第二十六話:金と鉄
島津家の処遇を巡る軍議の後、大坂城の空気は、静かに、しかし、決定的に変質した。
豊臣秀吉は、仁斎との対話を、必要最低限なもの以外、避けるようになった。かつて、二人の間にあった、奇妙な共犯者としての熱気は消え失せ、今はただ、主君と、得体の知れない家臣の一人という、冷え切った関係だけが横たわっている。
諸将は、その見えない亀裂を敏感に感じ取り、仁斎を、畏怖と、そして若干の憐憫を込めて遠巻きに眺めるようになった。
秀吉は、仁斎を遠ざける一方で、その権勢を天下に示すことに、より一層執心するようになっていった。彼は、天守の一角に、壁から天井、茶道具に至るまで、全てを黄金で作り上げた、絢爛豪華な茶室の建設を命じ、完成を祝う盛大な宴を日夜繰り返した。
その光景を、仁斎は城の片隅から冷ややかに見つめていた。
『黄金の茶室…。史実の秀吉も、これに固執した。自らの権威を目に見える“金”の量でしか示せなかった男の悲しい自己顕示欲の象徴だ。だが、この黄金からは一粒の米も、一本の鉄砲も生まれはしない。典型的な、不良資産への無駄な投資だ』
仁斎は、秀吉のその浪費を横目に、自らの「投資」を着々と進めていた。
彼は、堺の今井宗久を通じ、最高の鉄砲鍛冶たちを、極秘裏に大坂郊外の一見寂れた屋敷へ集めさせていた。そして、彼らにただ一つのことを命じる。
「新しい鉄砲を作れ、ではない。全ての鉄砲の“部品”の寸法を寸分違わず同じにしろ、と命じたのです」
仁斎は、宗久にそう指示していた。
『部品の規格化…。これこそが、大量生産と品質安定の第一歩だ。一本一本、職人の勘で作るのではなく、誰が作っても同じ性能を発揮する工業製品としての鉄砲を生み出す』
黄金の茶室が、過去の富をただ消費している一方で、仁斎のこの薄汚れた「鉄の研究所」は、未来の圧倒的な国力を静かに生み出していた。
そんなある日、秀吉から仁斎へ、思いがけない命令が下った。
仁斎が堺の商人たちと、何やらコソコソと画策していることを、快く思っていなかった秀吉の当てつけにも似た命令だった。
「仁斎。貴様、近頃堺の商人どもと、何やらやっておるそうだな。そんな薄汚い鉄いじりよりも、貴様にはもっと相応しい役目を与えてやる。…茶々姫の世話役じゃ。天下人の懐刀ならば、織田の姫君の一人や二人、手懐けられようぞ」
大坂城の一角に新たに迎え入れた、ある姫の世話役を命じる、というものだった。
その姫の名は、茶々。
浅井長政とお市の方の長女。柴田勝家と共に北ノ庄で死んだはずの母から、唯一秀吉の元へ送られた、信長の姪。
仁斎が、彼女の住まう豪奢ながらも、どこか人の温もりのない御殿を訪れると、部屋の主は縁側で一人、静かに外を眺めていた。
その振り向いた姿に、仁斎は一瞬息を呑んだ。
息を呑むほどに、美しい。だが、その美しさは、母・お市の方が持っていた、儚げな月光のようなそれとは全く異なっていた。
怜悧な理知の光を宿した、強い瞳。そして、その奥に決して誰にも屈することのない、鋼のような誇り。
仁斎は、無意識に彼女を【査定】していた。
【対象:茶々(後の淀殿)】
資産(Assets):織田家の血脈(最高級ブランド)99、美貌 95
負債・リスク(Liabilities & Risks):プライドの高さ 98、行動の予測不能性 90、対秀吉・仁斎への潜在的憎悪 80
定性コメント:極めて価値の高い、しかし、コントロール不可能な**“感情資産”**。お市の方の失敗を繰り返す、最大の要因となりうる。最重要監視対象。
「…あなたが、猿を天下人にしたという、勘定だけの男ですの?」
茶々は、仁斎の顔を真っ直ぐに見据え、鈴を転がすような、しかし、どこまでも冷たい声で言った。
「母や、柴田の叔父上を死に追いやったのは、あなたなのでしょう?」
その言葉は、刃のように、仁斎の思考の鎧を貫いた。
お市の、炎の中で自ら死を選んだ、あの誇り高い姿が脳裏に蘇る。あの時、自分は彼女の「価値」は査定したが、彼女の「意志」を完全に見誤った。
目の前の少女の瞳は、母親とそして叔父である織田信長と同じ色をしていた。
計算では決して支配できない、人間の誇りの色だ。
仁斎は、初めて査定対象を前に、返す言葉を見失った。
彼の完璧に構築された論理の世界が、このたった二言の問いによって大きく揺らいでいた。
彼は、ただ黙って、その場で深く頭を下げることしかできなかった。
御殿を後にした仁斎の脳裏で、警報が鳴り響いていた。
『まずい。俺の計画書に、また計算不能な変数が現れた。秀吉の暴走、信長の帰還、そしてこの茶々という名の新たなリスク…』
仁斎は、天守を見上げた。そこには、傲慢な主君がいる。そして、その背後には己を試す、影の会長がいる。
『株式会社・日本の経営は、俺が想定していた以上に、複雑で厄介なものになりそうだ』
彼のディールは初めて数字とロジックだけでは解けない、人間の「心」という名の巨大な迷宮に足を踏み入れていた。
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