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戦国M&A ~織田信長を救い、日本という国を丸ごと買収(マネジメント)する男~  作者: 九条ケイ・ブラックウェル
第二章:世界展開編
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第四十九話:天下布武の値踏み

天正二十一年(1593年)如月。

「織田政商塾」の設立から、はや二月が過ぎていた。


大坂城下の旧奉行所を改装した塾舎では、朝な夕な武士たちの珍妙な光景が繰り広げられていた。

刀を脇に置き、不慣れな手つきで算盤を弾く者。

墨で帳面に数字を書き付けながら、首を傾げる者。

中には、算盤の珠を刀の柄のように握りしめ、「これでは敵は斬れぬ」と嘆く老将の姿もあった。


前田利家は、息子の利長に愚痴をこぼしていた。

「四十年、槍一筋で生きてきたこのワシが、今更算盤とはな…」

だが利長は目を輝かせていた。

「父上、これは面白うございます。我が領地の米の流れを数字で追えば、どこで無駄が生じているか一目瞭然。まるで戦場の地形を読むが如し」


一方、細川忠興は水を得た魚のように、新しい学問に没頭していた。

「ふむ、年貢米を銭に換える際の相場の変動…これを読めば、いつ売るべきかが分かる。これぞ新しい戦よ」


仁斎と石田三成が作り上げた教本は、極めて実践的だった。


第一章「兵糧算用之事」では、一万の兵を動かすのに必要な米の量を、輸送距離と損耗率から割り出す方法。

第二章「築城経済学」では、城の普請における人足の雇い賃と工期の関係から、最も効率的な工事計画を立てる術。

第三章「領国経営之極意」では、年貢米だけでなく、特産品の流通や鉱山の採掘権など、領地に眠る「隠れた富」の見つけ方。


まさに戦国武将を「経営者」へと作り変えるための手引書だった。

だが、その教えを最も貪欲に、そして恐るべき速さで吸収していたのは、他の誰でもない織田信長その人だった。

信長は塾頭である仁斎を毎日のように天守へ呼びつけ、矢継ぎ早に問いを投げかけた。


「仁斎。昨日の講義で申した『信用』とは何だ」

「商いにおいて最も大切なもの。約束を守ることで生まれる目に見えぬ財産にございます」

「ふん。ならばワシの信用はいかほどの値打ちがある?」

「それは…計り知れませぬ」

「計れぬ? 貴様の得意な数字で示せぬのか?」


信長は立ち上がり、大坂の城下を見下ろした。

「この『商い』とやらは面白い。だが、まだるっこしい。もっと速く、そして大きく儲けるやり方はないのか」

「上様。商いは信用が第一。急いては事を仕損じます」

「戯言を。ワシは待つのが嫌いよ」


信長は仁斎が作成したマニラ遠征の収支決算書を手に取った。

「この紙切れ一枚で戦の値打ちが決まるというのなら、話は早い」

彼は軍配で城下を指し示した。

「――日の本、全てのものの値打ちを決めればよいではないか」


その言葉が、全ての始まりだった。


翌日の評定。

信長は諸大名を前に、新たな大号令を発した。


「これより、日の本の全てを『値踏み』する」


徳川家康が慎重に問うた。

「値踏み、と申されますと?」

「商人が品物の値を見定めるように、全国の大名、寺社、豪商、その全てが持つ力と富を、余すところなく調べ上げ、数字にするのよ」


毛利輝元が困惑の声を上げた。

「しかし、他家の内情を探るなど…」

「探るのではない。堂々と調べるのだ」

信長は断言した。

「これは命令ではない。『織田政権への協力要請』だ。断る者は…まあ、その程度の器ということよな」


一同に緊張が走った。これは事実上の強制だった。

堺の会合衆の長老、今井宗久が進み出た。

「恐れながら、それは座の特権を侵すことに…」


「座?」

信長は鼻で笑った。

「楽市楽座を忘れたか。古き既得権益は、全て数字の前には平等よ」


仁斎はこの計画を心中で「全国規模の企業査定」と呼んだ。

だが信長は、その難しい響きを一蹴し、自らその計画に名を与えた。


「天下布武の値踏み」と。


京、朝廷。

関白・豊臣秀次は、この報せに顔を青ざめた。

「織田殿が、全国の値踏みを…?」


秀次は秀吉亡き後、信長の許可を得て関白職を継いでいたが、その立場は極めて不安定だった。

若き後陽成天皇は、御簾の奥から不安げに問うた。

「信長が生きていたことすら青天の霹靂であったのに、今度は朝廷の権威にまで挑むというのか」


比叡山延暦寺。

座主の慈円は、重臣たちを集めて告げた。

「織田殿の算盤は、やがて我らの寺領にも及ぶだろう。山門領三千町歩、末寺五百…全てを数字にされれば、課税の口実となろう」


京都、西本願寺。

本願寺派の重臣たちが密談していた。

「石山を追われて十余年。ようやく落ち着いたと思えば、今度は財を数えられるとは」

「信長殿は、我らを商人のように扱うおつもりか」


こうして桔梗率いる影の部隊と、三成が束ねる文官たちが、全国へと散っていった。


彼らは各地の石高を調べ、鉱山の産出量を記録し、港での取引額を集計した。

さらに、守護や地頭といった旧来の徴税システムとの軋轢も、詳細に報告された。


越後、春日山城。

上杉景勝の元に、織田の使者がやって来た。

「値踏みのため、石高、金山の産出量、そして家中の侍の数をお教え願いたい」


景勝は激怒した。

「無礼な! 上杉の内情を、なぜ織田に明かさねばならぬ!」


だが、重臣の直江兼続が諫めた。

「殿、ここは従った方が賢明かと。織田に睨まれては…」

「だが、亡き養父・謙信公の威光を…」

「その威光も、今は数字の前には無力にございます」


やむなく提出された上杉家の「査定書」が、一月後、信長の元に届いた。

深夜、信長は仁斎を呼び出すと、その査定書を突きつけた。

「仁斎。この上杉の値踏み、甘いわ」


査定書には、佐渡金山の年産金三万両(京の金座で鋳造される小判の一割に相当)、越後上布の取引高二万貫、そして上杉軍二万五千の詳細が記されていた。


「確かに大きな富を生む。だが、最大の『負債』が書かれておらぬ」

「負債、と申されますと?」

「あの土地が抱える最大の重荷は、上杉謙信という幻想よ」


信長は立ち上がり、闇に沈む北の空を見据えた。

「『義の武将』『軍神』『毘沙門天の化身』…死して十五年経つというに、あの土地の者どもは、未だに亡霊の威を借りておる」


彼は振り返ると、凄みのある笑みを浮かべた。

「その古臭い誇りこそが、新しい世への最大の障害となる。『義』などという商売にならぬものを後生大事に抱えておる限り、真の富は生まれぬ。ゆえに、この上杉の真の価値は、表面上の数字より百万石は低いと見るべきよな」


仁斎は愕然とした。

信長の査定は、仁斎のそれとは根本的に違っていた。

仁斎が企業の潜在価値を見出そうとする一方で、信長は「変革への抵抗度」を負債として数値化し、それを排除するための口実として、この値踏みを利用しようとしていたのだ。

「上様、それでは公正な査定とは…」

「公正?」

信長は鼻で笑った。

「ワシが決めた値が、公正な値よ。文句があるなら、刀で来い。ワシは算盤で返してやる」


翌日から、信長独自の「査定の物差し」が追加された。

信長は諸将を集めて宣言した。

「良いか、これより三つの物差しで、全ての家を測る」

彼は指を立てた。


「一つ、古き習いへの執着。先祖代々の仕来りに縛られ、新しき世を拒む者は、いずれ朽ち果てる」

「二つ、我が新法への従い。楽市楽座しかり、検地しかり、この政商塾しかり。新しき仕組みを受け入れぬ者に、未来はない」

「三つ、末永く富を生む見込み。今は豊かでも、十年後、二十年後も栄える算段なき者は、やがて滅ぶ」


信長は凄みのある笑みを浮かべた。

「これらで劣る者は、時流に乗れぬ者。いずれ淘汰される定めよ」


加賀、金沢城。

前田利家は、自領の査定書を見て青ざめた。

「『古き戦法に固執し、新しき商いの法に疎し』…これでは、まるで時代遅れの無能者ではないか」


嫡男の利長が慰めた。

「父上、これを機に、我らも変わりましょう。さもなくば…」

「分かっておる。織田様に飲み込まれる、か」


備前、岡山城。

宇喜多秀家は、査定書を見て苦笑した。

「『若年につき末永き見込み未知数』か。ワシもまだまだ青いということよな」


安芸、広島城。

毛利輝元は重臣たちと評議していた。

「我らの水軍と、瀬戸内の海運。これらは『富を生む力あり』と高く評価されているが…」

「『織田の新法への従い薄し』とは、要するに従属度が低いということか」


仁斎は、自室で一人、頭を抱えていた。

『俺が教えたのは、企業価値を正しく測るための道具だったはず。だが、この男は、それを敵の弱点を暴き、合法的に支配するための武器に作り変えた』

信長は、仁斎の物差しを使い、日本全てを値踏みし、その全てを自らの基準で塗り替えようとしていた。

商人たちの間では、新たな言葉が生まれていた。

「値踏みで勝つか負けるか」

「織田の算盤に弾かれたら、お家も終わりよ」

それはもはや、仁斎の知るM&Aではなかった。

第六天魔王による、日本という国の完全なる解体と再構築。

創造的破壊を超えた、破壊的創造。


仁斎は震えた。

自らが解き放った怪物の本当の恐ろしさを、今更ながらに理解したのだ。

そして同時に、心の奥底で、別の感情が芽生えていることにも気づいていた。


『だが…面白い。この男がどこまで行くのか、見てみたい』


かくして「天下布武の値踏み」は、期待と恐怖、希望と絶望を撒き散らしながら、戦国の世に最後の激震をもたらすことになる。


算盤が刀を制する新しい時代の、それは序章に過ぎなかった。

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前田家は尾張時代からずっと利家自ら財務管理をしており、金銭のやり取りは一切を利家が自分で算盤を弾いて計算していました。今更算盤どころかこの道数十年のベテランです。
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