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第四話:羽柴秀吉

京から備中高松城まで、およそ二十五里(約100km)。


常人ならば三日はかかる道のりを、仁斎は馬を乗り継ぎ、不眠不休で駆け抜けた。思考だけが、異常なほど冴え渡っている。


網膜の裏に、これから交渉すべき男の【査定】データを映し出す。


【対象:羽柴はしば 秀吉ひでよし

* 組織内階梯: 執行役員(中国方面軍司令官)

* 資産(Assets):

* 交渉力/人心掌握: 98

* 戦術実行速度: 99

* 野心: 99 (MAX)

* 負債・リスク(Liabilities & Risks):

* 出自(ブランド価値): 15

* 現状の財務(兵站): 40 ※高松城水攻めによりキャッシュフローが悪化

* 定性コメント: 驚異的な営業力と実行力を持つ、叩き上げの天才的事業部長。ただし、出自の低さが正当な評価を阻害しており、常に承認とリターンを渇望している。適切なインセンティブを与えれば、最高の代理人エージェントとなる。

『野心と能力は申し分ない。問題は、どうやって手懐けるか…』


仁斎が秀吉の陣にたどり着いた時、そこは混乱の極みにあった。

「上様が…討たれただと!」

「馬鹿な!あの惟任様がご謀反など!」


数刻前に届いたのであろう凶報が、兵たちの士気を根こそぎ奪い、絶望という名の伝染病が蔓延していた。

仁斎は、物見櫓に立つ二つの人影を見据える。羽柴秀吉と、その傍らに控える片目の男――軍師・黒田官兵衛。


仁斎は、警備の兵を振り払い、櫓へ向かって大音声で叫んだ。

「申し上げます! 織田家筆頭家老、長谷川仁斎と申す! 上様の御逝去に関し、羽柴殿に直接お伝えすべき密命を帯びて参上つかまつった!」

『肩書は、ハッタリでいい。今は、時間との勝負だ』


ざわめきの中、櫓の上の官兵衛が、鋭い視線を仁斎に突き刺す。やがて、その目がわずかに見開かれた。彼が仕える主君、秀吉に何事か耳打ちしている。


司令官用の陣幕の中は、澱んだ空気で満ちていた。


秀吉は、仁斎を猿のような人懐こい目で見ている。だが、その奥には、値踏みするような冷たい光が宿っていた。

「…して、長谷川殿。貴殿のようなお歴々が、わしに何の用かな」


秀吉の傍らで、官兵衛が地図を睨んだまま、口を挟む。

「殿。この男、上様が安土を発たれる直前、祐筆から異例の抜擢を受けたと聞き及んでおります。ただの使い番ではありますまい」

『黒田官兵衛…情報収集能力インテリジェンスが高い。要注意人物だ』


仁斎は、単刀直入に切り出した。

「羽柴殿。今、この国で、最初に京へ駆けつけ、明智を討った者が、次の天下に最も近い席へ着くことになりまする」

「……」

「柴田様は、北ノ庄で動けない。丹羽様も、滝川様も、遠すぎる。この千載一遇の好機マーケット・チャンスを掴めるのは、貴殿をおいて他にいない」


秀吉は、扇子で顔を隠し、表情を読ませない。

「好機、とな。何を呑気な。この毛利の大軍を前に、どうやって京へ戻れと申す」

「毛利との和睦。それも、即日でございます」

仁斎は、よどみなく答えた。


「清水宗治殿の首一つを条件に、毛利に破格の和睦を提示するのです。上様の死を隠したまま。彼らは、後に真実を知り、己の判断を悔やむでしょう。情報を持つ者が、交渉を制します」

『情報の非対称性を利用した、短期的な有利交渉。M&Aの基本だ』


官兵衛の片目が、カッと見開かれた。仁斎の策が、自分たちの考えと寸分違わぬこと、そして、自分たち以上にその後の展開を読み切っていることに、戦慄しているのだ。


秀吉が、ついに扇子を下ろした。その顔から、人懐こい仮面が剥がれ落ちている。

「…貴殿は、一体何者だ。なぜ、そこまで言い切れる。我らが貴殿の言葉を信じ、兵を動かすに足る、証はあるのか」


時は、満ちた。


仁斎は、懐から、信長に託された袋を静かに取り出した。そして、中から現れた一つの印を、卓上へ置く。

信長が天下布武の印として用いた、彼の私印だった。


秀吉と官兵衛が、息を呑む。

「これは…」

「上様が、京へ発たれる前夜、私に託されたもの」

仁斎は、秀吉の目を真っ直ぐに見据えた。ここで、信長の生存を明かすのは、まだ早い。情報を小出しにし、相手の渇望を煽るのが、交渉の定石だ。


「もし、己に万一のことがあれば、その後を託すは羽柴秀吉である、と」

仁斎は、言葉を区切った。


「羽柴殿。貴殿を、織田家の正統な後継執行人と定める。――これが、上様の、最後のご意思にございます」

『"後継執行人"。CEOの死後、その遺志を継いで事業を執行する代理人。暫定CEO(Interim CEO)とほぼ同義だ』


秀吉の全身が、わなわなと震え始めた。


出自の低さゆえに、誰よりも渇望してきた「正当性」。喉から手が出るほど欲しかった「大義名分」。

それを、この見知らぬ男が、天からの啓示のように持ってきた。


彼は、ゆっくりと立ち上がり、仁斎の前に深々と頭を下げた。

「…長谷川殿。いや、仁斎様。この秀吉、貴殿を軍師としてお迎えし、全てを託しまする!」


取引は、成立した。

代理人エージェントとの基本合意は完了。これより、史上最速での経営権奪還クロージングを開始する』


仁斎の脳内で、新たなプロジェクトが立ち上がる。


その名は――中国大返し。


最後までお読みいただきありがとうございました!

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