第三十八話:関東開発公社
大坂城の大広間は静まり返り、全ての視線が上座に座す織田信長、ただ一人に注がれていた。
仁斎が提示した、ハイリスク・ハイリターンの「グローバル成長戦略」。
家康が提示した、ローリスク・ローリターンの「国内安定戦略」。
この国の未来を左右する、二つの巨大な経営方針。そのどちらが選択されるのか。
家康は、能面のような表情のまま、平伏している。
仁斎は、静かに立ったまま、信長の裁定を待っていた。
信長は、その二つの見立て書きを、ただ黙って見つめている。やがて、その口元にあの第六天魔王の獰猛な、そして楽しげな笑みが浮かんだ。
彼はまず、家康に視線を向けた。
「家康。貴様の策、まこと見事よ。石橋を叩き割り、その砕けた石の一つ一つまで検めてから渡るかのようなその堅実さ。為政者としては満点であろう」
家康は、ただ黙って頭を下げている。
「…だが、のぅ」
信長は言葉を切った。そして、その鋭い鷲のような瞳を仁斎へと移す。
「ワシは退屈が嫌いよ。盤石なだけの未来なぞ、一日で飽きるわ」
信長は立ち上がると、仁斎が広げた世界の地図を、その軍扇で力強く指し示した。
「この仁斎が示す未来。そこには血の匂いがする。異国の富の匂いがする。そして我らのまだ見ぬ敵の匂いがする」
彼は、心底楽しそうに笑った。
「…面白い! この途方もない大博打、この織田信長が乗った!」
仁斎の勝利。
広間に安堵とそして新たな緊張が同時に走る。
仁斎は静かに一礼した。
『勝った…。第一ラウンドは俺の勝利だ。だが同時に理解した。上様が俺の策を選んだのは、その合理性ゆえではない。その向こう側に見える、破壊と混沌の匂いに惹かれたからだ。…やはりこの男は俺の最大のリスク要因だ』
評定はこれで終わりかと、誰もが思った、その時。
信長は、再び、家康に声をかけた。
「家康。貴様の策も、また捨てがたい」
「…は」
「ならば貴様に、この日ノ本の東半分をまるごとくれてやる。関東のだだっ広い荒れ地を貴様の手でこの大坂に匹敵する、もう一つの都に作り変えてみせよ」
それはあまりに破格のそして誰も予測しえなかった命令だった。
「関東管領なぞという、古臭い名乗りは、もういらぬ。東の全ては貴様に一任する。貴様はこれよりこの国の東を切り盛りする、大奉行じゃ。いや…」
信長は、楽しげに目を細めた。
「仁斎の言う『開発』とやらを、任せるのだからな。『関東開発の棟梁』と、言うべきかのぅ」
それは二人の天才を競わせ、そして、その両方を最大限に活用するという、信長の王としての器の大きさを示す采配だった。
家康はそのあまりに巨大なそして名誉ある役目に、ただ深く、深く、頭を垂れることしかできなかった。
評定が終わった。
諸大名が、興奮冷めやらぬ様子で退出していく。
仁斎と家康が、長い廊下で偶然二人きりになる。
先に口を開いたのは、家康だった。
「…宰相殿。見事な手腕でございましたな」
その声には敗北感はなく、むしろ好敵手を認めたかのような清々しさすらあった。
「いえ。徳川様のおっしゃる国内の安定こそが全ての礎。私の策はその礎あっての絵空事でございます」
仁斎もまた、敬意を込めて答えた。
二人の間にはもはや敵対心はない。互いの能力と役割を認め合った、二人の巨大な経営者としての奇妙な信頼関係が芽生えていた。
「…ふ。物の怪めが」
家康は、小さく笑った。
「…関東はお任せいただく。なれど宰相殿、貴殿のその大きな船が嵐に遭わぬことを、お祈りしておりますぞ」
それは、忠誠の誓いであり、同時に友としての静かな警告だった。
その夜。
仁斎は、自らの執務室で石田三成と向き合っていた。
部屋の壁には、新しい、巨大な世界の地図が広げられている。
「三成。直ちに堺と博多へ使者を送り、船団の建造計画を開始させよ。同時に南蛮人と加斯底羅人の商館へも打診し、我が国との新たな交易について話し合いたい、と伝えよ」
仁斎は熱を帯びながら呟く
「…ディールは始まったばかりだ」
『徳川家康という最大の“守り”の経営者が国内を固め、そして俺という“攻め”の経営者が世界を切り拓く』
仁斎は、地図の向こう側を見据えていた。
『攻めと守り。二つの巨大なエンジンが、今同時に回り始めた。株式会社・日本の本当の船出だ』
その果てしなく続く航海の先に、一体何が待っているのか。
それを知る者は、まだ誰もいない。
仁斎、ただ一人を除いては。
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