第五十三話:葡萄酒と契約
天正二十一年(1593年)晩秋。
大坂城の天守、その最上階。
織田信長は一人自室で物思いにふけっていた。
窓の外には彼が、そして仁斎が作り上げた巨大な城下町が、まるで星屑を撒き散らしたかのように広がっている。
その輝きはかつて彼が築いた安土城をも遥かに凌駕していた。
だが信長の手の中にあるのは、彼がかつて最も愛した名刀「へし切長谷部」ではなかった。
一本の質素な算盤。
彼の脳裏に、この数年余りで自らの価値観を根底から覆した、いくつかの出来事が蘇る。
***
最初の変革の兆しは、マニラを陥落させた直後の旗艦「安土」の船上で訪れた。
船内には接収した莫大な財宝が運び込まれ、諸将は戦勝の熱気に浮かれている。
信長もまた、戦利品であるイスパニア製の豪奢な長剣を手に取り、その見事な作りを満足げに眺めていた。
「見事な作りよな。奴らの将の一人から奪ったものか」
その信長の言葉に、傍らに控えていた仁斎が静かに口を開いた。
「上様。その剣一本を手に入れるために我らが費やした弾薬と兵糧。その値はおよそ銭千貫。なれどこの港を手に入れたことで、我らは今後一年でその百倍の富を手に入れることができます」
仁斎は続けた。
「この戦で最も価値ある戦果は、目の前の宝ではございません。この港の徴税権という、富を生み出し続ける仕組みそのものにございます」
信長は手の中の長剣と仁斎の顔を交互に見比べた。
そして彼は生まれて初めて、戦というものを全く違う視点から見つめ直していた。
『…そうか。ワシはこの剣で敵を斬り伏せることしか考えておらなんだ。だが仁斎は、その戦の裏で動く銭の流れを見ていたのか。…戦に勝つことと戦で儲けることは違う。…刀ではない。この銭の流れを操る算盤こそが、真の天下布武の道具か…!』
信長は手にしていた長剣を無造作に床へ置くと、部屋に置かれた一つの算盤を取り上げ、その珠を無言で弾き始めた。
第六天魔王が生まれて初めて、刀よりも強い力をその手にした瞬間だった。
***
次なる変貌は、同じく、その航海の途上で訪れた。
新しい価値観に目覚めた信長は、もう一人の異質な価値観を持つ男、英国の海賊王キャプテン・キャベンディッシュに強い興味を抱く。
「仁斎。あの英国の狼を呼べ。二人きりで酒を酌み交わしたい」
その酒宴は奇妙なものだった。
無駄な装飾を一切排した静かな船長室。信長とキャベンディッシュ、そして通訳として堺の南蛮商人を同席させた。
最初こそ通訳を介していたが、やがて信長は「まだるっこしい!」と一喝し通訳を下がらせた。
そこから言葉の通じない二人の王による真の対話が始まった。
信長は日本語で威厳を持って語りかける。キャベンディッシュは英語で不敵に応じる。
彼らは互いの言葉の意味は分からない。だがその表情、声のトーン、そして身振り手振りから、相手が何を言わんとしているのか、その本質を感じ取っていく。
信長は腰の刀を指し「これで国を獲る」とジェスチャーする。
それに対しキャベンディッシュは一枚の羊皮紙(イングランド女王からの私掠免許状)とイスパニアの金貨を取り出し、羊皮紙を指し、次に金貨を指し、そして遠い海を指差す。「許可があれば富は奪って良い。それが我らの契約であり、我が国の理だ」と、彼は身振りで示した。
『これは起請文とは違う。神仏に誓うのではなく、人と人との約束事か』
信長はそのキャベンディッシュの示す「許可証」と「契約」という概念に、再び雷に打たれたような衝撃を受けた。
『こんとらくと(契約)…。面白い。力で奪うだけが能ではない。紙切れ一つで奪うことを許されるという、るーる(法)。…仁斎の言う信用の正体はこれか。よし、ならばワシもその武器、使わせてもらうぞ』
彼は武力や恐怖、あるいは金銭的な利益だけでなく、「契約」や「法」という形式的な正当性こそが、人をそして国を支配するための、新しい強力な武器であることを、この異国の海賊王との対話から学んだのだ。
***
長い追憶から信長は意識を引き戻した。
外に広がる夜景を見下ろす彼の瞳にはもはや単なる征服者ではない、新しい時代の絶対的な支配者としての昏い光が宿っていた。
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