第三十六話:新世界秩序
天正十九年(1591年)、初春。
大坂城、天守の最上階に作られた、巨大な評定の間。
その空気は、豊臣秀吉の時代とは全く異質なものに支配されていた。甘く、華やかで、それでいて、誰もが誰かの顔色を窺っていたあの頃とは違う。
今はただ張り詰めた鋼のような緊張感と絶対的な序列だけが存在していた。
上座の中央に座すのは、この国の新たな統治者。
死の淵から蘇った、第六天魔王――織田信長。
その歳は、五十を超えているはずだが、その肉体は長い潜伏期間を経て、むしろ無駄なく研ぎ澄まされている。その瞳には、かつての苛烈さに加え、全てを見通すような静かな深みが加わっていた。
そして、その信長の一段低い、すぐ隣に長谷川仁斎が座している。
彼の新たな役職は「宰相」。事実上の最高執行責任者(COO)だ。
下座には、徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝といった、この国の「取締役」たちが顔を揃えている。誰もが表情を能面のように固くし、上座の二人から視線を外さない。
数ヶ月前。
仁斎が五大老の前で、「信長の生存」という究極のカードを切ったあの日。天下は震撼した。
だが、仁斎と石田三成が主導する、完璧な情報統制と徳川家康という、最大のリアリストが早々に「古き主君」への恭順を示したことで、大きな混乱は奇跡的に回避された。
豊臣秀頼は、織田政権下の一大名として、豊臣家の存続を保証される。そして、茶々はその後見人として、大坂城に静かに、しかし無視できぬ存在感を保っていた。
信長は集まった諸将を、ゆっくりと見渡すと、短く、そして明瞭に最初の「勅命」を下した。
「まず、第一に。猿が始めた、愚かなる明国攻めの準備は、即刻全て中止いたす」
広間に安堵とそして、畏怖の空気が同時に広がる。
誰もが、その無謀さに気づきながら、止められなかった、破滅への行進。それをこの男はたった一言で終わらせた。
そして、信長は、隣に座す仁斎に、視線を送った。
「仁斎。貴様が、この日ノ本を一つの大きな『家』と見立てて富ませる策がある、と申していたな。その次なる一手とやらを、皆に聞かせてみよ」
全ての視線が仁斎へと集まる。
仁斎は静かに立ち上がると、一枚の巨大な世界の地図を広間の中心に広げた。
『これまでのM&Aは、国内市場の統一が目的だった。だが、真の企業価値向上は、グローバル市場への進出なくしては、あり得ない。ただし、秀吉のような軍事力による敵対的TOBではない。我々が仕掛けるのは、経済と情報、そして技術を武器とした友好的かつ支配的な資本業務提携だ』
仁斎の声が、静まり返った広間に響き渡る。
「これより、我らが目指すは、武力による領土の拡大ではございません」
彼は、地図の上で日本と明国、そして遥か遠くの欧州を指で繋いだ。
「交易にございます。我らの持つ、優れた鉄砲、銀、そしてこの一つにまとまった揺るぎない国の仕組み。これらを駆け引きの切り札とするのです」
「南蛮人(欧州勢)も同様にございます。彼らの持つ、船を操る術や新たな知識は進んで取り入れましょう。しかし、彼らの神の教えを理由に、この国の政へ、口を出すことは断固として許しませぬ。あくまで対等な商相手としての付き合いにございます」
「そして、その全てを支えるため、堺や九州の港を拠点とした、巨大な船団を国の金で建造いたします。この国の富と力を、世界へ運ぶための我らの船です」
それは居並ぶ、戦国時代の武将たちが、誰一人想像すらしたことのない、壮大な国家経営のビジョンだった。
力で奪うのではなく、金で知恵で世界と渡り合う。
前田利家のような、歴戦の武将たちの顔には、困惑の色が浮かぶ。彼らにとって、それはあまりに現実離れした、絵空事にしか聞こえない。
ただ一人、徳川家康だけが、その能面のような表情の奥で、鋭い光を宿し、仁斎の言葉の一言一句を吟味するように聞き入っていた。
信長は、その途方もない計画を、黙って聞いていた。
そして、その口元に、あの第六天魔王の獰猛な笑みを浮かべた。
「クク…面白い。力で奪うより、金で支配するか。…して、家康。貴様はこの宰相の途方もない“商い”をどう思う」
信長は全ての視線が、仁斎に集まる中、あえてその流れを断ち切り、家康に水を向けた。
徳川家康は静かに平伏したまま答える。
「…は。あまりに壮大。あまりに危険、かと存じます。海の外には我らの知らぬ、理と力が渦巻いております。まず、なすべきは、この一つになったばかりの日ノ本の地盤を固めることと臣は考えます」
その言葉に広間の空気が、再び張り詰めた。
仁斎の「外へ向かう、成長戦略」と、家康の「内に向かう、安定戦略」。
新生・織田政権の最初の評定は、その二つの巨大な経営方針の衝突の始まりを告げていた。
信長はその二人の天才の火花が散るのを心底楽しむように眺めている。
「…フン。仁斎は、外へ。家康は、内へ、か。面白い。実に面白い。――その儀、次の評定で改めて論じさせる。両者とも己が策がいかにこのワシの『家』を富ませるかを示せ」
新たな時代の幕開けだった。
評定が終わり、諸大名が退出していく。
仁斎は一人広間に残り世界地図を眺めていた。
計画は一度保留となった。だが、彼の心に焦りはなかった。
むしろ一つの新たな興奮が、彼の思考を支配し始めていた。
『徳川家康…。俺がこの国で初めて出会う本物の“経営者”か。面白い。最高のディールは最高の競合がいてこそ、燃えるというものだ。――不足はない』
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