第五話:中国大返し
羽柴秀吉との基本合意が成立した瞬間から、仁斎の思考は次のフェーズへ移行していた。
『代理人は確保した。次に行うべきは、最速でのクロージング、すなわち明智光秀の排除。そのためには、まず目の前の毛利という名の負債を、最小コストで切り離す必要がある』
仁斎は、秀吉と官兵衛を前に、交渉の要諦を提示した。
「毛利との和睦、条件は三つ。備中・美作・伯耆の割譲。城兵の助命。そして、清水宗治殿の切腹。これ以上を求めてはなりませぬ」
「それでは、こちらが譲歩しすぎではないか」
訝る秀吉に、仁斎は静かに首を振った。
「今は、時間を買うことが最優先。そして、最も重要なのは、我らが上様の死を知っているという事実を、毛利方に悟られないことです」
『情報の非対称性の維持。これが、この交渉における最大のレバレッジだ』
仁斎の策に基づき、秀吉の代理として交渉に赴いた僧・安国寺恵瓊は、秀吉軍のあまりに寛大な条件と、信長の死を知らぬがゆえの焦りから、即日で和睦を締結した。
こうして、織田家中国方面軍は、その身を拘束していた鎖から解き放たれた。
だが、本当の戦いはここからだった。二万を超える大軍を、一日でも早く京へ。
兵たちが、絶望的な表情で囁き合う。
「京まで、二十五里…。我らの足では、十日はかかる…」
「途中の兵糧はどうするのだ…」
その不安を、仁斎は冷徹な計算で塗り潰していく。
「羽柴様。沿道の村々から、銭で米と兵糧を全て買い上げてください。通常の倍の値を払いなさい。それと、替えの草鞋もです」
「銭を…? ばら撒けと申すか!」
「これは、費用ではございません。未来への投資です」
『サプライチェーン・マネジメントの要諦は、ボトルネックの解消にある。兵の疲労と食料不足。それを金で解決できるなら、安いものだ』
仁斎の言葉通り、秀吉軍は破格の対価で道中の村々から兵糧を買い上げ、協力を取り付けた。
結果、驚くべきことが起こった。
村人たちは、金で潤うだけでなく、秀吉軍を「上様の仇を討つ義軍」として、こぞって支援し始めたのだ。炊き出しを行い、道を整備し、次の村へと情報を伝達する。
『地域社会を巻き込むCSR活動(企業の社会的責任)は、プロジェクトの円滑化に貢献する。人心掌握は、カネと大義名分で加速する』
兵士たちは、ただ歩くことに集中すればよかった。疲れて宿営地にたどり着けば、温かい食事と新しい草鞋が待っている。疲労の回復速度が、通常の行軍とは比較にならない。
この前代未聞の進軍は、もはや奇跡ではなく、仁斎という名のプロジェクトマネージャーが設計した、緻密なロジスティクスの賜物であった。
姫路城に到着した時点で、秀吉の元には、織田信孝(信長の三男)や池田恒興といった諸将が合流し始めていた。
仁斎は、信長の私印を「委任状」として使い、彼らを次々と秀吉の指揮下に組み込んでいく。
【対象:織田 信孝】
* 資産(Assets):
* 織田家の血筋(ブランド価値): 90
* 負債・リスク(Liabilities & Risks):
* 判断力: 30
* 野心と能力の乖離: 75
* 定性コメント: 経営能力は皆無だが、その血統は利用価値が高い。「名誉会長」として担ぎ、我々の行動を正当化する象徴として最適。
『これで、我々はクーデター勢力ではなく、織田家の正統な後継者を擁した本流となる。**委任状争奪戦**の第一ラウンドは、我々の勝利だ』
仁斎は、信孝を総大将として形式的に立て、実権は秀吉と自らが握るという、完璧な統治体制を瞬時に構築した。
軍勢は四万に膨れ上がり、ついに京の喉元、摂津国・富田に着陣した。
明智光秀の軍勢は、目と鼻の先、山崎の地に布陣している。
仁斎は、最後の【査定】を行う。
【プロジェクト:経営権奪還】
* 自社(羽柴軍)資産: 兵力40,000、士気90、兵站潤沢
* 競合(明智軍)資産: 兵力16,000、士気65、地の利(地理的アドバンテージ)有り
* 勝率予測:80%
* 特記事項:短期決戦が必須。長期化は、他の重臣(柴田勝家など)の介入を招くリスク有り。
『デューデリジェンスは完了した。資産状況はこちらが圧倒的有利。あとは、マーケットが閉じる前に、迅速にクロージングするだけだ』
仁斎は、隣に立つ秀吉へ、静かに告げた。
「羽柴様。ご決断を」
秀吉は、獰猛な笑みを浮かべた。
「決まっておるわ。――天下分け目の大戦じゃ!」
仁斎は、山崎の地平を見据えた。
『これより、敵対的経営陣(明智光秀)の排除を目的とした、最終買収フェーズに移行する。戦場は、山崎。ディールの名は――経営権奪還』
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