていた。
ごほ、と。
乾いた咳が、評定の間に響いた。
織田信長、六十四歳。
天正二十六年(1598年)の春、絶対者が初めて見せた「老い」の兆候に、居並ぶ諸将は息を呑んだ。
信長は何事もなかったかのように咳を払い、三成に続きを促した。
だが、誰もが感じていた。
この巨大な企業体を支える絶対的な柱が、揺らぎ始めていることを。
仁斎の脳内スクリーンが警告を発していた。
【対象:織田信長】
新規リスク項目:健康状態の悪化に伴う、事業継続リスクの上昇
その日の夜。
信長は仁斎を一人、天守の自室へと呼びつけた。
「仁斎。ワシももう若くはない。いつ何があっても、おかしくはない歳だ」
月明かりが差し込む部屋で、信長は静かに切り出した。
「…故に、今日この場で決めておく。我が『家』の次代の跡目を、誰とすべきか。貴様の考えを聞かせよ」
それは、仁斎が最も恐れていた問いだった。
この巨大企業のサクセッション・プラン(事業承継計画)。
その策定は、この国の未来を決定づける、最も重要で、そして最も危険なディール。
仁斎の脳裏に、三人の候補者の顔が浮かんだ。
第一の候補者:織田信雄
信長の次男。血筋だけを見れば、最も正統な後継者。
『…だが、器ではない。彼をCEOに据えれば、その凡庸さに付け込み、第二第三の家康が必ず現れる。会社は内側から崩壊する』
第二の候補者:羽柴秀頼
秀吉の実子だが、信長の命により織田家の養子となった五歳の幼児。
『織田家の正式な養子として、血統的な正当性は確保されている。だが、いまだ五歳。彼が成人するまで、この巨大な会社を誰が支えるのか。後見人たちの間で、新たな派閥争いが起こるリスクが高い』
第三の候補者:長谷川仁斎、自分自身
この株式会社・日本を設計し、創り上げた男。能力だけを見れば、彼をおいて他にいない。
『…ありえない。俺には血筋というブランド価値がゼロだ。俺がトップに立てば、譜代の大名たちは絶対に従わない。それこそが、最悪の内乱を引き起こす』
どの選択肢も、致命的なリスクを抱えていた。
仁斎が答えに窮していると、信長は、ふ、と笑った。
「そうか。貴様にも分からぬか。…よかろう」
信長は立ち上がった。
「ならば、全ての大名(株主)に、直接問うてみるまでよ」
翌日。
緊急招集された評定の間は、異様な緊張感に包まれていた。
信長は、集まった全ての諸将を見渡し、爆弾を投下した。
「ワシの跡目を、誰とすべきか。お前たちの考えを聞かせよ」
広間は水を打ったように静まり返り、そして次の瞬間、爆発的などよめきに包まれた。
この国の未来を左右する禁断の問い。
それが今、全ての者たちの前に提示されたのだ。
最初に口火を切ったのは、織田家譜代の老臣、森井備中守だった。
「それは申すまでもございませぬ! 上様のご実子、織田信雄様こそが、正統な跡継ぎにございます!」
血筋を重んじる保守派の声。
それに多くの古参の武将が頷いた。
だが、それに待ったをかけたのは、前田利家だった。
「…いや、お待ちくだされ。この御家の安泰を考えれば、織田家に養子入りされた秀頼様こそが、最も相応しいかと。羽柴殿の才を受け継ぎ、かつ上様の薫陶を直接受けられる立場にございます」
それは、秀吉恩顧の大名たちが、養子となった秀頼を通じて発言力を維持したいという思惑の表れでもあった。
そして、その二つの意見がぶつかり、議論が白熱したその時。
これまで沈黙を守っていた黒田如水が立ち上がり、最も過激な意見を述べた。
「血筋も大事。なれど、この新しい世を治めるには、それだけでは足りませぬ。私は、この国を創り動かしておられる宰相様こそ、次代にふさわしいと考えまする!」
その一言に、広間は再び静まり返った。
全ての視線が、仁斎へと突き刺さる。
仁斎は表情を変えぬまま、その視線を受け止めていた。
『馬鹿な…。俺だと? 俺はあくまで影。経営者であって、決して当主ではない』
信長は各人の発言を、傍らの桔梗に詳細に記録させていた。
誰が誰を支持し、どのような理由を述べたか。全てが書き留められていく。
評定は三つの派閥に分かれ、完全に紛糾していた。
信雄派:十二名
秀頼派:十五名
仁斎派:五名
態度保留:八名
その光景を、信長は玉座から、ただ楽しそうに眺めている。
仁斎は、その信長の瞳の奥にある真の意図に気づき、戦慄した。
『…違う。上様は跡目を選んでなどいない。これは、後継者選びの顔をした壮大な"査定"だ』
『誰が誰につき、誰が何を望み、そして誰がこの御家を裏切る可能性を持つのか。…上様は、この国の全ての者たちの忠誠心を値踏みしているのだ…!』
信長は自らの「死」すらも道具として使い、最後の、そして最も危険なM&Aを仕掛けていた。
それは、家臣全ての心を丸裸にするという、悪魔の所業だった。
評定が終わった後も、議論は収まらなかった。
各派閥は密かに集まり、自らの候補を推す算段を始めている。
仁斎は、執務室で一人考えていた。
『上様は、何を望んでおられる? この査定の先に、何を見ているのか』
そして、恐ろしい可能性に思い至った。
『まさか…誰も選ばないつもりか。この混乱こそが、上様の望みなのか』
春の夜が静かに更けていく。
だが、大坂城の中は、かつてない緊張と策謀に満ちていた。
継承者問題。
それは、信長が仕掛けた最後の、そして最も危険なゲームの始まりだった。
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