第四十七話:破壊と創造
太平洋というあまりに巨大で孤独な海の上。一隻のスペインのガレオン船「サン・アグスティン号」が、順風満帆に航海を続けていた。
長く厳しい太平洋の横断を終え、船員たちの心は安堵と高揚感に満たされている。
甲板の上で船長のソローメニョが、若い士官と笑い合っていた。
「船長、この凪も神のご加護の証ですな」
「うむ。この船がマニラに着けば我らは英雄だ。莫大な富と名誉が我らを待っている」
彼らの誰もが自分たちの輝かしい未来を信じて疑わなかった。
自分たちがすでに巨大な蜘蛛の巣の中に、入り込んでいることなど知る由もなく。
その頃、サン・アグスティン号の遥か水平線の向こう。
日本の大艦隊は、この海域特有の濃い海霧にその巨体を隠し、静かにその時を待っていた。
旗艦「安土」の甲板で島津義弘が、焦れたように仁斎に問いかけた。
「宰相殿。本当にこのだだっ広い海の真ん中で、獲物を待つだけでよいのか」
仁斎は静かに海図を指し示した。
「義弘殿。イスパニアの船は常に同じ海流を使います。そしてこのファラロンとかいう岩島を目印に針路を定めると、ヴァレリアーノは申しておりました」
彼の指が海図上の航路に沿って点在する、小さな黒い点をなぞる。
「我らはこの航路上に桔梗の部隊を網の目のように配置しております。一人が獲物を見つければ狼煙と、早馬ならぬ早舟で全軍に知らせが届く。…我らは待ち伏せるのではない。敵の進む先に巨大な蜘蛛の巣を張っておくのです」
そのあまりに緻密な戦略に、歴戦の猛将である義弘もただ感嘆の息を漏らすしかなかった。
そしてその時は来た。
一隻の斥候船からの狼煙が上がる。獲物が巣にかかったのだ。
仁斎の計画通り、その日の午後から天候は急速に悪化し始めた。
サン・アグスティン号の甲板は大混乱に陥っていた。
嵐に備えようと帆を操作したその瞬間、主要なロープが不可解に切れたのだ。風を受けた帆が無残に引き裂かれる。
さらに巨大なうねりが船体を襲ったその時、舵を操る鎖が鈍い音を立てて砕け散った。
「舵が利かん!」
「船が流される!」
船員たちの悲鳴が嵐の轟音にかき消される。
それはもはやただの不運ではなかった。まるで船そのものが呪われたかのように、次々とその機能を失っていく。
そしてその絶望を嘲笑うかのように、嵐の向こうから二隻の俊敏な船が姿を現した。
キャプテン・キャベンディッシュの私掠船だった。
「海賊だ!」
キャベンディッシュの船は嵐の中で身動きの取れないサン・アグスティン号の周りを狼のように駆け巡り、執拗に砲撃を繰り返す。その狙いは船を沈めることではない。マストを砕き帆を引き裂き、船員たちの気力と希望を奪い尽くすことだった。
嵐と呪われた船、そして海賊。
ソローメニョ船長はもはや神に祈ることしかできなかった。
その時だった。
絶望の淵に沈む彼らの目の前に信じられない光景が広がった。
嵐の黒い雲を切り裂いて巨大な艦隊がその姿を現したのだ。
整然とした陣形。そしてその旗艦「安土」の威容はまるで海に浮かぶ城。
日本の艦隊だった。
一隻の日本の連絡船が巧みな操船でサン・アグスティン号に近づくと、通訳を通してこう叫んだ。
「我らは日の本の王の艦隊である! 我らがあの海賊どもを追い払って進ぜよう! 船と積荷の安全は我らが保証する! ただちに武器を捨て我らの保護下に入れ!」
それは悪魔の囁きであり同時に神の救いの声だった。
ソローメニョは迷わなかった。彼は即座にイスパニアの旗を下ろし降伏の意思を示した。
拿捕されたサン・アグスティン号の船長室。
仁斎は差し出された一枚の海図を静かに広げた。
そこにはまだ世界の誰も見たことのない、カリフォルニアの詳細な海岸線が記されていた。
信長は船倉に山と積まれた明の絹織物や磁器を満足げに眺めている。
「ふん。異国の城一つ手に入れたも同然よな」
その言葉に仁斎は心の中で頷いた。
『サン・アグスティン号、拿捕。史実では海の藻屑と消えた船。だが今その積荷、海図、そして乗組員の持つ全ての情報が俺の手にある』
仁斎が振り返ると、信長が戦利品の目録を食い入るように見つめていた。
いや、違う。
信長が見ているのは財宝ではない。その向こうにある「仕組み」だった。
「面白い」
信長が呟いた。
「実に、面白い」
それは株式会社・日本の世界市場への本格的な参入を告げる号砲だった。
そして――もう一人の革命家の誕生を告げる産声でもあった。
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