第一話:査定
もはや億の単位は、数字の羅列でしかない。
モニターの光が反射するガラス張りの会議室。時刻は23時を回っている。
「黒澤さん、ターゲット側の取締役会議事録、受領しました。SPAへの電子署名、先方のオーナー社長から完了したとの通知が入っています」
ヴァイスプレジデントの声に、黒澤 仁は無言で頷いた。役職はマネージング・ディレクター、日本M&A部門統括責任者。彼の仕事は、数千億のディールをクロージングさせることだ。
「アソシエイトにクロージング日の設定を急がせろ。それと、アナリストにはTombstoneの発注準備を。リーグテーブルの順位が一つ上がるぞ」
『はい、直ちに』
黒澤の視線は、ラップトップに映る最終版のQoE報告書に落ちる。資産内容の精査は終わっている。今は、その収益性が将来にわたって持続可能か、その一点だけを、凍てつくような思考で検分していた。
疲労が思考の粘度を上げる。テーブルの上の硝子瓶から金平糖を三粒取り出し、口に含む。不器用な甘さが一瞬だけ疲労を和らげる。
休憩室のソファに身体を沈め、スマートフォンで10分のアラームをセットした。目を閉じた瞬間、意識は深海に沈む鉄塊のように、唐突に落ちた。
微かなアラーム音が、蝉時雨へと変調していく。
意識が浮上する。檜の匂い。空調ではない、粘つくような熱を含んだ風。
「――仁斎、ぼうっとしておる場合か。上様がお呼びであるぞ」
甲高い声。見上げれば、烏帽子を被った男が、侮蔑を隠さぬ目で見下ろしている。
(仁斎…? 誰だ)
思考が異音を立てる。己の手は骨ばり、麻の着物を纏っている。視線の先には、板張りの廊下と、巨大な天守。
記憶の奔流。長谷川仁斎。織田家の祐筆。禄は低いが、信長の側近くに仕える。
(転生…か。非合理の極みだ)
だが、このリアリティが、それ以外の仮説を否定する。
仁斎は、黒澤の思考のまま立ち上がると、主君――織田信長が待つ広間へと歩を進めた。すれ違う武将、交わされる会話の断片が、脳内で再構築されていく。
「――惟任様が、丹波へ発たれる」
「上様は、備中の猿の応援に自ら赴かれる」
「徳川殿も、間もなく安土へご到着」
史実のデータが、瞬時に検索される。
(天正十年、1582年。本能寺の変、直前)
絶望的な状況。だが、黒澤の血が、仁斎の身体の内で熱を帯びる。
その時、彼の眼前に、半透明のスクリーンが展開された。すれ違った武将――柴田勝家の上に、無機質なテキストが浮かび上がる。
【対象:柴田 勝家】
* 組織内階梯: 事業本部長(北陸方面管掌)
* 資産(Assets):
* 武勇: 88
* 統率力: 85
* 実績(対外戦績): 90
* 負債・リスク(Liabilities & Risks):
* 戦術的柔軟性: 25
* 新技術への適応力: 15
* 企業価値評価(Valuation): 貢献価値 48,000貫
(※当時の1貫≒現代価値で約10万円。約48億円相当の企業価値貢献と試算)
* 定性コメント: 旧来の戦術への固執は、織田家の革新性を阻害するディスカウント要因。今後の拡張戦略において、Up-or-Outの対象とすべき人材である。
(なるほど。面白い)
これは査定(Valuation)。人や組織の本質を、冷徹な数値とテキストで可視化する能力。黒澤が最も得意とするフィールドそのものだ。
広間にたどり着くと、異様な圧力を放つ男が、地図を睨んでいた。
第六天魔王、織田信長。
その男を【査定】した瞬間、仁斎は息を呑んだ。
【対象:織田 信長】
* 組織内階梯: 創業者CEO
* 資産(Assets):
* カリスマ: 99 (MAX)
* 戦略性: 95
* 革新性: 99 (MAX)
* 負債・リスク(Liabilities & Risks):
* 協調性: 5
* ガバナンス軽視: 90%
* サクセッションプラン不備: 95%
* 企業価値評価(Valuation): 算出不能(Priceless)
* 定性コメント: 圧倒的なトップダウンで組織を牽引するが、その存在自体が最大の経営リスク(Single Point of Failure)。彼の不在は、即ち組織の死を意味する。
価値は無限大。だが、足元は驚くほど脆い。砂上の楼閣だ。
「仁斎か。遅い」
信長は地図から目を離さず、言った。
「貴様、算術に明るいと聞く。この度の中国攻め、兵糧の差配に滞りはないか、再計算させよ」
「御意に。……ですが、その前に」
仁斎は、周囲の側近が息を呑むのを感じながら、一歩前に出た。
「申し上げたき儀がございます」
「何だ」
「織田家の治め方には、見過ごせぬ危うさが三つございます」
信長の動きが、止まった。鷲のような双眸が、仁斎を射抜く。殺気ともいえる圧力が、全身に突き刺さる。だが、仁斎は怯まない。これは交渉だ。
「一つ。あまりに全ての権力が、上様お一方に集まっております。財を司る者、政を補佐する者へと役目を分けるお考えはございませぬか」
『CFO、COOの不在。典型的なワンマン経営の脆弱性だ』
「……ほう」
「二つ。上様に万一のことがあれば、織田家は立ち行かなくなります。後継ぎの備えが、あまりに心許ない。これでは家臣一同、安心して戦えませぬ」
『事業継続計画(BCP)の欠如。これは株主(家臣)への背任行為に等しい』
信長の眉が、ぴくりと動いた。平伏すべき下の者が発する言葉に、無視できぬ芯があることを、この男は理解し始めている。
「そして、三つ目」
仁斎は言葉を切った。視線の先、広間の入り口に、冷徹な光を宿した男の姿を捉える。明智光秀。
【対象:明智 光秀】
* 組織内階梯: エリート幹部(近畿管区長 兼 渉外担当)
* 資産(Assets):
* 知略: 92
* 実務能力: 94
* 負債・リスク(Liabilities & Risks):
* 謀反リスク: 95%
* 主要KPI: 対石山本願寺戦の功績不問、丹波・近江への国替えに伴う実質減俸、CEOへの謁見回数の著しい減少。
(インジケーターが危険水域を振り切っている)
「三つ目。目覚ましい手柄を立てた者へ、働きに見合う恩賞が与えられておりません。これでは、優れた者ほど不満を溜め、離れていきましょう」
『成果主義の崩壊が、優秀な人材の離反を招く。光秀を見ろ。まさにその実例だ』
仁斎は、信長の目を真っ直ぐに見据えた。
「申し上げます、上様!」
仁斎の声が、静まり返った安土城の広間に響き渡った。
「このままでは織田家は、外の敵ではなく、内側から最も信を置く者に喰い破られます! それは、最も卑劣な形の――家中の乗っ取りでございます!」
『明智光秀による、偽装MBO。タイムリミットは、もう…ない』
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