第五十六話:国衆から郡県へ
天正二十三年(1595年)睦月。
信長が新たに創設した「天下執政」という絶対的な権力の座から、次なる大改革の号令が下された。
それは、この国の統治の形を根底から覆す「郡県制」の導入だった。
評定の場で、仁斎が詳細を説明した。
「これまで各大名が半独立的に支配してきた『国』や『領国』という単位を解体します。日本全土を、経済的な合理性に基づいて再編された『郡』に分け、その統治者たる『国司』は世襲ではなく、執政府が能力に応じて任命し派遣する」
それは、戦国大名という存在そのものを過去の遺物へと変える、あまりに過激な中央集権化だった。
諸将の顔に動揺が走る中、信長が立ち上がった。
「良いか。これよりこの日本に『俺の国』など存在せぬ。全ては一つの日本国。その下に郡があり、郡を治める国司がいる。それだけのことよ」
案の定、全国各地で抵抗の狼煙が上がった。
特に反発が強かったのは、古くからその土地に根を張り、独立した勢力を保ってきた「国衆」と呼ばれる地域の有力武士団だった。
国衆とは、守護大名の支配を受けながらも、実質的に独立した力を持つ存在である。彼らは数郡にまたがる所領を持ち、独自の軍事力と経済基盤を有していた。
彼らにとって土地とは、先祖代々の血で受け継いできた魂そのもの。それを大坂から来た若造の役人に明け渡せというのは、死ねと言われるに等しい屈辱だった。
深夜。
仁斎の執務室に、音もなく一つの影が現れた。
影の部隊長、桔梗だった。
「宰相様。加賀で不穏な動きがございます」
「ほう?」
「前田家の家臣団の中に、郡県制に反対する一派が。密かに越後や能登の不満分子と連絡を取っています」
桔梗は詳細な調査結果を記した密書を差し出した。
そこには、反乱を企てている者たちの名前、兵力、そして資金源までが正確に記されていた。
「前田利家殿自身は、上様に従順です。しかし、彼の下で長年独立性を保ってきた加賀の国衆たちは、中央集権化に激しく抵抗しております」
仁斎は、その報告書を読みながら、ふと顔を上げ桔梗の目を見た。
「桔梗。お前は今、織田信長のために働いていることを、どう思う?」
それは、あまりに唐突な問いだった。
一瞬の沈黙。桔梗の頭巾の奥の瞳が揺らめいた。
「…契約は契約にございます。私情は挟みません」
その声は平坦だった。
だが、その瞳の奥に、決して消えることのない憎悪の炎が揺らめいているのを、仁斎は見逃さなかった。
桔梗は一礼すると、再び闇へと消えた。
翌日、仁斎は桔梗がもたらした報告を信長の元へ届けた。
信長は、その謀反の企てを一読すると、楽しそうに口の端を上げた。
「面白い。早速、新しい世に馴染めぬ古き者どもが、あぶり出されたか。仁斎、兵を出すか?」
その問いに、仁斎は静かに首を横に振った。
「いえ。兵を送るには及びません。彼らの息の根を止めるのは、鉄砲ではなく銭でございます」
仁斎の策は迅速で、そして残酷なまでに効率的だった。
まず彼は、石田三成に命じ、加賀の反乱分子たちが治める土地への完全な経済封鎖を実行させた。
堺や大坂の商人たちに通達を出し、その土地との一切の取引を停止させる。
塩も、鉄も、日用品も、何も入ってこない。
塩の欠乏により、保存食は腐り始めた。
鉄不足により、農具の修理もままならなくなった。
日用品の不足は、民衆の不満を日々募らせた。
次に、仁斎はさらに非情な手を打った。
彼は反乱分子の隣接する地域で、執政府が直接米を市場価格の三割高で買い上げ、そして反乱地域のすぐ側で半値で売り始めたのだ。
結果、何が起こったか。
反乱を起こした国衆たちの領内の農民や商人たちは、己の主君を裏切り、こぞって米を執政府側に売り始めた。
自らの兵糧が、目の前で敵の手へと流れていく。
反乱の指導者たちは、為す術もなかった。
ある国衆の老臣が、絶望的な声で叫んだ。
「これが戦か! 刀も槍も交えず、ただ銭の力で我らを殺すというのか!」
一ヶ月後。
加賀で反乱を企てた国衆たちは、一戦も交えることなく、自らの領民に見放され、完全に孤立し降伏した。
血は一滴も流れなかった。
だが、そこには武力による制圧よりも遥かに恐ろしい、経済という力による絶対的な支配の現実だけが残った。
評定の席で、信長は満足げに笑った。
「見事よ、仁斎。これぞ新しい戦の形。刀ではなく、算盤で敵を斬る」
だが、前田利家の顔は複雑だった。
「確かに血は流れませなんだ。しかし…」
「しかし、何だ?」
信長が問う。
「民は、銭のために主を裏切りました。これは…武士の世の終わりではございませぬか」
信長は、その言葉に大笑いした。
「利家よ。武士の世など、とうに終わっておる。これからは、銭と法の世よ」
その夜、仁斎は一人執務室で、報告書をまとめていた。
加賀の国衆制圧により、他の地域の抵抗も急速に萎んでいった。
皆、経済封鎖の恐ろしさを目の当たりにしたのだ。
仁斎は、ただ静かに目を閉じた。
『血を流さずして敵を滅ぼす。これこそが、俺の目指したM&Aの究極の形だ。だが、この冷徹すぎるやり方は、人々の心に尊敬と同時に、底知れぬ恐怖を植え付けたであろう』
彼は外をふと見下ろした。
大坂の街は、相変わらず繁栄していた。
『この恐怖が、やがて何を生むのか。俺の計算には、まだその答えはない』
株式会社・日本の経営は順調だった。
順調すぎた。
その完璧すぎるシステムの上で、創業者CEOである第六天魔王の心が、少しずつ乾き、そして歪んでいくのを、この時の仁斎は、まだ知る由もなかった。
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