第三十話:大陸への野望
天正十八年(1590年)。
小田原の北条氏を屈服させ、伊達政宗を臣従させた豊臣秀吉は、ついに、名実ともに、この日ノ本の絶対的な支配者となった。
大坂城で開かれた祝賀の宴。その席で、秀吉は集まった全ての有力大名を前に、一枚の巨大な地図を広げさせた。
アジア大陸が描かれた、その地図。
「諸君、よく聞け!」
酒で顔を赤らめた秀吉が、玉座から朗々と宣言する。
「ワシは、この日ノ本では、もはや飽き足らぬ。海を渡り、明国をこの手に入れる!」
その言葉に、広間は水を打ったように静まり返った。徳川家康、前田利家といった、宿老たちの顔が一斉にこわばる。彼らは仁斎と三成が水面下で作成した、朝鮮出兵の無謀さを示す分析にすでに目を通していた。
その凍り付いた空気の中、一人の男が静かに立ち上がった。
長谷川仁斎。
彼の後ろには、石田三成が膨大な巻物を抱え、影のように控えている。
「恐れながら、申し上げます」
仁斎の声は、静かだったが、その場にいる誰もが息を呑んで彼に注目した。
「石田三成に此度の遠征に要する兵糧、船、銭を算出させました。その数、我らが九州を平定した折の十倍を優に超えます。我らが十年かけて蓄えた富を、わずか一年で使い果たし、国は必ずや疲弊いたします」
仁斎は事実だけを淡々と告げる。
「また、明国の国力は我らが思う以上に巨大です。勝算はございません」
それはもはや諫言ではなかった。
データに基づいた、冷徹な経営判断の提示。そして、CEOに対する公然の「NO」であった。
秀吉の顔が、怒りでみるみるうちに赤黒く染まっていく。
自らの栄光の頂点である、この席で。全ての家臣の前で。
この、勘定しかできぬ男に真っ向からその夢を否定されたのだ。
「黙れ、仁斎!」
秀吉の雷鳴のような怒声が広間を震わせた。
「算盤勘定で、ワシの天下が計れるか! 貴様はワシの威光が信じられぬと見える!」
秀吉は震える指で、仁斎とその背後にいる三成を指し示した。
「もう、良い。貴様らの差配は、一切不要じゃ! この戦はこの豊臣秀吉が自ら行う!」
そして、決定的な言葉が放たれる。
「仁斎、貴様は茶々の世話でもしておれ! 三成、貴様は蔵の米でも数えておれ! 二度とワシの政に口出しするな!」
それは完全な最後通牒だった。
豊臣政権を、その知略で支え続けてきた、仁斎と彼が育てたテクノクラートたちの、公の場での完全な放逐宣言。
仁斎と三成は何も答えず、ただ深々と頭を下げると、静かにその場を退出した。
諸大名たちが固唾を飲んで、その背中を見送る。徳川家康だけが全てを理解したように、わずかに目を伏せた。
城の廊下を、仁斎は無表情で歩いていた。
だが、その脳内では最後の計算が完了していた。
『最終勧告は、拒絶された。CEOは株主(諸大名)たちの前で、俺と俺のチーム(石田三成)を完全に切り捨てた』
『これで、豊臣秀吉の解任を実行するための全ての大義名分(正当性)が揃った』
仁斎は立ち止まると、窓の外に広がる自らが育て上げた、豊かで平和な城下町を見下ろした。
それを全て破壊しようとしている男。
もはや躊躇う理由はどこにもなかった。
『“影の会長”からの命令。その執行条件は満たされた』
仁斎は懐深く忍ばせていた、一つの小さな巻物――伊賀からの信長の指令書――に、そっと指で触れた。
『――これより株式会社・日本の臨時取締役会を招集する。議題はただ一つ』
仁斎の瞳が、絶対零度の光を宿す。
『現CEO、豊臣秀吉の解任について』
最後までお読みいただきありがとうございました!
少しでも面白いと思っていただけたら、下の☆で評価やブックマークをいただけると嬉しいです!