第五十話:朝廷という既得権益
「天下布武の値踏み」は日の本に激震をもたらした。
仁斎と三成が率いる調査は諸大名の抵抗をものともせず、その全ての富と力を冷徹な数字へと変えていく。
だが、その流れに敢然と立ちはだかる、最後の、そして最強の壁があった。
千年の都、京の朝廷と公家衆である。
五摂家筆頭の近衛前久は、織田の使者に対し、毅然として言い放った。
「我らが有する荘園、そして官位は、帝より賜りし神聖なもの。武家の物差しで計られるいわれはない」
それは千年の歴史を盾にした絶対的な拒絶だった。
だが同時に、その強気の裏には隠しきれない不安があった。
朝廷の実際の経済基盤は、想像以上に脆弱だったのだ。
九条家の若き当主が密かに試算したところによれば、公家全体の荘園収入は合わせて三万石。
しかし、官位授与の際に大名から受け取る「成功」と呼ばれる献金を含めれば、その十倍、実に三十万石相当の価値があった。
若い公家たちは、その現実に気づきながらも、口に出すことはできなかった。
千年の誇りが、実は献金で成り立っているという事実を。
その報告を受けた信長は、大坂城の天守でただ不敵に笑った。
「権威だと? 古い決まり事だと? 笑わせる。値の付かぬものなぞ、この世にはないわ」
彼は傍らに控える仁斎に命じた。
「仁斎よ。次は朝廷だ。あの最も古く、最も厄介な砦を"買収"するぞ」
その言葉に仁斎は静かに頷いた。
彼の頭脳では、すでにこの難題に対するディールの設計図が完成していた。
『朝廷は武力では決して制圧できない。その価値の源泉は物理的な資産ではなく、人の心に根差した「権威」という無形資産だからだ。ならば、その無形資産の構造そのものを、こちらに都合よく作り変えるしかない』
仁斎は信長に、その壮大な計画の全貌を語り始めた。
「上様。帝と朝廷の権威を奪うのでも、壊すのでもございません。むしろその逆。誰も手が届かぬ天上の存在として、これまで以上にお祀り申し上げるのです」
「ほう?」
「かつて平清盛も、後白河法皇も、政と権威の関係に悩まれました。武力で抑えようとして、結局は失敗した。我らは違います」
仁斎は一枚の図を広げた。
そこには新しい国家構造が描かれていた。
「帝を、この日ノ本の民の心を束ねる絶対の標として天上に置き、我らはその帝の御名の下に天下の政を執り行う臣下となるのです。これにより、我らの全ての行いは帝のお墨付きを得た、揺るぎなきものとなります」
「そして」
仁斎は核心に触れた。
「これまで公家たちが独占してきた官位の授与。これを我らが取り仕切ります。いわば朝廷の権威そのものを、我らが元締めとなり、諸大名へ分け与えるのです。その見返りとして上納される銭で、朝廷と我らが共に潤う。新しい金の流れを作るのです」
信長は、そのあまりに冒涜的で、そしてあまりに合理的な計画に、腹を抱えて笑った。
「ククク…面白い! 神や仏すらも商いの道具にするか、貴様は! よかろう、その"企て"、ワシが乗った!」
数日後。京の聚楽第。
信長と仁斎は、関白・豊臣秀次、そして五摂家の筆頭たち―近衛前久、九条兼孝、二条昭実、一条内基、鷹司信房―と対峙していた。
仁斎が淡々と新しい国家の形を説明していく。
「朝廷の年中行事、これまで通り盛大に執り行います。いや、これまで以上に。その費用は全て我らが負担いたします」
公家たちの間に、かすかな安堵が広がった。
だが、それは罠だった。
「ただし」
仁斎は続けた。
「官位の授与に関する一切の実務は、我らが設立する『官位院』にて取り仕切らせていただきます。もちろん、形式上は全て帝の御名にて行われますが」
清華家の筆頭、西園寺公益が青ざめた。
「そ、それでは我らは…」
「ご安心を。公家の皆様には、相応の俸禄を保証いたします。これまでの不安定な荘園収入より、はるかに安定した暮らしが約束されましょう」
それは黄金の鎖だった。
経済的安定と引き換えに、千年の特権を手放せという取引。
信長は公家たちの顔を見回しながら言い放った。
「官位など、しょせんは値札の付いた品物よ。『成功』という名の代金を払えば手に入る。違うか?」
その露骨な表現に、公家たちは顔を青ざめさせた。
千年の伝統を、一言で商売に例えられたのだ。
一人の老いた公家が震える声で反論した。
「そ、そのような無礼、帝がお許しになるはずが…」
その言葉を遮り、信長が凄みのある声で言い放った。
「古いだけの者に、未来はない」
信長は公家たちを、一人一人値踏みするように見据えた。
「ワシと共に新しい天を作るか。あるいは、ここで歴史の藻屑として消え去るか。選ぶがよい」
それは交渉ではなかった。ただの通告だった。
重苦しい沈黙の後、若き後陽成天皇からの勅使が到着した。
勅使は震える声で、帝の御意を伝えた。
「帝は仰せられた。『朕は民の安寧を願うのみ。政は信長に任す』と」
それは事実上の承認だった。
若き天皇もまた、時代の流れを読んでいたのだ。
かくして、株式会社・日本の新しい統治機構が誕生した。
天皇は国民統合の「象徴」として、全ての権威の源泉となる。
織田信長は、その信任を受け、国家の全ての意思決定を行う者として君臨する。
彼は自らを「天下人」と呼ばせ、朝廷からは形式的に「太政大臣」の位を授かったが、実質的には帝をも超える権力を握った。
そして長谷川仁斎は、その実務を統括する「大宰相」となる。
官位は、仁斎が作り上げた制度の下で、その功績と納税額に応じて大名たちへ与えられる「資格」となった。
大納言は年貢三万石以上、中納言は二万石以上という具合に、明確な基準が設けられた。
近衛前久は、苦渋の表情で呟いた。
「我らは…千年の誇りを、銭で売ったのか」
だが、九条家の若き当主は、むしろ安堵していた。
「いや、これで良いのだ。不安定な荘園経営より、確実な俸禄の方が…」
公家たちの反応は、世代によって大きく分かれた。
石田三成は、新制度の詳細を説明した。
「官位院の収入は、年間推定五十万石。うち二十万石を朝廷の維持費に、十万石を公家への俸禄に、残り二十万石が織田政権の収入となります」
それは完璧な収支計画だった。
仁斎は、自らが作り上げた新しい仕組みを眺めながら思考していた。
『朝廷という最も非効率で、最も強力な既得権益を買収し、収益事業へと転換させた。これで、この国の権威と経済は、完全に一つの歯車として回り始める』
彼の計画は完璧だった。
合理的で、効率的で、そして一切の無駄がない。
だが同時に、一抹の不安が胸をよぎった。
『…この仕組みは、あまりに合理的すぎる。あまりに人間味がない。千年の伝統を、たった一枚の契約書で塗り替えてしまった。いつか、この完璧な歯車が、人の心によって狂わされる日が来るやもしれぬ』
その不安を振り払うように、仁斎は机上の書類に目を落とした。
そこには次なる改革案が記されていた。
「寺社仏閣の特権について」
「武士階級の再編成について」
それは、寺社仏閣の在り方の再定義、侍という身分そのものの解体、というさらに過激な計画だった。
日本という国の、さらなる変革が始まろうとしていた。
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