第二話:事業継続計画(BCP)
静寂が、刃となって肌を刺す。
長谷川仁斎の言葉は、投じられた石のようにはるか遠くまで波紋を広げ、安土城の広間を満たしていた。
「――家中の、乗っ取り、だと?」
地を這うような信長の声が、沈黙を破った。その双眸は、もはや怒りを通り越し、殺意という名の冷たい光をたたえている。側近の武将たちが、一斉に刀の柄に手をかけた。
広間の入り口に立つ明智光秀が、ゆっくりと一歩前に出た。その表情は完璧な忠臣のそれだ。
「上様、お聞き入れなさいますな。この者は、日頃の不遇から気を違えたか、さもなくば何者かに操られた間者でありましょう。この光秀が、即刻、首を刎ねてご覧に入れまする」
『完璧なポーカーフェイス。だが【査定】の数値は嘘をつかない。謀反リスク、96%…!』
光秀の言葉は、火に油を注いだ。信長が、ゆっくりと立ち上がる。その動きだけで、空気が軋む。
「仁斎とやら。貴様、今、己が何を口にしたか分かっておるのか。誰が、このわしを裏切ると申す。名を、言え」
絶体絶命。
ここで「光秀」の名を挙げれば、何の証拠もない戯言として、その場で斬られて終わる。
仁斎は、恐怖に凍りつく身体の芯に、黒澤仁という男の冷徹な思考を杭として打ち込んだ。これは交渉だ。相手を感情的にさせては負けだ。必要なのは、扇動ではなく、冷静なリスクの提示。
「――名を挙げることに、意味はございませぬ」
仁斎は、信長と、その背後にいる光秀を真っ直ぐに見据えた。
「私が指摘しておりますのは、特定の誰かではございません。織田家という仕組みそのものが、『誰であっても家中の乗っ取りが可能となる』ほどの致命的な脆弱性を抱えているという、事実でございます」
「……何?」
「たとえ話にございます。もし、上様が京の宿所にて、寡兵でいるところを襲われたら? もし、その襲撃者が、上様の信頼厚く、兵を動かしても誰も怪しまぬ立場の者であったら? もし、その者が事前に、他の重臣たちを遠方へ払う策を弄していたとしたら?――今の織田家に、これを防ぐ手立てはございませぬ」
仁斎の言葉は、具体的な謀反人の名を出さず、それでいて、今まさに光秀がやろうとしている計画の骨子を正確になぞっていた。
光秀の眉が、僅かに動く。信長の表情から、殺気がすうっと引いていく。代わりに宿るのは、合理主義者としての冷たい探求心。
「……面白い。貴様の言う『手立て』とやらを、申してみよ」
「はっ。ですが、その儀は、あまりに機密に触れまする。何卒、御二人きりにて…」
信長は一瞬だけ光秀に目をやり、そして、短く命じた。
「皆、下がれ。光秀、貴様もだ」
「…はっ」
光秀は、無念とも、安堵ともつかぬ複雑な表情で一礼し、広間を去っていった。
二人きりになった広間で、仁斎は信長に一枚の絵図面を差し出した。それは、京の地図と、本能寺の見取り図だった。
「私がご提案いたしますのは、この危機そのものを利用する**『起死回生の策』**にございます」
『事業継続計画(Business Continuity Plan)。略してBCP。災害やシステム障害など、危機的状況に陥った際に、重要業務を継続するための戦略だ』
「上様には、予定通り、京の本能寺へお入りいただきます」
「当然だ。わしが、うつけの戯言に怯えて、予定を変えると思うか」
「ですが、お入りになるのは、上様ではない」
仁斎は、低い声で言った。
「影武者をお使いください。そして上様ご自身は、変事が起きた後、密かに安土へお戻りになるのです」
『CEOの物理的保護が最優先。クーデターは、それが起きることを前提に動く。止めるのではない。利用するのだ』
信長は、腕を組んで黙り込んだ。常人ならば一笑に付すであろう、荒唐無稽な策。だが、この男は違った。その思考は、常に常識の枠外にあった。
「首謀者は、お主の言う通りなら、わしが死んだと思うであろう。そして、新たな天下人として名乗りを上げる。そこを、叩くのだな」
「御意。潜伏された上様からの密命を受け、羽柴秀吉殿を動かします。彼ならば、驚異的な速さで京へ駆け戻り、逆賊を討つでしょう」
『リスクを取ってでも最速でリターンを狙う秀吉の行動原理は、この局面で最も有効に機能する』
「なぜ、勝家ではない」
「柴田様は、優れた武将。ですが、このような前代未聞の事態に対応できる柔軟性がございませぬ。旧来の戦に固執し、好機を逃しましょう」
『柴田勝家の負債項目:戦術的柔軟性: 25。このディールには不向きだ』
仁斎の淀みない返答に、信長は初めて、口の端を歪めて笑った。それは、面白い玩具を見つけた子どものような、無垢で残酷な笑みだった。
「良いだろう。その策、乗った」
あまりにあっさりと、信長は頷いた。
「仁斎。貴様に、この計画の全権を委ねる。わしが『死んだ』後、貴様がわし自身だ。好きに采配を振るうがよい」
信長は、懐から一つの小さな袋を取り、仁斎に投げ渡した。中には、彼の私印が入っている。
「勅命だ。しくじれば、貴様の首だけでは済まさんぞ」
『これで委任状(Power of Attorney)は手に入れた。あとは、計画通りにディールを進めるだけだ』
数日後。
織田信長は、僅かな供回りだけを連れて、京へ向けて出立した。
その行列を、仁斎は城門から静かに見送っていた。
歴史という名の巨大な奔流は、もう止められない。
だが、仁斎の目的は、流れを止めることではない。
流れを読み、利用し、その先にある「日本」という名の、史上最大の買収案件を成功させること。
そのための第一段階(フェーズ1)、『CEOの事業承継偽装と、クーデターを利用した不良資産の整理』が、今、静かに幕を開けた。
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