第二十九話:聚楽第行幸(じゅらくていぎょうこう)
天正十六年(1588年)四月。
関白・豊臣秀吉が、京に築いた壮麗な宮殿「聚楽第」に後陽成天皇が行幸した。
それは、秀吉の権威が天のそれに次ぐものであると、天下に知らしめるための壮大な儀式であった。
『聚楽第行幸…。これは、豊臣政権という“企業”の大規模なIRイベント(投資家向け広報活動)だ。全ての株主(大名)を一同に集め、現経営陣(秀吉)の圧倒的な正当性と権力を見せつけるための壮大なデモンストレーション…』
仁斎はその儀式の裏にある秀吉の真の狙いを正確に読み取っていた。
『…いや、それだけではない。これは俺に対する踏み絵でもある』
行幸に先立ち、秀吉は仁斎に二つの命令を下した。
一つ、この行幸の一切の差配を仁斎が取り仕切ること。
そして、もう一つ。
「仁斎。当日は茶々殿の側を片時も離れず警護せよ」
それは巧妙な罠だった。
膨大な雑務で仁斎を政務の中枢から遠ざけ、同時に、織田家の血を引く茶々の隣に置くことで、諸大名の前で彼らの関係性を探ろうというのだ。仁斎が茶々を担いで何かを企んでいるのではないか、と。
(仁斎…貴様が、織田の姫を担いで何を企んでおるか、この機会に、天下の目の前で見極めてくれるわ)
秀吉の猜疑に満ちた思考が仁斎には手に取るように分かった。
その策を仁斎は、茶々本人にありのままに伝えた。
茶々の御殿。彼女は秀吉から贈られた、豪奢な打掛を眺めながら冷たく言い放った。
「…また、猿の猿芝居に付き合えと申すのですか。私を見世物にするつもりでしょう」
「見世物ではございません。舞台です」
仁斎は、静かに答えた。
「関白殿下がご自身の威光を示すためにお作りになった、最高の舞台。…そして、その舞台の上で、誰が真の主役であるかを諸大名に思い出させる、絶好の機会にございます」
仁斎の瞳には、一切の感情がなかった。
「今は関白殿下の力を利用するのです。彼が建てたその舞台の上で、我らは我らの舞を舞うまでのこと」
その言葉に茶々は初めて目の前の男に、母・お市と同じ種類の常人離れした「覚悟」を見た。
(この男は、私を猿の権威を飾るための道具ではなく、猿の権威を内側から食い破るための刃として使おうとしているのか…)
茶々は黙って、打掛に袖を通した。それは危険な共犯関係の無言の合意だった。
行幸当日。
聚楽第は、この世のものとは思えぬほどの贅を尽くした空間と化していた。
帝を迎えるための壮大な行列。そして、その行列に臣下の礼をとる、徳川家康をはじめとした全国の諸大名たち。
誰もが、秀吉の、そして帝の権威の前にひれ伏している。
仁斎はその光景を定められた通り、茶々とその腕に抱かれた幼い秀頼の斜め後ろから見守っていた。
秀吉の猜疑に満ちた視線を感じる。諸大名たちの好奇と畏怖の視線を感じる。
彼はその全てを、自らの【査定】スクリーンに映し出される、無機質なデータとして処理していた。
【対象:豊臣政権】
企業価値(Valuation):算出不能(Priceless)
ステータス:安定(Stable)
潜在的リスク(Potential Risk):CEO(秀吉)の暴走。内部対立(仁斎 vs 秀吉)。正統性に関する脆弱性(織田家残党)。
仁斎はこの光景こそが秀吉という男の、そして自らが作り上げたシステムの頂点であることを理解していた。
そして、あらゆる物事は頂点に達した瞬間から、崩壊を始めることも。
儀式がクライマックスに差し掛かる。
秀吉が帝の前で諸大名からの忠誠の誓いを受け取る。その誇らしげな横顔。
だが、仁斎の思考はすでにその先の未来を見ていた。
この完璧なまでの国内支配の完成は、あの男の目を再び無謀な野心へと向けさせるだろう。
海の外へ。
大陸へ。
『豊臣秀吉の権威は、今日この瞬間頂点に達した。完璧なIRイベントだ。だが、その輝きが強ければ強いほど、その下にできる影もまた濃くなる』
仁斎は、隣に立つ美しい女性の横顔を初めて査定の対象としてではなく、唯一の「同士」として見つめていた。
彼女もまたこの輝かしい儀式の裏にある危うい均衡をその肌で感じ取っているかのように、じっと前を見据えていた。
二人の間に、言葉はなかった。
『そして、その影の中で、新たなディールが静かに生まれようとしている』
すべては、あの男――織田信長を、再びこの国の玉座へ戻すための。
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