第五十七話:織田法典の完成
積み上げられた巻物の山が、大坂城の大広間を埋め尽くしていた。
何十人もの文官が、昼夜を問わず筆を走らせ続けた成果。
それは、日本という国を根底から作り変える、新たな法の集大成だった。
石田三成が、その中央に立った。
天正二十四年(1596年)、霜月。
彼の驚異的な実務能力が生み出した一大事業が、ついに完成の時を迎えていた。
「織田法典、全七十三巻。ここに完成いたしました」
居並ぶ諸大名たちの間に、緊張が走った。
彼らは薄々感じていた。この法典が、自分たちの特権を根底から覆すものであることを。
三成は、粛々と説明を始めた。
「これより、日の本で使われる升、秤、そして物差しは、全てこの京升、京秤に統一いたします。これにより、国中の全ての商いが公平かつ正確に行われまする」
諸将たちは、静かに頷いた。
度量衡の混乱は、商いの大きな障害だったからだ。
「通貨もまた然り。全国全ての年貢、そして商いの決済は、大坂の金座・銀座が発行する、この新しい貨幣をもって行われるものと定めます」
全国統一の度量衡と通貨。
それは、この国が名実ともに一つの経済圏となったことを示す宣言だった。
そして三成は、法典の最も重要な条文を読み上げた。
「――第一条。『法の下の平等』。武士、百姓、町人、その身分を問わず、法は全ての者に等しく適用されるものとする」
その一文が読み上げられた瞬間、広間の空気が凍り付いた。
一人の保守派の老臣が、震える声で問いかける。
「…お待ちくだされ、三成殿。その条文は何にございますか。『武士と庶民の争いは同じ法の下で裁かれる』とありますが、これは武士の切り捨て御免を認めぬということでございますか!」
それは、武士という階級の存在意義そのものを問う問いだった。
一部の大名は、密かに席を立とうとしたが、信長の視線に射すくめられ、動けなかった。
全ての視線が、上座の信長へと集まる。
六十二歳になった第六天魔王は、その問いに表情一つ変えず答えた。
「その通りよ。武士であろうが商人であろうが、このワシの法の下では、ただの一人。人を殺めれば罪を問われ、物を盗めば罰を受ける。それだけのことだ」
信長は立ち上がり、諸将を見渡した。
「武士の誇りなぞ、腹の足しにもならぬわ」
そのあまりに冷徹な言葉に、誰も反論することはできなかった。
三成は、さらに続けた。
「第二条。『契約の神聖』。一度交わされた約定は、身分の上下を問わず、必ず守られねばならぬ」
「第三条。『私有財産の保護』。正当に得られた財は、何人たりとも侵すことはできぬ」
これらの条文は、商人たちにとっては福音だった。
だが、武士たちにとっては、自らの特権の完全な否定に他ならなかった。
仁斎は、その光景を見ながら、この法典の本当の意味を思考していた。
『法の下の平等。それは、人権思想などという青臭いものではない。これは、純粋な経済合理性に基づいた経営判断だ』
彼の脳裏には、黒澤仁であった頃の記憶が浮かぶ。
『個人の生命と財産が、権力者の気まぐれで奪われるリスクがある国。そんな国で、誰が未来のために投資をする? 誰が新しい事業を興そうと思う?』
仁斎は確信していた。
『全ての人間が、法という予測可能なルールの上で、安心して経済活動を行える環境。それこそが、国家という企業の持続的な成長を促す、最高のインフラなのだ』
信長が、再び口を開いた。
「良いか。これよりこの国は、人ではなく法が治める。ワシとて、この法の上に立つことはできぬ」
その言葉に、徳川家康が慎重に問うた。
「それは…上様ご自身も、法に縛られるということでございますか」
「当然よ」
信長は即答した。
「法の外に立つ者がいれば、それは法ではない。ただの紙切れよ」
仁斎は、心の中で呟いた。
『…上様は、それを本能で理解しておられる』
信長は立ち上がると、自らの筆で、法典の最後の巻物に大きく署名し、そして天下布武の印を押した。
「ここに、織田法典の成立を宣言する!」
ここに、日本で初めての体系的な成文法典が成立した。
評定が終わった後、仁斎は一人、執務室で思考を巡らせていた。
『法典は完成した。株式会社・日本のオペレーティング・システムは、ついに実装された』
襖の向こうには、大坂城下の喧騒が微かに聞こえてくる。
商人たちは、新しい法の下で、より活発に商いを始めるだろう。
その達成感と同時に、仁斎は新たな懸念を感じずにはいられなかった。
『…だが、この完璧なOSの上で、果たしてあの第六天魔王という予測不能なアプリケーションは、いつまで安定して稼働し続けてくれるのだろうか…』
彼の脳裏に、最近の信長の様子が浮かぶ。
全てを手に入れた男の、満たされない渇望。
破壊への衝動。
『システムは完成した。だが、そのシステムの頂点に立つ男の心の中までは、俺の計算も及ばない』
仁斎は、不安を振り払うように首を振った。
だが、その不安が現実のものとなるまで、あとわずかな時間しか残されていなかった。
織田法典の成立。
それは、新しい日本の始まりであると同時に、信長という男の最後の変貌への、序章でもあった。
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