第五十一話:寺社という聖域
信長が創設を宣言した「織田政商塾」。
それはこの国の支配者層の在り方を根底から変えようとする革命的な試みだった。
しかし信長の野心はそれに留まらなかった。
彼が次にその算盤の矛先を向けたのは、武家社会とはまた別の巨大な権力機構。
――寺社勢力だった。
「天下布武の値踏み」が進むにつれ、石田三成がもたらす報告書は信長と仁斎を驚愕させた。
全国の有力な寺社が保有する荘園、そしてそこから上がる莫大な年貢。それらはほとんどが「聖域」として非課税の特権を享受している。
その資産規模は並の大名を遥かに凌駕していた。
『延暦寺の荘園三千町歩、年貢にして五万石相当』
『東大寺の大仏殿修復の勧進で集まった銭、実に十万貫』
評定の席で仁斎がその事実を報告すると、諸将は苦々しい顔で黙り込んだ。彼らにとって寺社勢力は戦国時代を通じて何度も煮え湯を飲まされてきた厄介な相手だったからだ。
信長はその報告書を眺め、ただ一言言い放った。
「面白い。坊主どももまた大名よな。ならば他の大名と同じく、ワシの定めた新しい掟に従ってもらうまで」
信長の言葉に誰もが息を呑んだ。
特に比叡山延暦寺を焼き討ちにした過去を持つこの男が、一体何を始めるのかと。
だが信長が仁斎と共に打ち出した政策は、彼らの想像を絶するものだった。
彼は諸将の前で宣言した。
「これより日の本全ての宗門に対し、それぞれの信じる道を認めてやる。いかなる神仏を信じようとワシは一切口出しはせぬ。その代わりだ」
信長の瞳が鋭く光った。
「その有り余る富から相応の税を国へ納めてもらう。それが新しい世の決まり事よ」
『宗教を武力で弾圧するのではない。一個の“法人”として認めその活動の自由を保証する代わりに納税の義務を課す。そしてその布教活動を、国家が許状を与え保護する。…上様は俺の教えた概念を完全に自らのものにしている。しかも俺以上に大胆に、そして的確に』
仁斎は信長の進化の速度に、もはや戦慄すら覚えていた。
そしてその最初のターゲットとして信長が選んだのは、かつて十年にも及ぶ血で血を洗う死闘を繰り広げた宿敵中の宿敵。
一向宗・本願寺だった。
京都七条堀川に居を移した本願寺の一室。
信長と仁斎の前に、宗主・顕如が、深い緊張と警戒の面持ちで座していた。
石山合戦の終結からすでに十年以上の歳月が流れている。
信長は静かに切り出した。
「顕如。ワシと貴様は十年殺し合った。無駄な戦であったな。…だがこれからは違う。ワシは貴様の持つ力を認めておる。一向宗の門徒が持つあの恐るべき団結の力と篤き心。あれは金では買えぬ宝よ」
信長は顕如に新しいディールを提示した。
「ワシに従え。さすれば貴様の教えは、この日の本全ての場所でこのワシが安寧を守ってやる。貴様の商いの邪魔をする者は、この信長が全て斬り捨てる。…その代わりだ。坊主である前にこの国の民として相応の税を国へ納めてもらう。そして二度と武器は持たぬと誓え。…どうだ顕如。悪くない商いであろう?」
それは顕如にとって拒絶できる提案ではなかった。
武力を放棄し納税する代わりに、この国で最も強力な権力者から布教の独占的な権利と安全を保証されるのだ。
長い沈黙の末、顕如は深々と頭を下げた。
ここに百年近く続いた織田家と本願寺との長きにわたる戦いが、「歴史的な和解(M&A)」によって完全に終結した。
この前代未聞の和解は全国の寺社勢力に衝撃を与えた。
過激な教義を持つ日蓮宗は激しく反発の姿勢を見せたが、禅宗諸派は静観を決め込む。
そして何よりこの報は、全国に散らばる一向宗の門徒たちの心を大きく揺さぶった。
ある村では農民たちが戸惑いの声を上げていた。
「わしらの殿様が織田の殿様に頭を下げられたと…」
「もう戦はせぬのか。税を納めるだけでええんか…」
彼らは半信半疑ながらもその顔には安堵の色が浮かんでいた。もう家族が戦に行かなくても済む。その事実が何よりも大きかった。
仁斎は自らが作り上げた新しい秩序が、日本社会の根幹を作り変えていく様を目の当たりにしていた。
『あの第六天魔王が宗教の自由を保証するだと…? ありえない。俺の知る歴史では絶対にありえない光景だ。この男は一体どこへ向かろうとしているのか。俺の計算が全く追いつかない…』
仁斎の描いた設計図を信長は自らの色で、より大胆にそしてより過激に塗り替えていく。
その巨大なうねりの先に何が待ち受けているのか。
仁斎の胸に興奮と、そしてそれと同じくらいの大きさの不安が渦巻き始めていた。
最後までお読みいただきありがとうございました!
少しでも面白いと思っていただけたら、下の☆で評価やブックマークをいただけると嬉しいです!




