第五十五話:天下執政という新たな座
天正二十二年(1594年)如月。
織田信長、六十歳。
大坂城の評定の間は、異様な緊張感に包まれていた。
居並ぶ諸大名たちは、上座に座る信長が何を言い出すのか、固唾を呑んで待っている。
信長は、ゆっくりと立ち上がった。
その動作は、若い頃のような俊敏さこそ失われていたが、代わりに圧倒的な威厳を纏っていた。
「征夷大将軍」
信長は、その言葉を口にすると、鼻で笑った。
「関白」
再び、嘲笑。
「太政大臣」
三度目の嘲笑の後、信長は諸将を見渡した。
「古い。全て古い。腐った肩書きよ」
徳川家康が、慎重に問いかけた。
「では、上様は…」
「新しい世には、新しい座が必要よ」
信長は断言した。
「これより、ワシは『天下執政』を名乗る」
広間にどよめきが走った。
聞いたこともない肩書き。それは朝廷の官位でもなければ、武家の職制でもない。
仁斎が、その新しい制度の説明を始めた。
「天下執政とは、天皇陛下の大御心を体し、日本国の政務を執り行う職にございます」
彼は用意していた図を広げた。そこには、新しい統治機構が描かれていた。
最上位に天皇。その下に、形式的な朝廷組織。
そして並列して、実権を握る「執政府」。
「帝は、日本国民統合の象徴として、京都御所にあって祭祀を司られる。我らは、その大御心を奉じて、実際の政務を執り行う」
近衛前久が、苦渋の表情で口を開いた。
「それでは、朝廷は…」
「朝廷は朝廷。永遠に続く」
信長は言い切った。
「ただし、政に口出しはさせぬ。それだけのことよ」
これは、革命だった。
千年続いた朝廷政治を形骸化し、全く新しい統治機構を作り上げる。
征夷大将軍のような「朝廷から与えられる」職ではなく、自ら作り出した職に就く。
石田三成が、具体的な組織図を説明した。
「執政府の下に、五つの奉行所を設けます」
総務奉行 - 人事と組織管理
勘定奉行 - 税制と国庫管理
軍事奉行 - 国防と治安維持
通商奉行 - 貿易と産業振興
評定奉行 - 法律の制定と司法
「各奉行は、能力により選ばれ、天下執政が任免する」
前田利家が、震える声で問うた。
「それでは、我ら大名は…」
「大名?」
信長は、また嘲笑した。
「もはや大名などという古い呼び名は要らぬ。これからは『国司』よ」
国司。
古い言葉だが、新しい意味を持たされた。
仁斎が説明を継いだ。
「各地の統治者は、執政府から任命される国司となります。世襲は認めません。任期は五年。実績により再任もあれば、更迭もある」
これは、封建制度の完全な否定だった。
毛利輝元が、蒼白な顔で立ち上がった。
「そ、それでは、我らが先祖代々守ってきた所領は…」
「守ってきた?」
信長の声が、急に冷たくなった。
「違うな。しがみついてきた、の間違いであろう」
信長は、全ての諸将を睨みつけた。
「良いか。これよりこの日本に『俺の土地』など存在せぬ。全ては日本国の土地。お前たちは、その管理を任されているに過ぎぬ」
宇喜多秀家が、若い声で問いかけた。
「では、その国司とやらは、どのように選ばれるのですか」
「実力よ」
信長は即答した。
「織田政商塾での成績。実際の統治での成果。それらを数字で測り、最も優れた者を選ぶ」
そして、信長は爆弾を投下した。
「最初の人事は、もう決めてある」
彼は、一枚の紙を取り出した。
加賀国司 - 前田利家(再任)
越後国司 - 上杉景勝(更迭)→ 石田三成
安芸国司 - 毛利輝元(更迭)→ 黒田如水
更迭される者たちの顔が、見る見る青ざめていく。
「安心せよ」
信長は、残酷な笑みを浮かべた。
「更迭された者も、能力次第で別の地位を与える。逆に、今は低い地位の者も、実力があれば国司になれる」
それは、究極の実力主義だった。
評定が終わった後、仁斎の執務室に、桔梗が現れた。
「宰相様。諸大名の動きをご報告します」
彼女の報告は、予想通り不穏なものだった。
上杉、毛利を中心に、密かな連絡が始まっている。
「やはりな」
仁斎は、冷静に受け止めた。
「急激すぎる改革は、必ず反動を生む」
「如何なさいますか」
「泳がせろ。そして、動いた瞬間に…」
仁斎は、親指で首を切る仕草をした。
桔梗は、無表情に頷いた。
だが、去り際に一言。
「織田信長という男は、恐ろしいお方ですな」
「恐ろしい?」
「ええ。全てを破壊することに、一片の躊躇もない」
桔梗の声には、憎しみと、そして奇妙な敬意が混じっていた。
その夜、信長は天守の最上階で、仁斎と二人きりで酒を酌み交わしていた。
「仁斎よ。ワシは征夷大将軍にも関白にもならなかった」
「はい」
「なぜだか分かるか」
仁斎は、少し考えてから答えた。
「それらは全て、過去の遺物だからでしょう」
「その通りよ」
信長は、満足げに頷いた。
「ワシは、過去に縛られぬ。ワシ自身が、新しい時代そのものよ」
信長は、盃を干した。
「だが、仁斎。お前は違う」
「…と、申されますと」
「お前は、未来を知っている。だから、過去も未来も、全てを計算に入れて動く」
信長の瞳が、鋭く光った。
「それが、お前の強さであり…弱さよ」
仁斎は、その言葉の意味を測りかねた。
だが、信長はそれ以上語らなかった。
ただ、夜空を見上げて呟いた。
「天下執政か。悪くない響きよな」
その声には、満足と、そしてまだ満たされない何かへの渇望が、同時に込められていた。
新しい時代の統治機構は、こうして産声を上げた。
だが、それは同時に、新たな対立と混乱の始まりでもあった。
日本という国は、信長という一人の男の意志により、全く新しい形へと作り変えられようとしていた。
それが吉と出るか凶と出るか。
答えを知る者は、まだ誰もいなかった。
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