第十一話:徳川家康
賤ヶ岳の戦勝処理は、仁斎の指揮下で迅速に進められた。
旧柴田領は、戦功に応じて丹羽長秀や前田利家といった「友好的な大株主」へ巧みに再分配され、秀吉を中心とした新体制は、盤石なものになりつつあった。大坂に新たな本城の建設も始まり、羽柴秀吉という名の企業の時価総額は、天を突く勢いで上昇していく。
だが、仁斎の思考は、その熱狂から完全に切り離されていた。
『柴田勝家という不良債権の処理は終わった。織田家の再建は順調だ。だが、市場にはまだ、プライベート・エクイティ・ファンドのように、虎視眈々と優良資産(天下)を狙う、巨大な競合が存在する』
その夜、大坂城の普請現場を見下ろす櫓で、秀吉は上機嫌に言った。
「仁斎! 見ろ! ワシの城じゃ! あとは、三河の田舎者をひねり潰せば、この日ノ本は、ワシのものよ!」
その横顔は、天下という最高の玩具を目前にした、無邪気な子供のようであった。
その言葉に、仁斎は静かに首を振った。
「羽柴様。徳川殿は、柴田様とは違います」
仁斎は、脳内に、これから対峙する男の【査定】データを映し出す。それは、今まで見てきたどの武将とも、全く異質なものだった。
【対象:徳川 家康】
資産(Assets):三河武士団の忠誠度 99、領国経営能力 95、忍耐力 99 (MAX)
負債・リスク(Liabilities & Risks):拡張速度の遅さ 20
野心(Ambition):測定不能(??)
定性コメント:忍耐強く安値で仕込み(買収)、価値が上がるまで何十年でも塩漬けにして(耐え)、最後に莫大な利益を得る(再評価益)、究極の**“超長期目線バリュー型PEファンド”**。その真の目的(ファンドの最終目標)は、測定不能。ハイリスクな投機には絶対に応じない。
「彼は、決して挑発には乗りません。こちらが仕掛けても、彼はただ、嵐が過ぎ去るのを待つでしょう。力攻めは、泥沼の消耗戦を招くだけです」
仁斎は、初めて自分の戦略が通用しない可能性のある、鏡写しのような思考を持つ男の存在を、秀吉に伝えた。
その頃、三河・岡崎城。
徳川家康の元に、一通の密書が届けられていた。差出人は、織田信長の次男、織田信雄。
信雄は、清洲会議以降、兄・信孝をないがしろにし、実権を握っていく秀吉に対し、強いイラ立ちと危機感を募らせていた。
【対象:織田 信雄】
資産:織田家の血筋 85
負債:判断力 15、虚栄心 90、被煽動性 95
定性コメント:経営権を欲しながら、その能力も覚悟もない“物言う株主”。外部のアクティビストにとって、格好の介入材料。
家康は、信雄からの「秀吉を討つべし」という扇動的な文面を、表情一つ変えずに読み終えた。
家臣の一人が進み出る。
「殿! これは好機! 信雄様を担げば、羽柴を討つ大義名分が立ちまする!」
だが、家康は静かに書状を畳んだ。その口元に、誰にも見せぬ、千年先の獲物を見据えるかのような、微かな笑みが浮かんだ。
(猿が、織田の家を食い荒らすか。だが、まだ早い。ワシは、大義という名の鎧を、幾重にも着込んでからでなければ、戦はせぬ)
彼の脳裏には、仁斎と同じく、冷徹な損益計算だけが渦巻いていた。
しかし、事態は仁斎の望まない形で動き出す。
信雄が、家康との連携を疑われたことを発端に、自領の重臣を独断で三人も殺害するという暴挙に出たのだ。この行為が、事実上、秀吉への宣戦布告となった。
そして、信雄は家康に正式な救援を要請。家康は、ついに「織田家の内紛を鎮め、信長の遺志を守る」という、完璧な大義名分を手に入れた。
「信雄様が、徳川と組んだだと!」
秀吉の怒声が、天守に響き渡る。
仁斎は、その報告を聞きながら、奥歯を噛み締めた。
『まただ。また、織田の血筋が、俺の計算を狂わせるのか。彼らの“誇り”という名の、非合理なリスク変数を、俺はまだ完全にはモデル化できていない』
お市の死が、脳裏をよぎる。人の心という、最も不確実なパラメータ。彼の能力が、唯一、完全には捉えきれない領域。
仁斎は、顔を上げた。その瞳には、自らの計算ミスに対する、静かな怒りが燃えていた。
「羽柴様。もはや、選択の余地はございません」
仁斎は、地図の上で、尾張と三河の国境を、強く指でなぞった。
『徳川家康が、ついに市場に参加した。これより、我々と徳川ファンドとの、全面的な**“資本衝突”**を開始する。――小牧・長久手にて』
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