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恋愛小説シリーズ

王子が貴族令嬢との婚約を破棄して、学食のおばさんをやっている私を愛していると言い出したのですが……。

作者: 青帯


 トトトトトトトトン。

 トトトトトトトトン。


 よし。

 全部の野菜のみじん切り完了。


「エマさんの包丁ほうちょうさばき、いつ見てもお見事だわ」


「いえいえ。それほどでも」


 私は感心している同僚に向かって微笑んだ。


 グツグツと音を立てている大鍋に刻んだ野菜を入れる。

 それが済んだところでエプロンと頭の三角巾を整えながらあたりを見渡した。


 ここはイングリット帝国学園の学食の調理場。

 私を含めて十人ほどの女性がそれぞれの作業にいそしんでいる。

 この人数で何百人もいる生徒の昼食を作るのは大変ではあるけれど、やりがいのあるお仕事。


 さて、味見を。


「うん。いい味」


 野菜スープの出来は申し分ない。

 そう思ったときパンパンという音が聞こえた。


「みんな。一度集まってちょうだい」


 初老の女性が手を叩いて声を張り上げている。

 調理場を取り仕切っているチーフだ。

 その近くにみんなで集合した。


「あと少しで昼食の時間になるわ。今日も忙しくなるでしょうけど、よろしくね」


 一斉に「はい」と返事をした。


「それからいつも言っていることだけれど、私たち庶民のパートタイマ―と違って、生徒のほとんどは王様や貴族様のご子息ご息女よ」


 チーフの言う通りだ。

 学園を運営するイングリット帝国は大陸の全国家を束ねている。

 帝国に所属する50以上の国々の王侯貴族たちはそれぞれの子息子女をこの学園に進学させている。

 学園の所在地は帝国政治本部と同じ大陸中央に位置する某国の大都市。

 王侯貴族の子息子女の多くは自国を離れて15歳から18歳までをこの学園で過ごす。

 

「私たち学食のおばさんから見れば子供や孫みたいな歳でも、生徒の方々には礼儀正しく敬語で接しなければ駄目よ」


 チーフの言葉にみんながうなずいている。


「あらいけない。一番若いエマさんはまだ二十代だったわよね? 独身で子供もいないのに、おばさんは可哀想よねえ」


 チーフがしまったという顔をすると、みんなから笑いが漏れた。


「いえいえ。私ももう29歳で、学生から見たらおばさんでしょうから」


 私は首を横に振りつつ顔の前で手を動かした。


「そんなこと無いわよぉ。あら? 時間みたいだわ。作業に取り掛かりましょうか」


 みんなが「はーい」と返事をしてそれぞれの持ち場に向かった。


「エマさんもカウンター係よね? 行きましょう」


 何人かと一緒にカウンターに移動した。


「エマさんって独身だったのね」


 隣の女性が話し掛けてきた。

 ここで働き始めたばかりの三十代半ばの女性だ。


「聞いてもいいかしら? あの、恋人はいるの?」


 隣の女性は顔を近づけて小声で訊ねてきた。


「いません」


 私は淡々(たんたん)と言った。


「そうなの。あのね、私の弟、エマさんと同年代で独身なの。イケメンではないけれど真面目に働いているわ」


「はあ」


「もしよかったら会ってみない?」


 私は苦笑した。


「いえいえ。私なんかでは弟さんに悪いですから」


「あら、そんなこと──」


「それより、ほら。生徒の皆さんがやってきましたよ」


 私が話を切り上げて正面を向くと隣の女性も慌てて同じようにした。

 制服に身を包んだ生徒たちが食堂に入ってきている。

 五つあるカウンターの受付口全てにすぐに行列ができた。


「Aランチを一つお願い致しますわ」


 私の受付口にきた女子生徒がカウンターの向こうから注文をしてきた。


「すぐにお持ち致します。どうぞ」


 私はAランチを乗せたプレートをカウンター越しに渡して笑顔でお辞儀をした。

 女子生徒は軽く会釈してテーブル席へと向かっていく。


「次の方、ご注文をどうぞ」


「Bランチを」


「はい。ただいま」


 微笑みながら男子生徒にBランチを手渡した。


 他の受付口係の同僚たちは上流階級相手に粗相がないよう事務的に対応をしているように見える。

 笑顔を浮かべる場合もただの営業スマイル。


 だけど私は違う。

 未来の可能性に満ち溢れた少年少女たちと接していると自然と笑みがこぼれる。

 そして厚かましいかもしれないけれど、この学園の生徒たちを自分の子供のように思っている。


「Cランチですね? 承りました。はい、どうぞ!」


 また笑顔で料理を手渡した。

 しばらくの間それを続けているとだんだんと行列は短くなり、注文にやってくる生徒がまばらになってきた。


 こうやって余裕が出てくると、私はテーブル席の生徒たちを眺めるようにしている。


「美味しいですわ」


「今日も美味うまいな」


 生徒たちが美味しそうに食べている姿はとても励みになる。

 それに耳に入ってくる食事中の会話もちょっとした楽しみだったりする。


「僕は実は、キャサリンのことが気になっているんだ」


「あのセリア国の男爵令嬢か。可愛いよね」


 思春期の少年少女たちだけに恋愛関連の話題は絶えない。

 そういった様子も微笑ましい。


「午後の授業はなんだっけ?」


「数学と美術」


 学生の本分である学業についての会話も少なくない。


「さっきの歴史の授業、面白かったですわ」


「女帝イングリット様についてでしたものね」


 女子生徒の四人組が交わしている会話が聞こえてきた。


 女帝イングリットの伝説────。


 イングリットは約30年前、大陸の大小50以上の国々が戦乱に明け暮れていた時代に小国ニホの姫として生まれた。


 父王を早くに戦で亡くし、十代半ばで王位を継いで女王になると乱世の平定を宣言。

 史上最強ともいわれる剣技と比類なき軍才によって、わずか3年で50以上存在する大陸の国を全て支配下に納めて戦乱を終わらせた。


 そして大陸諸国を束ねるイングリット帝国を設立して女帝に即位。

 卓越した政治手腕で数々の優れた政策や事業を実施している。


 イングリット帝国学園を設立して大陸諸国の王侯貴族の子息子女の教育環境を整えたのもそのうちの一つだ。


「つまりイングリット様がこのイングリット帝国学園を作って下さったおかげで、こうやってわたくしたちは様々なことを学びながら色々な国の方々と交流することができているということですわね」


「それ以前に、戦乱の世を終わらせて下さったのもイングリット様。戦場では常に陣頭に立って剣を振るい、数多の敵を討ち取られたのだとか」


「実に勇壮で偉大なお方ですわね。諸国を帝国の支配下においていても、領土はほとんどそのままにして自治権も認めて下さっていますし」


「感謝してもしきれませんわね。わたくしの国では、長い間侵略を繰り返していた隣国の部隊を壊滅させてくださったことで英雄と称えられておりますの。隣国では逆に恐れられているそうですけれど」


「こんなにも有名なお方なのに、お姿はあまり知られていないのよね。肖像画を描かせたりなさらないらしくて。どんな見目みめをしていらっしゃるのかしら?」


「伝説によると額に五芒星の聖痕があるらしいですわよ」


「まあ神秘的。一度でいいからお会いしてみたいですわ」


「お仕事をされていらっしゃるという帝国政治本部に行けば会えるのかしら?」


 女子生徒の四人組は会話に夢中になっている。

 だが不意に一人が視線を上げた。


「フェリクス様とメアリーよ」


 一人が食堂の入口あたりを見て呟くと、他の三人もそちらに視線を向けた。

 きらびやかな男子生徒と女子生徒がカウンターへと近づいてくる。


 男子生徒はフェリクス・アルベール。

 帝国全土でも五指に入る大国アルベールの王子。

 長身で整った顔立ちは常にクール。

 滑らかな銀髪が歩くたびに揺れている。


 女子生徒の方はメアリー・トレイユ。

 テルサという小さな国のトレイユ子爵家の令嬢。

 魅惑的なスタイルと大人びた美貌の持ち主。

 ウェーブの掛かった栗色の髪がその魅力を後押ししている。


 食堂内の視線が二人に集まっている。

 二人は美男美女というだけでなく婚約を結んでいることでも有名。


「うふふ。フェリクス様は何になさいますの?」


「……そう言うメアリーは?」


 婚約をしているだけあって昼食もいつも一緒。

 メアリーの方が積極的に誘っている様子。

 フェリクスはどこか乗り気ではないようにも見える。

 そしてなぜかフェリクスは私の受付口で注文することが多い。

 だからそういった雰囲気が伝わってくる。


 今日もフェリクスが私の受付口にやってきた。

 メアリーは隣だ。


「いらっしゃいませ。ご注文をどうぞ」


 私は笑顔でフェリクスにお辞儀をした。

 何にせよ大切に思っている生徒たちだ。


「Aランチを頼む。ところでメアリー。君との婚約を破棄する」


「Bランチをお願いしますわ。……って、婚約破棄ですってぇぇぇ!?」


 フェリクスが正面の私に顔を向けた状態でクールな口調で言った。


 隣の受付口のメアリーは一瞬遅れて絶叫した。

 驚愕の表情をフェリクスに向けている。


「なぜですの!? フェリクス王子!?」


「なぜなら私は、このご婦人を愛しているからだ」


 フェリクスは注文をしたときのままカウンター越しに私を見ている。

 後ろを振り返ったが誰もいない。


 つまり────。

 私が自分の顔を指さすと、フェリクスがうなずいた。


「この人、学食のおばさんじゃない!」


 メアリーが両手でカウンターを叩いた。


「冗談ですわよね!?」


「本気だ。ご婦人。私はあなたのことを愛している」


 フェリクスはクールな表情のままだが頬がわずかに赤くなっている。

 どうやら言っていることは本気らしい。

 予想もしていないことだった。

 これまで学食の注文について以外の会話を交わしたことさえない。


「わたくしとの婚約を破棄した理由が、学食で働いているような庶民の年増を愛しているからだなんて……」


 メアリーにとっては私以上に驚天動地の大事件だろう。

 ワナワナと震えている。


「メアリー。私の愛している人に失礼なことを言わないでくれ」


 フェリクスがメアリーをたしなめたあとで再び私を見つめてきた。


「ご婦人、お名前は?」


「エマと申します」


 名前も知らなかったようだ。

 それなのに────。


「エマ殿。私はずっと貴女あなたをを愛していた。この愛を受け入れて欲しい」


 フェリクスがカウンターの向こうから私を見つめている。

 それだけではない。

 メアリー。

 同僚たち。

 学生たち。


 学食にいる全員の視線が私に集まっているようだった。


「答えは?」


 私は微笑んだ。


「謹んでお断りいたします」


 きっぱりと言って丁寧にお辞儀をした。


 そしてざわめく周囲を余所よそに、料理を乗せたトレーを持ってきた。


「こちらAランチです。お待たせいたしました」


 フェリクスにAランチを手渡して再びお辞儀をした。


「突然で驚かせてしまったかな。気持ちの整理に時間が必要なようだ」


「いいえ。今お伝えした通りです。答えは変わりません」


 私が首を横に振ると、フェリクスがわずかに眉間に皺を寄せた。


「私は諦めない」


 フェリクスはそう言って踵を返すと、空いているテーブル席に着いた。


「メアリー様にBランチを」


 私は隣の受付口係の女性に言った。


「あ、はい」


「いらないわよ! こんな屈辱は初めてだわ! 覚えていなさい!」


 メアリーは私を睨みつけると、早足で食堂から出て行った。


◇◇◇


「それにしてもびっくりしたわあ。エマさんがフェリクス王子から愛の告白をされちゃうなんて」


 チーフがそう言ってまかないサンドイッチを口に運んだ。

 昼休みの時間は終わっていて食堂に学生の姿はない。

 同僚のみんなと一つのテーブルに着いて少し遅めの昼食を取っている最中だ。


「ホントよねえ。そんなことってあるのねえ」


「それにしてももったいないわねぇ。エマさんってば断っちゃうなんて。玉の輿に乗れたかもしれないのに」


 さきほどのことで話題は持ちきりだ。


「身分の差のことを考えて断ったの?」


「それとも歳の差が気になったから?」


「そんなところです」


 私は淡々と言ってスープを口に運んだ。


「だけど大国アルベールの王子を拒絶するのだって怖いと思うわ」


「それなのにエマさん、全然動じてなかったわよねえ」


「いつも冷静よね。エマさんて」


 みんなが囁き合っている。


「その割には本当に嬉しそうに笑顔で生徒たちに接しているのよねぇ」


「包丁さばきは凄いし、仕事命の人なのかしら?」


「パートタイマーの学食のおばさんの仕事に?」


 私はさじを置いた。

 みんなの視線が注がれる。


「職に貴賎きせんはありません。それに私はこの仕事に誇りを持っています」


 本心を告げた。

 同僚たちは顔を見合わせている。


「イングリット帝国の将来を担うであろう王侯貴族の若者たちの成長と健康のために食事を提供する。みなさんは、ある意味では女帝や事務総長以上に重要なお役目を果たしています。本当にご苦労様です」


 そう言って微笑んだ。


「エマさんてば大げさ」


「でもなんだか張り切って仕事をしたくなっちゃったわぁ」


 みんながうなずき合っている。


「お昼を食べ終わったら、頑張って片づけと明日の仕込みをしましょうよ」


「そうね」


 みんなが口数を減らして食べるほうに注力し始めた。

 私も匙を取ってスープを飲むのを再開した。


「それはそうとエマさん、三角巾を外したら? 窮屈でしょ?」


 ここで働き始めたばかり女性が言った。

 私以外は三角巾を取って食事をしている。


「いえ、着けていたほうが落ち着くので」


「ふーん」


「そういえばエマさんが三角巾を外したところって見たことないわよね?」


「ないわよ。チーフの私はこの学園が設立された5年前からずっとエマさんと一緒に働いているけれど、一度も外したことってないと思うわ」


「色々謎の人よねえ」


 同僚たちが首を傾げた。


◇◇◇


 昼食が終ると片づけと明日の仕込みを済ませた。

 学園の放課後の時間になっている。


 みんなが着替えて帰り支度を整えてきた。

 私はエプロンに三角巾の格好のままだ。


「皆さんお疲れさまでした。戸締りはしておきますので」


「よろしくね、エマさん。それじゃあお先に」


 調理場の裏口から出て行く同僚たちを見送った。


「そういえばメアリー子爵令嬢が凄い剣幕だったけど、大丈夫かしらね」


 チーフが裏口の外から心配そうにこちらを見た。


「どうかご心配なさらず」


 私がそう言って微笑むと、チーフは少しためらいながらもドアを閉めた。


 一人になると私は腕を組んだ。

 本当はメアリーのことが気になっている。

 だが自分の身を案じている訳ではない。


「メアリーってば、学食のおばさんに負けていい気味」


「前からフェリクス王子と婚約しているのが気に食わなかったのよ」


「子爵令嬢といっても、テレサみたいな小国の田舎いなか貴族なんですもの」


 そんなふうに悪口が飛び交っていたからだ。

 メアリーのことが心配でならない。


 不意に裏口のノック音がした。

 誰かが忘れ物でも取りにきたのだろうか。


「開いています」


「あの、失礼します」


「メアリー様?」


 なんと裏口から入ってきたのはメアリーだった。

 おそるおそる私の方へと近づいてくる。


「何か御用でしょうか?」


「その、さっきは本当にごめんなさい」


 メアリーが深々と頭を下げた。


「エマさんに失礼なことを言ってしまいましたし、フェリクス王子に婚約破棄された八つ当たりも──」


「気にしておりません。どうか頭を上げて下さい」


 メアリーが頭を上げて胸を撫で下ろした。

 その直後──。


 グウウウ。


 メアリーのお腹が鳴った。


「あ、あの」


「お昼抜きですものね」


 私はクスリと笑うと、真っ赤になっているメアリーを調理台の椅子に座らせた。


「賄いの残りで申し訳ないのですが」


 お皿にサンドイッチを乗せて戻ってくるとメアリーの前に置いた。


「うふふ。ありがとう」


 メアリーは美味しそうにサンドイッチを頬張った。

 そして食べ終わると椅子を並べて座った私に語り出した。


 あのあとでフェリクスと話したらしい。

 エマ殿のことがなくても君との婚約は破棄していた、と言われたそうだ。

 君は私が大国アルベールの王子だから近づいてきたにすぎないからと。


「図星だったわ」


 メアリーが天井を見上げて大きく息を吐いた。


「私の故郷のテレサ国は貧しい小国だし、トレイユ子爵家も貴族とは名ばかりで家計は火の車。私が裕福な相手と結婚でもしない限り先は無いの。だから他の女子生徒が恐れ多いと尻込みする中、必死でフェリクス王子にアプローチして、どうにか婚約まで漕ぎつけたの」


「そうだったのですね」


「でも駄目だった」


 メアリーが首を横に振った。


「エマさんは玉の輿とかに憧れは無いの?」


「ありません」


「愛する方と結婚していらっしゃるから? 恋人がいて幸せだから?」


「ずっと独り身です。誰とも結ばれることはないでしょう」


「どうして?」


「私が、誰にも愛される資格のない人間だから────」


 私は目を伏せた。


「えっ? それはどういう────」


「何でもありません。それよりメアリー様のことです」


 仕切り直すように言った。


「大丈夫でしょうか? フェリクス王子とのことや、その」


「私のことを悪く言っている奴がたくさんいるんでしょう?」


 言いにくいがその通りだ。


「周りがどれだけ悪口を言ったって構うものですか。私、トレイユ家のために裕福な結婚相手を捕まえるのを諦める気はないから。フェリクス王子が駄目なら次に行くわ。この学園には名族の子息が集まっているんですもの」


「その意気です」


 芯の強い良い子。

 そう思いながらメアリーと調理場の外に移動した。


「サンドイッチ、ごちそうさまでした。美味しかったです」


「いえいえ、お粗末様でした」


 私は嬉しくなって微笑んだ。


「それにしてもエマさんって不思議な方ね。フェリクス王子相手に全くひるんでなかったもの。それになんだか、高貴な気品が見え隠れしているというか」


 メアリーが私を上から下までしげしげと眺めた。


「まさか。ただの学食のおばさんですよ。飴ちゃんをどうぞ」


 エプロンのポケットからキャンディーを取り出してメアリーに握らせた。


「飴ちゃんって……」


 首を傾げながら遠ざかって行くメアリーを見送ると調理場に戻った。


 あとはフェリクス。

 諦めないと言っていたけれど、引き下がってもらうにはどうすればいいか。


 思案に暮れていると物音がした。

 今度は調理場ではなくカウンターの向こうの食堂からだ。


 入口の扉が開いて男子生徒三人がズカズカと入ってきた。


「昼食の時間以外は立ち入り禁止なのですが」


 そう呼び掛けても構うことなくこちらへと向かってくる。

 さらにはカウンターに手を掛けて乗り越えると調理場に入ってきた。


「何か?」


「エマさん、あんたに用があるんだよ」


「フェリクス王子に愛されるだけあって、良く見るとべっぴんさんだねえ」


「仕事が終わってるなら俺たちに付き合ってくれよ。学園の近くの茶店サテンでお茶でもしばこうぜ」


 三人がニヤニヤしながら私を取り囲んだ。


 私は「はあ」と深くため息をついた。

 そして────。


「きゃー。助けて―」


 棒読みのような声を出した。

 すると────。


「エマ殿、大丈夫か?」


 裏口のドアが開いてフェリクスが駆け込んできた。


「お前たち、エマ殿が嫌がっているだろう。やめたまえ」


「それは出来ない相談だぜ」


「フェリクス王子こそ失せな」


「この女は俺たちが可愛がってやる」


「くっ、エマ殿が美しすぎるがゆえに。罪な女性だ。だが私が守ってみせる」


 私は再びため息をついた。


「この学園にここまで低レベルの生徒たちがいるなんて心底がっかり。芝居を打つにしても下手過ぎるし」


「いや、芝居などでは」


 フェリクスがうろたえる素振りを見せた。


「おい。俺たち貴族相手に随分生意気言ってくれるじゃねえか」


「庶民の学食のおばさんのくせによ」


「ああ、頭に来たぜ」


 三人の顔色が変わっている。

 フェリクスに頼まれた芝居の最中のはずなのに本気で怒りだしたようだ。

 失望が怒りへと変わった。


「教育が悪いのか、本人の生来の資質のせいなのか。どちらにしろ諸君らはイングリット帝国学園の恥晒しだ」


「なんだとコラ」


 一人が顔を近づけて威嚇してきた。

 血走った目で睨みつけてくる。

 だが────。


「そんな視線で殺気を込めたつもりか」


 私は目を見開いて凝視ぎょうしし返した。


「ひっ」


 生徒は悲鳴を上げて後ずさった。

 さらに他の二人、そしてフェリクスへと同じ視線を向ける。

 全員が蛇に睨まれたカエルのように動けなくなった。

 私は囲みを出ると調理場の奥に行っていくつかの物を持って戻ってきた。


 四人が息を呑んだ。

 私は右手に大皿を持っている。

 その上には二キロほどの牛肉のかたまりが四つ乗っている。

 さらに左手には、長方形型の大型包丁が二本。


「一度だけ見せてやろう。その目に刻み付けておくがいい」


 私はそう言うと大皿を上に向かって勢い良く動かした。

 四つの牛肉の塊が宙へと舞い上がる。


 そして素早く皿を調理台に置いて左手の包丁を一本右手に移した。

 さらに両方の包丁の柄を指で操って風車のように高速で回転させる。

 回転がぴたりと止まったとき、しっかりと柄を握っていた。


 包丁を手にしている両腕を体の前で交差させながら跳び上がる。

 調理台の端を蹴って、さらに高く上へ。


 中に舞っている四つの牛肉の塊の中央に達すると、二つの包丁を走らせた。

 とてつもなく速いスピードで。

 何度も何度も何度も何度も。

 

 腕を左右に伸ばした状態で着地した。

 数秒遅れて塊からスライス状へと変貌した牛肉が落ちてきた。

 大皿の上にらせんを描くように。

 牛肉が寸分の狂いもなくきれいに盛り付けられたようになった。


「今は牛の肉だ。だが人の肉も、さして斬る感触は変わらない」


 唖然としている四人に、右手の包丁を向けて言い放った。


「人の肉って……」


「ひいっ」


「ばっ、化け物だ! 逃げろ!」


 三人の生徒が背を向けて逃げ出した。

 カウンターを這うようにして超えると食堂の出口へ走り出した。

 一人が転んだが必死で立ち上がり、置き去りにした二人を追った。


 三人が出口の向こうに消えた。

 私は二つの包丁を牛肉が盛り付けられている大皿の端へと置いた。

 この場にいるのは私とフェリクスだけになっている。


「フェリクス王子はお逃げにならないのですか?」


「私は」


 普段はクールなフェリクスの表情が青ざめている。

 だが立ち去ろうとはしなかった。


「私は、あの三人にエマ殿を怖がらせて欲しいと頼んでしまった。私が颯爽さっそうと現れて助ければ好意を持ってもらえるだろうなどという馬鹿なことを考えてしまったがゆえに。そのことを詫びなければならない。済まなかった」


 フェリクスが片膝をついて頭を下げた。


「少し怖がらせるだけに留めて欲しいと言ってあったが、あの三人は明らかに怒りに駆られて我を忘れていた。エマ殿が常人離れした強さでなかったとしたら、心に傷が残るような思いをさせてしまったかもしれない。本当に済まない」


「そのことに気付いているのなら結構です。どうか立ってください」


 フェリクスは立ち上がったが、うなだれたままだった。


「ところで、お腹は空いていますか?」


 そう問いかけると、ようやくフェリクスが顔を上げた。


◇◇◇


 フェリクスと二人で調理台の椅子に腰かけている。

 そしてフェリクスの前には大きな椀状の皿が置かれている。

 牛肉と玉ねぎを炒めてから味付けした汁でひと煮立ちさせて、それをまとめて白米に載せた料理だ。


「これは何という料理なのだろう」


「私の故国ニホの郷土料理、ギュウドンです。お口に合いますか?」


「本当に美味しい」


「それは何よりです」


 私は笑顔でフェリクスが食べるのを見守った。


「その笑顔を見て、私はエマ殿を愛してしまった」


 ギュウドンを食べ終えると、フェリクスが呟いた。


「笑顔で私に言い寄って来る女性は決して少なくない。そして軽々と愛していると口にする。だが大国の王子である私の妻になりたいという打算が見え隠れしていた。メアリーはどこか違うと思っていたが、やはり他の女性と同じだと気付いたので婚約を破棄した」


 フェリクスが私を見つめてきた。


「しかし昼食を頼むときにエマ殿が私に向けてくれる笑顔には、本物の愛が満ちていた。だから私は────」


 そこまで言ってフェリクスが視線を逸らした。


「いや。エマ殿がすべての生徒を平等に愛しているのは分かっていた。それでも王子の私が告白すれば受け入れてくれるはずだというおごりがどこかにあった。それは恥ずべきことなのだろうな。私は愚か者だ」


「愚か者だと分かっていれば愚か者ではありませんよ」


 私は首を横に振った。


「ですが先程の三人はおそらく分かっていないでしょう。フェリクス王子が道を示してあげてください。自分より立場が上だと思っている者の言うことしか聞くことのできない子たちでしょうから」


「承知した。それにしてもエマ殿は一体何者なのだ?」


 私は何も言わずにフェリクスが食べ終えた食器を取って流しに向かった。


「ひと睨みで相手を竦ませる威厳といい、牛肉を一瞬で切り刻む剣技にも似た包丁さばきといい……。先程ニホの出身だと言っていたが――――」


 フェリクスがはっとした様子を見せた。


「まさか、あなたの正体は」


「ただの学食のおばさんですよ」


 私はそれだけを言うと背を向けて食器を洗い始めた。


「そうか。そうだったのか。ごちそうになった。失礼する」


 裏口の方からドアの開閉音が聞えた。

 フェリクスは出て行ったようだ。


 それを目視で確認すると流しに視線を戻した。

 水の張ったタライには自分の顔が映っている。


 すっと三角巾を外すと、額に刻まれた五芒星の聖痕も水面に映し出された。

 15歳でニホの王位を継承したときに急に現れたものだ。


 それからの3年間は戦争に戦争を重ねた。

 大陸の多くの国と戦って数えきれないほどの人をあやめた。

 乱世を終わらせるためではあったが、犠牲になった者は決して帰ってはこない。

 だから私は誰からも愛される資格は無い。


 このイングリット帝国学園を設立したのはせめてもの罪滅ぼしのためだ。

 各国の次世代の担い手たちを育み、さらには彼ら彼女らに青春の時間を共有する場を設ける。

 その思い出を持った者たちがそれぞれの国を左右するようになったときに手を取り合ってくれるなら、私がいなくなったときに戦乱の世に舞い戻ってしまうことをきっと回避できる。


 切にそう願っている。

 正体を隠してエマとしてここで働き続けているのも次世代の担い手たちを見守るためだ。


 フェリクスは今日のことで一皮むけたようにも見える。

 メアリーも共に歩んでゆける伴侶をきっと手に入れるだろうという気がする。


 そう思うことができるのもエマとして二人に接したからだ。

 私のやっていることは決して無駄ではないはずだと自分に言い聞かせながら、再び三角巾を付けた。


 それから食堂の戸締りを終えたとき、学園長がやってきた。

 学園内で私の正体を知る唯一の人間だ。


「イングリット女帝陛下。事務総長が政治の最終判断を下して欲しいとのことです」


「分かった。帝国政治本部に行く」


◇◇◇


 あの日から三ヶ月が経った。


 私は変わることなく女帝イングリットと学食のおばさんエマの二重生活を続けている。


 今はエマ。

 イングリット帝国学園の食堂は、いつも通り生徒たちで混雑している。

 私や同僚たちも、いつものように一生懸命作った料理を提供している。


「Aランチですね。はい。どうぞ」


 カウンターからランチを乗せたプレートを笑顔で渡した。

 余裕が出てきたところでメアリーがいるテーブル席を見た。


「ルーカス様、はい。あーん」


「うん。美味しいよ。メアリー」


 メアリーの向かいの相手はゼルガ国の王子ルーカス。

 ゼルガ国はフェリクスのアルベール以上の大国だ。

 もう少しで婚約できるかもしれないところまで持ち込んだと聞いている。

 メアリーが目配せしてきた。


「ふふ。たくましいこと」


 そう呟きながら小さく手を振った。


 フェリクスを探した。

 見つからないと思っていると食堂に入ってきた。


 あの三人の男子生徒と一緒だ。

 三人はしばらく私を怖がって食堂に寄り付かなかったが、少し経ってからフェリクスが連れてきた。


 貴族の立場を笠に着て人を見下すような真似をするな。

 身分など関係なく料理を作ってもらっていることに対して感謝の心を忘れるな。

 食事をしながらそういったことを言い聞かせているのを何度か見た。

 三人の性根が本当に変わったのかは分からないが、私以外の受付口でも礼を言うようにはなったようだ。


「エマ殿。ご苦労」


 フェリクスが私の受付口にやってきた。


「痛み入ります。今日は何になさいますか?」


 私はいつもと同じように笑顔でお辞儀をした。


「Cランチを。それから――――」


 フェリクスが声を潜めた。


「私はイングリット女帝陛下のことを愛している」


 フェリクスが私を見つめる眼差まなざしは真剣そのものだ。


「ですが女帝陛下は、アルベール国の将兵を大勢殺あやめた方ですよ?」


 私は平静を装って他人事のように言った。

 胸の痛みに耐えながら――――。


「それでも愛していると?」


「それでも愛している」


 胸の奥でトクンと鼓動が聞えた。

 

「陛下に相応しい男になれたと思えるようになったら、必ずや婿に名乗りを上げる。陛下は待っていてくれるだろうか?」


 私は慌ててフェリクスに背を向けた。


「学食のおばさんの私に聞かれましても。注文はCランチでしたね」


 プレートを取りに行きながらそっと涙を拭いた。

 フェリクスは私の全てを知ったうえで愛していると言ってくれている。

 誰にも愛されることはないと思っていたけれど、違っていた。


「どうぞ。Cランチです」


 カウンターに戻るとCランチのプレートフェリクスに手渡した。

 それから笑顔でお辞儀をした。

 他の生徒に接するときと同じように。

 でも――――。


「ありがとう」


「どういたしまして」


 フェリクスがプレートを手に遠ざかって行く。

 その背中に向かって心の中で呟いた。


 他の生徒と違って、あなただけに特別で一品サービスで追加してあるから、と。



最後まで読んで下さってありがとうございました。

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