第四十話:母、茶々の選択
徳川家康という、この国で信長に次ぐ巨大な権力との「経営統合」の基本合意を取り付けた仁斎。
だが、彼が自室に戻り一人思考を巡らせる時、その脳裏に浮かぶのは安堵ではなかった。むしろ、これから始まる全く質の異なるディールへの、静かな緊張感だった。
『…だがこの巨大すぎるディールには、まだ最後の、そして最も厄介な承認者が残っている。この縁組の駒となる二人の母…茶々殿だ。彼女をどう説き伏せるか。こればかりはいかなる数字も通用しない…』
仁斎は、茶々の御殿へと向かった。
そこは、秀吉が彼女のために建てさせた豪奢な空間だったが、主の心を反映してか、どこか華やかさの中に冷たい空気が漂っていた。
仁斎の来訪を告げられると、茶々は奥の間から静かに現れた。
その美貌は母・お市の方を彷彿とさせる。しかし、その瞳に宿る怜悧な光は、誰にも屈することのない織田家の血の濃さを物語っていた。
仁斎は、前置きもそこそこに本題を切り出した。
「茶々様。本日は秀頼様の御縁談についてお話がございます。お相手は、徳川家康様のお孫様、千姫様にございます」
その言葉を聞いた瞬間、茶々の表情が能面のように固まった。
部屋の空気が急速に凍りついていく。
「…徳川、だと…?」
最初はか細い囁きだった。だが、その声は次第に怒りと憎悪の炎をはらんでいく。
「何を考えているのです貴方は。父、浅井長政を滅ぼしたのは誰です。叔父上(信長)と、あの三河の男(家康)ではないか。母上が最後に頼った柴田の叔父上を追い詰めたのは誰です。あの猿(秀吉)と、それを裏で操っていた貴方ではないか!」
彼女は立ち上がった。その華奢な身体から想像もつかないほどの、凄まじい気迫が放たれる。
「そして今度は、その全ての仇である徳川の血を、この秀頼に入れろと申すのか! 織田と浅井の誇りを、どこまで踏み躙れば気が済むのです!」
それは、彼女の魂からの叫びだった。
母として、そして、幾多の悲劇をその身に受けてきた一人の女性としての。
仁斎は、その感情の嵐を、ただ黙ってその一身に受け止めていた。
そして、嵐が過ぎ去った静寂の中で、静かに口を開いた。
「おっしゃる通り、全て事実。私はその全ての企てに関わっております。そしてその全ての企ては、ただ一つの目的のために行われました。――それは、貴女様と秀頼様が、今日この大坂城で息災に暮らしておられる、というこの現実のためです」
仁斎は初めて、茶々の瞳を真っ直ぐに見据え返した。
「茶々様。貴女がお求めになるのは、過去の恨みを晴らす、一時の慰みでございますか。それとも、秀頼様が未来永劫、この日の本の頂に立ち続けられるという、揺るぎなき、御家の安泰でございますか。…どちらを、お選びになりまする」
茶々は、唇を強く噛み締めた。その瞳が激しく揺れる。
憎しみ。誇り。そして、母としての愛。
彼女の中で様々な感情が渦を巻いている。
彼女は、傍らで無心に遊ぶ幼い我が子の顔を見た。そして懐に忍ばせた母の形見の短刀の、冷たい感触を確かめた。
母は誇りを選んだ。そして、死んだ。
ならば、自分は。
自分は、この子のために、何を、選ぶべきなのか。
長い長い沈黙の後。
茶々は顔を上げた。その瞳からは先ほどの激しい感情の炎は消えていた。
そこにあったのは、全てを受け入れ、そしてその上で前へ進むことを決意した、為政者の昏い光だった。
「…分かった。その縁組、受け入れましょう」
彼女は言った。
「…ただし覚えておくがいい、長谷川仁斎。私は貴方を許したわけではない。ただ秀頼のために、貴方という物の怪を利用するだけのこと…」
仁斎は、その言葉に深く、深く頭を下げた。
『ディールは成立した。だがこれは、これまでで最も危ういパートナーシップだ』
御殿を後にしながら、仁斎は思考する。
『彼女は俺の最強の味方となるか。あるいは、いつか俺の背中を刺す、最悪の刃となるか…。この“感情資産”の、本当の価値は、まだ誰にも分からない』
彼の、国家経営という巨大な貸借対照表に、また一つ、極めて大きく、そして予測不能な科目が追加された瞬間だった。
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