第五十四話:法という新しい刀
信長は夜空に浮かぶ月を一瞥し、かつて感じたはずの高揚が、今は微塵も湧いてこないことに気づいた。
そうだ。ワシは変わったのだ。仁斎が、そしてあの異国の海賊がワシを変えた。
『刀も算盤も契約も、全ては道具に過ぎぬ。ワシはその全ての道具を使いこなし、ワシのやり方で天下を作り変える』
そしてその最初の仕事が何であるかを、彼はすでに決めていた。
この国の成長を阻害する最大の非効率。
――身分という古くそしてつまらぬ鎖を、断ち切ることだ。
評定の間に座す、譜代の家臣たちの顔が目に浮かぶ。奴らはきっと泣きついてくるだろう。過去の手柄を並べ立て、ワシの情に訴えかけてくるに違いない。
…そう、あの、青山信濃守がそうであったようにな。
信長の脳裏に、数ヶ月前の、ある裁きの場の光景が蘇る。
***
『…思えば、あの男が現れてから、ワシの日課は大きく変わった』
早朝の鷹狩りはなくなり、代わりにこの執務室で日の本の全ての富が記された帳面を眺めることが常となった。
茶頭が持ってくる名物の茶器を見ても、まず思うのはその景色ではなく値打ちよな。「この茶碗一つで鉄砲が何丁買えるか」と。
『…つまらぬ男になったものよ。だが面白い。これまでの何よりも面白いわ』
その変貌を決定づけたのが、あの裁きだった。
訴えられていたのは、織田家譜代中の譜代。信長の父、信秀の代から織田家に仕える老臣、青山信濃守。
訴えの内容は、彼の領地での不当な税の取り立てと、収支報告の改竄だった。
石田三成が提出した帳面という名の証拠は完璧だった。数字は決して嘘をつかない。
裁きの場に引き出された青山信濃守は、しかし罪を認めなかった。
彼は信長の前にひれ伏し、涙ながらに訴えた。
「上様! 若輩者の算盤なぞ分かりませぬ! なれどこの青山、先代様より五十年、織田の家にお仕えし、この命を捧げてまいりました! そのこのワシの長年の忠義を、お忘れになりましたか!」
それは法や理屈ではない。ただ一途な情への訴えだった。
信長はその時確かに迷った。
長年ワシに仕えてきたあの男の顔には見覚えがあった。幼き頃うつけと呼ばれたワシを、諫めてくれた記憶すらある。
だが信長の視線が、仁斎が作り上げた新しい「法」の草案へと落ちる。
その第一条にはこう記されていた。
「罪は、法の下に、平等である」と。
信長は自らの情を殺した。そして法を選んだ。
彼は冷徹な声で言い放った。
「…過去の功は功。今の罪は罪よ。功には禄で報いた。罪には法で報いる。それだけのことだ」
信長は青山信濃守の命を奪うことはしなかった。
ただ法に記された通り、全ての領地と身分を剥奪し追放するという判決を下した。
それは武士にとって死よりも重い屈辱かもしれなかった。
***
そうだ。あの時ワシは完全に過去と決別したのだ。
信長は現在の思考へと戻る。
『ワシの気まぐれで揺らぐ国よりも、揺るぎない法で動く国の方が遥かに強くそして富む。なぜならその方が効率的だからだ』
彼の価値基準は、仁斎の教えた「投資対効果」に置き換えられていた。
『ならば感傷は不要よな。武士の誇りなぞという計量できぬ曖昧な価値観こそ、このワシの新しい天下布武の最大の敵だ。全て一度破壊し、数字の上に再構築する』
信長は立ち上がると傍らに控える小姓に命じた。
「仁斎と三成を呼べ。――評定を開くぞ」
彼の瞳にもはや迷いは一切なかった。
第六天魔王による日本という国の社会構造そのものの、解体と再構築が今始まろうとしていた。
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