第三十五話:次期経営体制
豊臣秀吉の死は、厳重な情報統制下に置かれた。
公式発表は「乱心した一人の警護侍による凶行。関白殿下はお命に別状はないものの、しばらくの療養を要する」というもの。
仁斎は、混乱の極みにある大坂城を、氷のような冷静さで掌握していった。
彼は自らの影響下にある者たちを使い、城の主要な門と蔵を確保。全ての情報の出入りを、完全に管理下に置いた。
『CEOの突然の死は、株価(国家の安定)の暴落を招く。最優先事項は、迅速な情報統制(IR)と、次期経営体制の早期確立による市場の安定化だ』
仁斎は、すぐさま次の一手を打った。
豊臣政権の最高意思決定機関として、秀吉が生前に構想していた五大老――徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家――に対し、「関白殿下のご容態に関する、緊急の御前会議」という名目で、大坂城への召集をかけたのだ。
その報は、各地の大名たちを、様々な思惑と共に揺さぶった。
江戸城の、徳川家康。
彼は、秀吉の「療養」という言葉を、額面通りには受け取っていなかった。仁斎からの、あの不吉な密書「古き主が、蘇る」が、彼の脳裏で重い意味を持って反響していた。
「…猿が、死んだか」
家康は誰に言うでもなく呟いた。
「して、あの物の怪(仁斎)は、次に何を仕掛ける…」
彼は、戦の準備ではなく、この国で最も苛烈な、政の戦が始まることを予感し、静かに、大坂へ向かう支度を始めた。
数週間後。
大坂城の最も格式の高い広間に、五大老がその顔を揃えた。
誰もが固唾を飲んで、上座に座す、幼い豊臣秀頼とその後見人である茶々、そして、その斜め後ろに影のように控える長谷川仁斎を見つめている。
この国の、事実上の権力者が、誰なのか。この場の誰もがそれを肌で感じ取っていた。
仁斎は、ゆっくりと立ち上がると、集まった諸将へ、深々と一礼した。
「皆様、お集まりいただき、感謝申し上げる。本日は皆様にお伝えせねばならぬ儀がございます」
彼は言葉を切った。そして、静かに、しかし、広間の隅々まで響き渡る声で告げた。
「関白・豊臣秀吉殿は、数週間前、お亡くなりになりました」
広間がどよめいた。やはり、という顔をする者。驚愕に目を見開く者。
仁斎はその喧騒を冷たい視線で制した。
「殿下は乱心した者によって、不慮の死を遂げられました。このままでは天下は再び乱れます。我々は、速やかに、この国の新たな『形』を定めねばなりませぬ」
その時、広間の上座の襖が、す、と開かれた。
仁斎の合図で、茶々が幼い秀頼の手を引いて、諸大名の前に進み出る。それは豊臣家の正統な血筋が、ここにあることを示す、無言のデモンストレーションだった。
諸大名たちの間で、視線が交わされる。後継は、幼い秀頼公か。ならば、我ら五大老の誰がその後見として実権を握るのか。
欲望と猜疑心が、渦を巻き始める。
その全ての視線が、沈黙を守る徳川家康へと集まった、その瞬間。
仁斎は最後のそして、最大の爆弾を、投下した。
「皆様、お静まりに。次なる、この日ノ本の主についてはご心配には及びませぬ」
彼は集まった、この国の最高権力者たち一人一人の顔を、ゆっくりと見渡した。
「なぜなら、この国の主はすでにお一方、おられるのですから」
「太閤殿下をこの座に導きし、真の主。本能寺にてお亡くなりになったと、誰もが信じていた、あのお方」
仁斎の声が、震えるほどの静寂の中で、響き渡る。
「――織田、信長公は、ご存命である」
その言葉は、雷鳴となって、広間にいた全ての者の魂を打ち抜いた。
驚愕。混乱。絶句。そして、恐怖。
徳川家康の、あの常に、全てを見通したような冷静な顔が生まれて初めて信じられないものを見た子供のように硬直した。
彼は理解した。
秀吉の死も、この会議も、全てはこの瞬間のための壮大な布石だったのだ、と。
仁斎は凍り付いた諸大名を前に脳内で最後の仕上げを行う。
『次期経営体制の発表。――創業者CEOの市場への帰還』
株式会社・日本の真の所有者が、長い沈黙を破り、今その姿を現す。
物語は終局へ向けて、最後のディールを開始した。
最後までお読みいただきありがとうございました!
少しでも面白いと思っていただけたら、下の☆で評価やブックマークをいただけると嬉しいです!




