第三十一話:解任決議
仁斎が豊臣政権の中枢から外されて、数ヶ月が過ぎた。
その間、秀吉の大陸侵攻計画は狂気じみた速度で進んでいた。
肥前・名護屋に巨大な城が築かれ始め、全国の大名にはその石高に応じた、法外な軍役と普請役が課せられる。対馬からは、朝鮮国王に対し「明国への道を案内せよ。さもなくば滅びるであろう」という、傲慢極まりない国書が送られた。
その全てを、仁斎は石田三成に指示し、静かに、しかし詳細に記録し続けていた。
『データは揃った。現CEOによる、企業価値を著しく毀損する行為。これは株主(諸大名)に対する重大な背任行為だ。解任動議を提出するための十分な根拠となる』
仁斎の瞳はもはや秀吉という一個人にではなく、彼が引き起こしている「経営上の損失」という、客観的な事象にのみ向けられていた。
その日、仁斎は茶々の御殿に、一揃いの茶道具を運び込ませた。
人払いをさせた二人きりの茶室。静寂の中、仁斎は、自ら茶を点て、無言で茶々へ差し出した。
茶々はその真意を測りかねるように、じっと仁斎を見つめている。
「…何のつもりです」
「茶々様。関白殿下は、この国を破滅の道連れにしようとしております。それを止めなければなりませぬ」
仁斎は本題を切り出した。
「貴女様は、織田信長公の姪御。そして、亡き信忠様の嫡男、三法師様の後見人でもある。貴女様の言葉は、他の誰の言葉よりも重い」
仁斎は、茶々を一人の人間として、そして、一つの極めて重要な「資産」として真っ直ぐに見据えた。
「来るべき時に、貴女様には、豊臣秀吉の非道を諸大名の前で糾弾していただきたい。織田家の正統な血を引く者として」
それはあまりに危険な誘いだった。
茶々は、茶碗を持つ手を止め、問い返した。
「私が猿に刃向かったとして、誰が、私と三法師を守ってくれるのですか。貴方一人で何ができると?」
「私一人ではございません」
仁斎は確信を持って答えた。
「私には関白殿下でさえ、決して逆らうことのできぬ、最強の後ろ盾がおります」
その言葉に含まれた、絶対的な自信。茶々はこの男がただの狂言を弄しているのではないことを悟った。彼女は黙って茶を一口すすった。
それは無言の合意だった。
茶々という、最強の「ワイルドカード」との基本合意を終えた仁斎はすぐさま次の一手に着手した。
『アクティビスト(物言う株主)が経営陣を追い込むには他の株主の支持を取り付ける、事前の根回し(プロキシー・ソリシテーション)が不可欠だ』
仁斎は自らの築いた情報網と密かに蓄えた資金を使い、諸大名へ働きかけを始めた。
徳川家康の元へは、ただ一言「古き主が、蘇る」とだけ記した密書が届けられた。
前田利家や、黒田官兵衛といった、合理的な思考を持つ者たちへは朝鮮出兵がいかに無謀で不利益なものであるかを石田三成が作成した詳細なデータと共に示した分析書が送られる。
水面下で豊臣秀吉という巨大な太陽への不満と疑念が静かに、しかし、確実に醸成されていった。
全ての布石を打ち終えた日。
仁斎の元に伊賀から一人の使者が訪れた。忠実なる駒、助右衛門だ。
彼が恭しく差し出した一通の密書。それは仁斎の報告に対する、影の会長・織田信長からの返答だった。
仁斎は人払いをした部屋でその封を切った。
巻物には信長の荒々しい筆跡でただ二文字だけが記されていた。
「誅殺」
その文字を見た瞬間、仁斎は息を呑んだ。
(…殺せと。解任ではない。清算せよ、と…)
仁斎の計画は秀吉を関白の座から引きずり下ろし、政治的にその権力を無力化することだった。だが、信長の判断は常に仁斎の計算を良くも悪くも超えてくる。
あの男は生かしておけば必ず再び災いの種となる、と判断したのだ。
仁斎は、巻物を蝋燭の炎で静かに焼き払った。
彼の心に迷いはなかった。会長の決定は絶対だ。
『承知した。これより豊臣秀吉という巨大すぎる企業のMBOならぬ、MBI※を開始する』
(※MBI…外部の経営者が企業の株式を買い取り、経営権を握ること)
仁斎は立ち上がると、窓の外にそびえ立つ大坂城の天守を見据えた。
『新たな経営者は――織田信長だ』
それはこの国始まって以来の最も巨大で最も危険な経営権の強奪計画の静かな始まりだった。
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