第二十五話:戦後処理
九州平定を成し遂げた豊臣軍が、意気揚々と大坂へ凱旋した。
城下は、かつてないほどの祝祭の熱気に包まれていた。民衆は日の本を一つにまとめ、戦乱の世を終わらせた、新たな天下人、豊臣秀吉の名を、熱狂的にそして敬虔に叫び続けている。
大坂城の天守、その最上階から、仁斎はその光景を見下ろしていた。隣には、同じく、眼下に広がる自らの「作品」を満足げに眺めている、秀吉の姿があった。
その顔はもはや神にでもなったかのような、傲慢な輝きに満ちている。
「見ろ、仁斎! この日ノ本は、もはや完全にワシの掌中にある! 民のこの喜びよう! 全てこのワシの、威光の賜物よ!」
秀吉は仁斎の肩を馴れ馴れしく叩いた。
「次は、いよいよ、海を渡るぞ! 明国を切り取り、お主にも、その一方を与えてやろうぞ!」
その言葉には、もはやかつて仁斎に向けられていた、事業パートナーとしての信頼の響きはない。絶対者がその数ある家臣の一人にかける、恩着せがましい甘い響きだけがあった。
数日後。薩摩・泰平寺。
秀吉の本陣の前に、一人の僧形の男が静かに座している。
島津家当主、島津義久。
その背後には猛将として知られる弟・義弘をはじめ、島津家の重臣たちが、みな武器を置き、頭を垂れている。それは九州を席巻した、最強の武闘派集団が完全に豊臣の軍門に降ったことを、天下に示す歴史的な光景だった。
「…面を、上げい」
上座に座す秀吉が、勝ち誇った声で命じる。
仁斎は、その光景を冷めた目で見つめていた。
義久は敗軍の将でありながら、その背筋は一本まっすぐに伸び、その瞳には恥辱ではなく、一族の未来を憂う、当主としての静かな覚悟が宿っていた。
その敗者らしからぬ、堂々とした佇まいを見た、仁斎の脳内スクリーンが、初めて彼を本格的に【査定】する。
【対象:島津 義久】
**ステータス:**降伏(Surrender)
**定性コメント:**極めて高い潜在能力を持つ、優良な経営者。今回の敗北は、市場環境の激変に対応できなかったため。適切なマネジメントを行えば、グループの重要な一員として、高いパフォーマンスを発揮する。M&A後の、PMI(経営統合)において、最重要人物の一人。
その無機質なテキストが、仁斎の思考に一つの巨大なパラダイムシフトをもたらした。
『…そうか』
仁斎は、静かに目を閉じた。
『M&Aの本質は破壊ではない。価値の再結合だ。優秀な人材、優れた技術、強固なブランド…それらを自社のポートフォリオにいかに効果的に組み込むか。それがディールメーカーの真の腕の見せ所だ』
彼の脳裏にかつての上司たちの愚かな顔が浮かぶ。彼らは買収した企業の優れた文化や人材を理解しようともせず、ただ自分たちのやり方を押し付け、結果、その企業の価値を大きく損なわせていった。
『恐怖で支配した、信長様のやり方とも違う。恩賞で心を釣ろうとする、殿下のやり方とも違う。俺がやるべきは、彼ら島津に“豊臣グループの一員”として、新たな“役割”と“目的”を与え、自らの意志で我々のために働かせることだ。…これこそが、Post-Merger Integrationの本質…!』
敵を滅ぼすことだけが、戦ではない。優れた経営者は敵としてではなく、味方として自社の戦力に組み込むべきなのだ。
その思考はかつての主君・織田信長とは決定的に異なっていた。
大坂城で開かれた、戦後処理を決定するための正式な軍議。
居並ぶ諸将は当然のように島津家への厳しい処分を口々に要求した。
「島津の首魁、義久は斬首! 一族は根切り! 領地は我ら戦功のあった者で分けるべきかと!」
血気にはやる武将の一人が叫ぶと、同調する声が次々と上がった。それがこの時代の常識だった。
その時、末席に座っていた仁斎が静かに立ち上がった。
「恐れながら、申し上げます。島津家の処遇につき、私に一つ、考えがございます」
広間がしんと静まり返る。秀吉が不機嫌そうな目で仁斎を促した。
仁斎の提案は、諸将の度肝を抜いた。
「島津義久殿には、ご隠居いただく。そして、家督は勇猛なる弟君・義弘殿に継がせるのです。領地も薩摩、大隅、日向の一部…彼らが元々治めていた土地の大部分は、そのまま安堵し、豊臣家の一人の大名として改めて統治を命じます。――以上でございます」
斬首も、領地没収もなし。
あまりに寛大すぎる、いや、降伏した相手への処遇としてはありえない内容だった。
仁斎は言葉を続ける。
「島津の強さを、敵としてではなく、味方として使うのです。彼らの牙を我々のために、外へ向けて振るわせる。その方が彼らを滅ぼし、その跡地に我らの兵を置くよりも遥かに少ない費用で、大きな力を得られます」
だが、秀吉はその合理的な進言を鼻で笑った。
「馬鹿を言え、仁斎! 降伏したとはいえ、奴らはワシに弓を引いた者どもぞ! それをお構いなしだと申すか! ワシに従った者たちへの恩賞はどうなる!」
秀吉の怒声が広間に響く。諸将も、当然だ、という顔で頷いている。
仁斎は、この男がもはや論理では動かせぬステージに立ってしまったことを悟った。
彼はゆっくりと秀吉に歩み寄ると、他の誰にも聞こえぬ、氷のような声で囁いた。
「殿下。これは、私の考えであると同時に、あるお方のご意思でもあります」
秀吉の顔から血の気が引いた。
その脳裏に、本能寺で燃え盛る炎と共に死んだはずのあの魔王の顔が鮮やかに浮かび上がる。
(この男…仁斎…。死んだはずの上様の威光を、まるで己のもののように纏っておる。こやつは上様の亡霊か、さもなくばその魂を取り込んだ物の怪か…!)
仁斎だけが、あの男が死の間際に何を考えていたのかを知っている。そして、その証である私印を、今も持っている。その事実が、秀吉の喉元に見えない刃を突きつけていた。
「…これ以上の議論は、無用かと存じます」
仁斎の言葉は静かだったが、絶対的な最終通告として、秀吉の心臓を鷲掴みにした。
秀吉は、数秒間、仁斎を憎悪に満ちた目で見つめた後、わなわなと震える唇で絞り出すように言った。
「……うむ。仁斎の申す通り、島津の処分はそれで良い。異論は認めぬ」
その鶴の一声に、諸将は何が起こったのか理解できないまま、ただ平伏するしかなかった。
彼らは、この瞬間、この国の権力構造が目に見えぬところで、完全に変質したことをまだ知らない。
軍議の後、仁斎は一人、天守にいた。
秀吉との間にあった歪な信頼関係は、今、完全に終わった。
『“影の会長”の威光という、究極のカードを切ってしまった。これで、CEO(秀吉)との関係は、修復不可能なレベルまで毀損された。もはや、彼は俺を、便利な道具ではなく、己を脅かす最大の脅威としか見ないだろう』
だが、仁斎に後悔はなかった。信長から課された「最終監査」は、完璧な形で完了したのだ。
『これでいい。大陸への暴走は阻止できた。そして、島津という最強の“戦力”を手に入れた』
株式会社・日本の真の企業価値向上のための、次なる一手は何か。
仁斎は窓の外に広がる豊かになった城下町を見下ろした。
そして、全く新しいディールの計画書を、脳内で開き始めた。
最後までお読みいただきありがとうございました!
少しでも面白いと思っていただけたら、下の☆で評価やブックマークをいただけると嬉しいです!