第四十八話:算盤を手にした第六天魔王
天正二十年(1592年)師走。
マニラから大坂城へと凱旋した織田信長と長谷川仁斎の船団が、堺の港に入った。
港には堺の豪商・今井宗久、津田宗及をはじめとする商人衆が詰めかけ、異国の富を一目見ようと黒山の人だかりができていた。
「織田様が南蛮を討ち取られた」
その報せは、すでに京・奈良の公家衆、果ては正親町天皇の耳にまで届いていた。
比叡山では天海僧正が眉をひそめ、本願寺では顕如が不安げに数珠を握りしめていた。
天下人の力が、ついに海の向こうにまで及び始めたのだ。
大坂城、大広間。
諸大名を前にした戦果報告が始まった。
前田利家、細川忠興、蒲生氏郷、そして徳川家康。錚々たる顔ぶれが居並ぶ中、石田三成がその涼やかな声で戦利品の目録を読み上げていく。
「――イスパニア銀貨五十万ペソ。これ、我が国の天正大判にして実に五万枚に相当いたします。明国の極上の絹織物三千反。景徳鎮の官窯の磁器五百点…」
前田利家は顔を紅潮させて拳を握りしめた。これは加賀百万石の年貢にも匹敵する富だ。
細川忠興は冷静に一つ一つの品の価値を頭の中で計算していた。
蒲生氏郷は「これが新しい戦というものか」と感嘆の声を漏らした。
ただ一人、徳川家康だけは能面のような表情を崩さず、じっと信長の様子を観察していた。
諸将の興奮をよそに三成は静かに下がり、代わって仁斎が信長の前へと進み出た。
彼が差し出したのは分厚い戦利品目録ではなく、ただ一枚の簡素な和紙だった。
そこには墨で丁寧に、左側に「費やしたるもの」として此度の遠征に動員した兵五万の糧食、鉄砲の弾薬、船の修繕費が記され、右側に「得たるもの」として戦利品の換金予想額と、手に入れたカリフォルニアの海図、マニラ港の徴税権などの無形の価値が記されていた。
「上様。こちらが此度の戦における損益の見立てにございます」
仁斎は、商人が使う「損益」という言葉をあえて用いた。
「此度の戦に費やした銭と米を『一』といたしますれば、我らが手にした富は『十二』。すなわち十二倍の利を得たことになります。これは関ヶ原一戦の戦費をも上回る巨利にございます」
その時、今井宗久の孫で、堺の若き豪商・今井宗薫が思わず声を上げた。
「十二倍…! 南蛮貿易でもそのような利は…」
信長はその一枚の紙を食い入るように見つめていた。
彼は生まれて初めて、自らの戦が「損益」という客観的な数字として示されたことに、雷に打たれたような衝撃を受けていた。
これまで信長は、楽市楽座で商業を自由化し、関所を撤廃して物流を活性化させ、検地で土地の生産力を数値化してきた。
だがそれらは全て、富国強兵のための手段に過ぎなかった。
今、彼は初めて「富そのもの」が目的となりうることを理解したのだ。
やがて信長は、喉の奥でくつくつと笑い始めた。
「ほう…城一つ落とすより、この数字の動きの方がよほど面白いわ」
彼は立ち上がると、軍配を仁斎の持つ紙に向けた。
「これか、仁斎。貴様が常に口にしてきた『商い』の正体は。一万の兵を失う戦より、この一枚の紙切れの方が、よほど大きな戦果を生む」
信長は広間を見渡した。その瞳に宿る光は、もはや単なる征服者のそれではなかった。
「刀ではない。これからは、この算盤とやらが天下を獲る道具となるのだな!」
この瞬間、信長の思考は完全に新たな次元へと飛躍した。
彼は悟ったのだ。自らがこれまで行ってきた天下布武――それはただ力で敵を滅ぼすだけの旧時代のやり方であったと。
本当の天下布武とは、この国の全ての富と人の流れを支配下に置く「仕組み」そのものを作り上げることなのだと。
その数日後。
朝廷への戦勝報告を済ませた信長は、再び評定の席で、諸大名を前に高らかに宣言した。
「これより『織田政商塾』を開く。ワシが天下を仕置く術を、選ばれし者どもに伝授する」
そのあまりに唐突な言葉に、広間は静まり返った。
保守的な老臣の一人が恐る恐る進言した。
「恐れながら上様、武士が商人の真似事など…」
「黙れ!」
信長の一喝に、老臣は震え上がった。
「かつてワシは楽市楽座で商いを自由にした。検地で土地の力を数字にした。今度は武士そのものを変える。これぞ真の改革よ!」
徳川家康が慎重に問いかけた。
「政商塾、とは、いかなるものにございましょうか」
信長は満足げに答えた。
「政は国を治める術、商は富を生む術。この二つを極めた者こそが、真の天下人となる。かつて足利学校が学問を教えたように、我が塾は新しい世の理を教える」
そして彼は仁斎を指名した。
「仁斎! 貴様を塾頭とする! 我が家臣団とその子弟の全てに、この新しい戦のやり方を叩き込め! 数字で国を動かし、算盤で敵を屈服させる術をな!」
前田利家が困惑した声を上げた。
「しかし上様、我ら武士は代々、弓馬の道を…」
「利家よ」
信長は鋭い視線を向けた。
「貴様の加賀百万石も、しょせんは数字ではないか。その数字を、もっと大きくしたくはないか?」
その言葉に、利家は黙り込んだ。
細川忠興は、むしろ興味深そうに身を乗り出した。
「なるほど、戦の新しい形…面白うございます」
仁斎はその光景を見ながら、心中で複雑な思いを抱いていた。
『上様は、ついに理解された。だが、この理解の速さは尋常ではない。俺は眠れる獅子に近代兵器の使い方を教えてしまったのか…?』
だが、その懸念はすぐに別の感情へと変わっていく。
『いや、面白い。この男は自ら学び、そして俺の知識すら超える速さで進化している。株式会社・日本の真の経営者は、二人もいらない。俺か、この魔王か…』
評定が終わった後、堺の商人たちの間では早くも噂が広まっていた。
「織田様が算用塾を開かれるそうな」
「武士も商人も、身分を問わず学べるとか」
「これは、世が変わるぞ」
一方、寺社勢力は不安を募らせていた。
本願寺の使者が密かに比叡山を訪れ、「織田殿の新たな動きをいかに見るか」と相談を持ちかけた。
そして京の公家たちは、朝廷への影響を懸念し始めていた。
「武士が商人の真似をし始めたら、朝廷への献上はどうなるのか」
「いや、むしろ献上が増えるのではないか」
こうして信長の新たな改革は、期待と不安、希望と恐怖を撒き散らしながら、時代の歯車を大きく動かし始めた。
新しい時代は仁斎の計算通りに、しかし仁斎の計算を超える熱量を持って動き始めていた。
第六天魔王は、刀を算盤に持ち替えて、新たな征服を開始したのだ。
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