第二十八話:感情資産(エモーショナル・アセット)
石田三成という自らの右腕となるべき、最高の“プロジェクト・マネージャー”を得た仁斎。
彼によって、株式会社・日本の具体的な“バリューアップ”計画は驚くべき速度で進み始めた。検地、街道整備、鉱山開発――あらゆる国家事業がデータと費用対効果(ROI)に基づいて、効率的に実行されていく。
だが、仁斎の頭脳の一角には、常に一つの計算不能な“リスク要因”が棘のように突き刺さっていた。
――茶々である。
合理的な組織改革が進む一方で、この感情で動く最も厄介な“資産”とどう向き合うべきか。
その答えを、彼はまだ見つけ出せずにいた。
『母や、叔父上を死に追いやったのは、あなたなのでしょう?』
あの、真っ直ぐな瞳と言葉が彼の思考の最も深い場所にこびりついていた。
仁斎はこれまでとは全く違う手法での情報収集を命じた。
茶々の身の回りの世話をする侍女たちに、それとなく、彼女の日常を探らせる。何を読み、何を見て、何を好むのか。それは数値化できない、極めて定性的なデューデリジェンスだった。
報告は仁斎に新たなデータをもたらした。
茶々は秀吉から贈られるほとんどの豪奢な品には、手をつけようとしないこと。
そして、彼女が常に肌身離さず、母・お市の方が北ノ庄で自害した際に使ったという形見の短刀を大切に持っていること。
『形見の短刀…。それは、お市の方の“誇り”のメタファー。そして、茶々がその遺志を継いでいるという明確な意思表示か。単なる感傷ではない。これは、彼女の、行動原理の核だ』
仁斎は再び茶々の御殿へと足を運んだ。
縁側で一人庭を眺める茶々の傍らには、白鞘に収められたあの短刀が静かに置かれていた。
「その短刀は、見事なものにございますな」
仁斎は静かに切り出した。
「ですがそれは過去の象徴。未来を築く上では、足枷にもなりましょう」
「足枷…」
茶々は、庭から目を離さぬまま、冷たく呟いた。
「貴方には母の無念がそう見えるのですか。貴方のような人の心をそろばんの玉のようにしか見ぬ男には、分かるはずもございませぬね」
その言葉に仁斎は表情一つ変えずに答えた。
「…お市様の、お心の内は、私には分かりませぬ」
彼は、ただ事実だけを告げた。
「私が言えるのは、一つだけ。私はあの時最も理に適うた選択をしたまで。柴田様はもはや家の為にならぬ、古い仕組みそのものでした。お市様は自らのご意思でその古い仕組みと運命を共にされる道を選ばれた。…私が決めたのではございません」
言い訳も、弁解も、同情もない。
あまりに無慈悲で絶対的な合理性の塊のような、その答え。
茶々は初めて仁斎の方を振り返った。
その瞳には、憎悪と共に理解不能な巨大な存在を前にしたかのような畏怖の色が混じっていた。
この男は悪人ではない。善人でもない。ただ自分たちとは全く違う理で動く、何かだ。
彼女の中で仁斎に対する評価が、わずかに、しかし、確実に変わった瞬間だった。
仁斎はその視線の変化を読み取っていた。
彼はそれ以上何も言わず、静かにその場を辞した。
『言葉のディールは終わった。だが、彼女の“憎しみ”という、負債は少しも減っていない。それどころか俺への“興味”という新たな不確定要素が加わった』
仁斎は自室へ戻る道すがら思考を巡らせる。
お市の方の時と同じ失敗は繰り返せない。
『この“感情資産”をどうマネジメントする? 破壊的なリスクとして切り捨てるか。それとも…』
彼の脳裏に初めて数字以外の新たな問いが浮かび上がっていた。
『このリスクそのものを、リターンに転換することは可能なのか…?』
その問いに対する、答えはまだ彼の計算モデルの中には存在しなかった。
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