第四十二話:世界の血脈
仁斎の直属となった「影の部隊」。その長である桔梗は、指令からわずか十日後に仁斎の前へ現れた。
「宰相様。例の南蛮船を拿捕いたしました。積荷は銀と硝石。…それと例の司祭ヴァレリアーノ。ただの神の僕ではありませぬ。その書庫からは詳細なアジアの海図と欧州王族間の書簡が多数見つかりました」
その報告は簡潔で完璧だった。
「…分かった。その男、丁重にこちらへお連れしろ。客としてだ」
数日後。仁斎の執務室で二人の男が差し向かいで座していた。
一人は仁斎。もう一人は宣教師オルガンティノ・ヴァレリアーノだった。その青い瞳の奥には深い知性と強い意志が宿っている。
仁斎はまず彼に巨大な地図を広げてみせた。ヴァレリアーノはそのあまりに正確な世界の姿に驚愕の表情を浮かべた。
「…これは」
「貴殿らが信じる世界の形でございます」
仁斎は静かに言った。そして知性と情報によるチェスのような対話が始まった。仁斎の口から発せられる言葉の一つ一つがヴァレリアーノの心を揺さぶった。目の前の東洋の島国の宰相は、なぜこれほどまでに欧州の生の情報を正確に把握しているのか。
ヴァレリアーノは神への忠誠と祖国への義務感との間で激しく葛藤した。やがて彼は、半ば諦観したように、重い口を開いた。
「…お分かりでしょう。我らが祖国イスパニアは“太陽の沈まぬ国”。その大帝国を支えるのは、新大陸ポトシの銀山から流れ出る、莫大な銀。それは我らが帝国の血なのです」
「そしてここマニラはその血をアジアの富へと変えるための唯一にして最大の心臓。もしマニラが機能を失えば…帝国の血流は止まります」
その言葉を聞いた仁斎の脳裏で全てが繋がった。
『…そういうことか。イスパニアの本当の強さの源泉は軍事力ではない。新大陸から無限に流れ込む“銀”そのものだ。ならば我らが世界と戦うための武器もまた同じ。この日ノ本の鉱山から産出される銀。そしてその銀の価値を最大限に高めるための“仕組み”…それこそが我らの大砲となる』
仁斎は即座に行動を起こした。彼は石田三成に命じ、大坂と堺の主だった両替商を一人残らず城へ集めさせた。
仁斎は、緊張した面持ちで集まった商人たちを前に、静かに宣言した。
「これより新しい戦を始める。銭を武器とした戦をな」
彼は商人たちに、国家がその信用を保証する巨大な両替機関の設立を提案した。日本の全ての富と信用の中心となる、いわば「日の本会所」の創設である。
「銭をただ数えるのではない。銭の“価値”そのものを我らが支配するのだ。為替という概念を理解しろ。そして国の信用を根幹とした新たな金融の流れを作るのだ」
豪商の中の一人、今井宗久の孫にあたる聡明な若者が、仁斎の言葉に強い興味を示した。彼は古い商いの慣習にとらわれず、新しい金融の可能性を感じ取っていた。
仁斎が商人たちと新しい金融システムの構築について議論を白熱させている、まさにその部屋へ、信長が予告なく現れた。
その場の空気が一瞬で凍りつく。
「…騒々しいな。面白い話をしておるではないか。…だが、その話は、また、後だ」
信長は商人たちを一瞥すると、下がらせた。そしてヴァレリアーノを自らの前へ座らせる。
「宣教師とやら。貴様の言う天にまします唯一の神とやらは、全てを創りたもうたのか」
「…いかにも。主は天と地、その全ての創造主にして支配者であられます」
ヴァレリアーノは毅然と答えた。
「ならば」
信長の瞳が危険な光を宿した。
「なぜこのワシのような男を創った。仏を焼き神を殺すこの第六天魔王を、なぜ許しておく」
「……!」
それは神学ではなかった。剥き出しの権力論だった。ヴァレリアーノは言葉に詰まった。目の前の男は理解しようとしているのではない。ただ試しているのだ。
一刻ほどの後。
部屋から出てきたヴァレリアーノの顔は蒼白だった。だがその瞳には恐怖だけではなく畏怖と興奮が入り混じっていた。
彼は待っていた仁斎にか細い声で言った。
「…あのお方は王ではない。王を超えた何かだ。…嵐そのものだ」
その夜、仁斎は一人思考していた。
『金融という新しい武器、ヴァレリアーノという新しい情報源、そして信長という最強の暴力。全て手中に収めた』
彼の思考が昼間の信長の様子を反芻する。
『…上様はこの男を気に入られた。玩具としてではない。己と対等に言葉を交わせる稀有な存在として。この宣教師はもはやただの情報資産ではない。気性の激しい会長の心を繋ぎとめるための、重要な“人間関係資本”となった』
仁斎の口元に初めて、ディールメーカーとしての獰猛な笑みが浮かぶ。
『羅針盤(史実)を失った航海。その不安は確かにある。だがそれ以上に、この何も書かれていない海図を自らの手で埋めていく、この興奮はどうだ。…面白い。黒澤仁の人生でこれほど面白いディールはなかった。世界そのものをテーブルに乗せ神すらも駒として動かす。…見ているか、上様。これが俺の本当の天下布武だ』
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