京洛の花
幕末の公家社会を舞台にしたBL。フィクションであり、実在の人物や事件には関わりがありません。
京の空は、春の柔らかな陽を帯びながらも、どこか張り詰めた冷たさを孕んでいた。
北野の梅がほころび始めた頃、香散見丸は白泉雅仁に拾われた。路傍に転がる小さな命を見過ごさなかったのは、ただの慈悲か、それとも退屈しのぎだったのか。どちらにせよ、その日から香散見丸の運命は大きく変わった。
二条別邸。
白泉家の本邸からやや離れたこの屋敷は、雅仁の住まいでありながら、彼の立場を象徴する場でもあった。
関白の子でありながら正室の子ではない。けれども今上天皇の寵愛を受け、十六にして従三位・権中納言。公家たちの間では比類なき才子として知られる人物。その才は、和歌や蹴鞠にとどまらず、蘭学や兵学にまで及ぶと噂されている。
香散見丸は、そんな雅仁のもとで小姓として働くこととなった。
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「香散見丸、そこに水を持ってまいれ。」
襖越しに聞こえるのは、赤松健丞の声だ。雅仁の乳兄弟にして、彼の側近たる存在。元は但馬の小大名の子で、幼い頃から雅仁と共に育ち、今では剣をとれば腕利き、書をとれば達筆の才人として知られている。
香散見丸は素早く立ち上がり、奥の水瓶から漆の杯に水を汲んだ。そして静かに襖を開け、二人のいる書院へと足を踏み入れる。
雅仁は几帳越しに日差しを受け、その長い指で書を繰っていた。衣の袖から覗く手は、まるで女のように白い。その顔を横からちらりと見ると、ふと目が合い、香散見丸は思わず緊張する。
「ありがとう。お前もそこに座れ。」
雅仁は杯を受け取りながら言った。香散見丸は一瞬迷ったが、そろりと畳に正座する。
「先ほど、蘭学の書を見ていたのだが、健丞、お前はオランダ語の発音がどうにも不格好だな。」
「公家言葉に馴染んだ身には、あれは難しゅうございます。」
健丞が苦笑するのを、雅仁は愉しげに眺めた。
「舌を少し巻いて、唇の端で発するのだ。こう、ラングエージュと……」
雅仁の声は、品良く響く。香散見丸は、じっと二人のやりとりを聞いていた。
「そも、なぜそのような書をお読みになるのです?」
つい口を挟んでしまった。雅仁は、少し目を細め、微笑を浮かべる。
「この国は、大きく変わる。外国の知識は、ただの異国趣味ではなく、これからの世を知るために要るものだ。」
「それは……幕府のために、ですか?」
思わず言った瞬間、健丞が眉を上げた。しかし、雅仁は静かに杯を傾け、涼やかに言った。
「幕府のため……それもあろう。しかし、何よりもこれは、この国のためだ。」
その言葉に、香散見丸は何も返せなかった。ただ、この場にいることが、これまでの路上の生活とはあまりにも異なり、まるで別の世界に来たように思えた。
春の日差しが襖の隙間から差し込み、静かに床に影を落とす。雅仁はまた書を開き、健丞が口元に笑みを浮かべる。香散見丸は、これが日常なのだと気づいた。
自ら望んで得たものではないが、ここには知の輝きがあった。
彼は、小姓として、その世界をただ見つめていた。
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雅仁の住まう二条別邸は、広さこそ本邸には及ばないものの、気品と静謐に満ちた佇まいを持つ屋敷であった。
しかし、この屋敷には、一つ特異な点があった。
それは、女性の姿が一人もないということだ。
主人の身の回りを世話するのは、赤松健丞をはじめとする少数の側仕えの男たちのみ。炊事、掃除、衣服の準備――すべてを男たちで賄っていた。これは、雅仁自身の意向ではなく、兄である白泉政宏の差し金によるものだった。
白泉政宏――関白・白泉政行の嫡男にして、従三位内大臣。
公家社会において、五摂家の嫡子であることは何よりも重い。政宏は父・政行の嫡男として将来の関白の座を約束されており、それゆえに、側室の子である雅仁の存在を快く思っていなかった。
特に癪に障ったのは、雅仁が11歳で元服し、「政仁」の名を賜ったことだった。
「まるで嫡男のようではないか」
そう怒りを露わにした政宏は、父である政行を説得し、雅仁の名を「雅仁」へと変えさせた。「政」の字を奪うことで、嫡出の資格がないことを示したのだ。
そして、本邸屋敷からも追い出した。
本来、五摂家の子息ともなれば、嫡男でなくとも本邸の一角で育つのが慣例だ。しかし、政宏は雅仁を「邪魔者」とみなし、父・政行に圧力をかけた。政行も、正室が前将軍の妹という出自の強さゆえに強く反論することができず、結局、雅仁を二条別邸へ移すことに決めた。
あの時、雅仁はわずか11歳だった。
そして、それから5年。
今や16歳の雅仁は、すでに従三位の官位を得て権中納言を拝命していた。父・政行も驚くほどの才覚を持ち、何より今上天皇の寵愛を受けている。政宏の思惑とは裏腹に、雅仁は「白泉家の次世代を担う公家」としての名声を高めていった。
しかし、政宏はそれを許せなかった。
「このままでは、あの者の存在が余計に大きくなる……」
その焦りが、雅仁の屋敷から女性を排除するという策に繋がったのだ。
雅仁には、母がいなかった。
彼が3歳の時に、母は世を去った。
元は大きな神社の巫女だったというが、雅仁は母の顔を知らない。残されているのは、父・政行が密かに手に入れたという一枚の錦絵だけ。
「……母上……」
夜の静寂の中、雅仁は時折その絵を眺めることがあった。しかし、それは幼い日の記憶と結びつくことはない。
母の姿は遠く、兄との確執は近く。
それでも、二条別邸の主として、雅仁は公家社会の中で己の道を歩んでいた。
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京の冬は、凛とした冷たさが肌を刺す。
それでも、北野のあたりはどこか柔らかな空気を孕んでいた。茶屋や置屋が並ぶ花街には紅殻格子が連なり、そこに生きる人々の笑い声が遠く聞こえる。その一方で、北野天満宮の境内には、喧騒とは別の静寂があった。
香散見丸が、捨てられていたのは、その境内のお堂だった。
「芸妓の子だとも言われているが、真偽はわからない。」
誰ともなく、そう噂されていた。しかし、香散見丸自身に、母の記憶はなかった。ただ、お堂の天井に描かれた龍の絵を眺めながら、凍える夜を過ごしていたことだけが、ぼんやりとした記憶の中にあった。
あの日、梅の花が初めて開いた日。
北野天満宮を訪れたのは、白泉雅仁だった。
赤松健丞をはじめとする数人を伴い、宮司に何かの話をしていた。香散見丸は、いつものようにお堂の柱の影に潜んでいたが、雪混じりの風に耐えかねて、そっと走り出した。その姿を、雅仁は見逃さなかった。
「……あの子を、引き取る。」
その決断は、雅仁の中では自然なものだった。
彼は、母を亡くしたときと同じくらいの年頃の子が、一人で凍える姿を放っておくことができなかった。それに――
この世には、理不尽な運命を背負わされる者がいる。
それをよく知っていたからこそ、せめて一人でも救おうとしたのかもしれない。
そうして、香散見丸は二条別邸に迎えられた。
それから、5年。
香散見丸は今や、雅仁の身の回りの世話をしつつ、稚児として彼の牛車の付き添いを務めるほどになっていた。まだ幼いながらも、貴族の作法を学び、御所の女房たちの間で文の取次をすることも増えていた。
そこで、彼は改めて知ることになった。
――自らの主人が、いかに好かれているかを。
「白泉の権中納言様が、今日もいらしていたわね。」
「まあ、あのお姿……まるで光る君のよう。」
御所の廊下を行き交う女房たちの囁きが、香散見丸の耳にも届く。彼女たちの目は、遠巻きに雅仁を追っている。
そして、それは女性だけではない。
若い公家たちも、彼の容姿や知性に惹かれ、ひそかに秋波を送っていた。
「白泉の権中納言殿とは、一度碁でも打ってみたいものだ……いや、せめて文を交わす機会があれば。」
「いやいや、それが叶うならば、私もぜひ。」
まるで戯れのように交わされる言葉の中に、羨望が混じっているのを香散見丸は感じ取っていた。
だが、本人は、それをどこまで気にしているのか。
「香散見丸、そろそろ行くぞ。」
御所での用件を終え、雅仁が静かに牛車へと乗り込む。香散見丸は、手早く彼の外套を整えながら、ふと思った。
(こんなにも多くの人が、私の主人に心を寄せている……けれど)
彼が心を許せる相手は、どれほどいるのだろうか。
そんなことを考えながら、香散見丸は牛車の傍で、主人を守るように歩き始めた。
梅の香りが、ほのかに風に混じる、春の気配の中で――
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二条別邸に帰ると、香散見丸はすぐに異変に気づいた。
ふだんは静かな屋敷に、数名の随臣が控えている。白泉の家紋をあしらった衣をまとっているのを見て、彼はすぐに察した。
(関白様がいらしている……)
雅仁の父、白泉政行が本邸を離れ、二条別邸を訪れることはそう頻繁にあることではなかった。いや、それは世間の目にはそう映るかもしれないが、実際には、政行はしばしばこの屋敷に足を運んでいた。
そして、政行がこの屋敷を訪れるときは決まって――
「今夜は、酒席を設けよう。」
雅仁の声が響いた。
数寄屋書院に、夜の帳が静かに落ちていく。
雅仁は、父・政行と向き合って座っていた。そこには、日頃の関白の厳粛な姿はなかった。むしろ、本邸では見せることのない、くつろいだ表情がそこにあった。
「……今上は、かつての童殿上を惜しんでおられるそうだな。」
杯を傾けながら、政行がぽつりと言った。
「はい。」
雅仁は静かにうなずいた。
「私も、幼き日に殿上へ参ることを許されました。御所における式次第の復興、それ自体が、上のご意向でありましょう。」
「帝は、今も朝儀復興に心を尽くしておられる。だが……幕府がそれを快く思ってはおらぬ。」
政行は、少し声を潜めた。
「帝が志されるのは、皇族や公家の子弟のための教育機関の設立。しかし、これは幕府にとって、政治の影響力が朝廷側に偏ることを意味する。」
「幕府は、京に学問の府が生まれることを警戒しているのですね。」
雅仁の指が、盃の縁をなぞる。
「京都に知の拠点ができるということは、公家や皇族の間に、自ら政治を行う機運が芽生えることを意味する。」
「そうだ。」
政行はため息をついた。
「私は前将軍の妹を正室に迎えたゆえ、幕府とも縁は深い……だが、今の将軍は、もはや公家の動きを静観するつもりはないらしい。」
「では、帝のご意向は、幕府の強い反発を招くと。」
雅仁は杯を置いた。
「どうすればよろしいでしょう。」
「……幕府は、帝に直接異を唱えるのではなく、あくまで関白である私を通じて牽制してくるだろう。私は、その仲立ちをしなければならん。」
政行の言葉は、まるで独り言のようだった。
だが、それを静かに聞く雅仁の眼差しには、確かな知性の光が宿っていた。
「今上帝の学問所構想を進めるならば、それが幕府の利益ともなるような道を考えるしかない。」
「雅仁、お前はどう考える。」
政行が、改めて息子を見た。
雅仁は、盃を手に取りながら、しばし思案する。
「学問とは、武士にとっても必要なもの。幕府の役人や旗本の子弟にも学びの機会があるとすれば、幕府としても無下にはできないのでは。」
「武士にも……」
政行は、一瞬考え込むように目を伏せた。
「公家・皇族のみならず、幕府の役人も学べる場とする。そうなれば、幕府も表立って反対はできなくなるかもしれん……」
「しかし、これが単なる朝廷側の学問所であるなら、幕府は決して許さない。幕府の意向を巧みに取り入れ、例えば、幕府側の人間を教育機関の運営に一部組み込むのも、一つの手でしょう。」
「ふむ……」
政行の顔に、ふと微かな笑みが浮かぶ。
「雅仁、お前がこの二条別邸に移されたとき、私は内心、複雑な気持ちでおった。しかし……こうしてお前と話していると、この決断も悪くはなかったと思うな。」
雅仁は、少し驚いたように父を見た。
「関白の座に、これほど長く就き続けられたのは、私が父の嫡子であるからだけではない。」
「お前がいたからだ。」
夜の灯りが揺れ、二人の影が淡く畳に落ちる。
それは、普段の公家の席では決して語られない、親子の間だけで交わされる言葉だった。
やがて、酒が尽きる頃――
「雅仁。」
政行は最後に、静かに言った。
「お前は、関白の子でありながら、関白にはなれぬ身だ。」
雅仁は、目を伏せた。
「それでも、誰よりも政を知る男になれ。」
その言葉に、雅仁はふっと微笑んだ。
「父上が、それを望まれるのならば。」
二人は、互いの盃を見つめながら、静かに酌み交わした。
夜は更け、春の気配が、ゆっくりと風に混じり始めていた。
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燭の火が静かに揺れ、酒の匂いが書院の空気に染み込んでいた。
盃のやり取りが続くうちに、政行の目は次第に濁りを帯び、やがてじっと雅仁の顔を見つめるようになった。
「……お前は本当に、珠御前によく似ている。」
低く、掠れた声が夜の静寂に溶けた。
珠御前――それは、雅仁の母の名。
雅仁はその名を知っているが、実際の母の姿は知らない。彼が母の面影を知るのは、ただ一枚の錦絵のみ。その錦絵に描かれた女は、繊細な筆致で美しく、しかしどこか儚げだった。
「それはそれは美しい人だった……」
父の声は、遠い夢を懐かしむようだった。
珠御前は、大きな神社の巫女だった。神へ舞を奉納するたび、公家たちがこぞって牛車を並べたという。それほどの美しさと、神秘的な気配を持った女だった。
政行は、杯を片手にしながら、ぼんやりと雅仁の頬を見つめた。
そのまなざしは、まるで幻を見るようだった。
分厚い手が、静かに雅仁の頬に伸びる。
雅仁は、それを拒まなかった。
ここは、酒席だ。
今、この空間を支配するのは、酒の酔いと、遠い日の夢の残響だけ。
指がそっと触れた瞬間、政行の手は一瞬、かすかに震えた。
「……お前を、もっと早く本邸に戻してやれればよかったのかもしれぬな……」
ぽつりとこぼされたその言葉に、雅仁は何も返さなかった。
もはや、問うても意味はない。
彼は11の歳で二条別邸に移された。嫡男である政宏の思惑により、家の中心から遠ざけられた。
しかし、それがあったからこそ、彼は今こうしている。
白泉家の内政を知り、朝廷の動きを読み、政行の相談相手としてここにいる。
それが、二条別邸の若き主の宿命だった。
「……父上、お疲れでしょう。」
雅仁は、静かに盃を取ると、残った酒をゆっくりと飲み干した。
酒が喉を滑り、熱が腹の奥へと沈んでいく。
政行は、もう何も言わなかった。ただ、遠くを見つめるようなまなざしで、ふっと息を吐く。
酒の夢。
それは、醒めれば何も残らぬ幻。
そして、雅仁はそれを知っていた。
父の手が、そっと離れる。
雅仁は盃を置き、ほんのわずか、微笑んだ。
「今夜は、よくお休みください。」
政行は答えず、ただ静かに目を閉じた。
燭の火が、かすかに揺れる。
夜の静寂は、まだ続いていた。
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雅仁は、机に突っ伏して眠る父の肩に、自らの上着を静かにかけた。
ふだんは関白として、御所と幕府の狭間で誰にも弱みを見せぬ父が、ここではただの人間として眠っている。
その寝顔を、雅仁は少しの間だけ見つめていた。
「……父様を、お願いします。」
そう声をかけたのは、父の側仕えであり、長年にわたって白泉家の家政を取り仕切ってきた赤松健平だった。
彼は、雅仁の側近である 赤松健丞の父でもある。
雅仁は、本来ならば自分よりも目下であるはずの男に、そう言った。だが健平は、何も咎めず、ただ静かにうなずいた。
「お任せください。」
その言葉を背に、雅仁は書院を後にした。
健丞と共に私室へ戻る途中、ふと振り返ると、数寄屋書院では香散見丸が片付けをしていた。
小さな体で、散らかった杯を丁寧に拭い、布を手に畳を磨いている。その仕草は、まるで自分の居場所を一つひとつ確かめるかのようだった。
そのとき――
「……あれに、救われた者か。」
不意に、眠っていたはずの政行の声が、静かに響いた。
香散見丸は、驚いて顔を上げる。
「……はい。」
少し緊張しながらも、香散見丸は答えた。
すると、政行は微かに笑い、もう一度目を閉じる。
「……私も、そうだ。」
その言葉に、香散見丸は戸惑った。
関白が、雅仁に救われた?
「母によく似て……弱きもの、弱き心を救う術を持つのだ。」
政行は、机の上に置かれた盃を軽く指で叩くようにして言った。
その視線が示しているのは、雅仁だった。
「本来、政に立つべきは……ああいう人間だ。」
その呟きに、部屋の空気が一瞬張り詰めた。
そこにいた 赤松健平が、盃を手に取りながら、ゆっくりとした口調で言った。
「……それ以上は、おっしゃいますな。」
政行は、少しだけ目を開けた。
健平の言葉に込められた意味を、当然、理解している。
白泉家の嫡子は、白泉政宏である。
この家の未来を担うべき者は、正室の子であり、幕府と血縁を持つ政宏なのだ。
それが、公家社会の秩序であり、幕府との均衡を保つための道理だった。
――だが、それでも、政行は思わず口にしてしまった。
「……政に立つべきは、ああいう人間だ。」
雅仁の頭脳、雅仁の冷静な判断力、雅仁の人を惹きつける力。
そのすべてが、政の場に立つべき資質を備えていることを、誰よりも知っているのは父である自分だった。
「お休みくださいませ。」
健平の言葉に、政行は再び目を閉じる。
すでに深酒の酔いが回り、まぶたは重くなっていた。
「……すまぬな。」
かすかに聞こえたその声は、誰に向けたものだったのか。
香散見丸は、静かに頭を下げる。
そのまま政行は、再び深い眠りについた。
書院の中は、夜の静けさに包まれた。
香散見丸は、手の中の布を強く握りしめながら、ひとつ息を吐いた。
政に立つべき人間――
その言葉が、静かに胸の奥に刻まれるようだった。
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朝の光が、二条別邸の庭に淡く降り注いでいた。
昨夜の酒席の名残がまだ静寂の中に滲んでいる。
雅仁は、すでに着替えを終え、父・政行と共に朝食をとっていた。関白が息子と二人きりで食事をすることは本邸ではあり得ない。だが、ここ二条別邸では、こうした光景が時折見られた。
「今朝は冷えるな。」
食事の合間に、政行がぽつりと漏らす。
「春の気配も近いですが、まだ冬の名残が強いようです。」
雅仁が静かに答えると、政行は「そうか」と短く応じ、食を進めた。
こうして過ごす時間が、政行にとってどれほど安らぎとなっているのかを、雅仁は知っていた。
しかし、この穏やかな朝も、父が御所へ向かえば終わる。
食後、政行は赤松健平を伴い、御所の朝奏へ向かった。
「健丞。」
父の後を追おうとする赤松健平が、不意に立ち止まり、息子の赤松健丞に声をかけた。
「……その後、政宏様からの接触はあったか。」
健丞は、一瞬だけ目を伏せ、すぐに答える。
「特にございません。」
「なら良いのだが。」
健平はそう言うと、少しだけ表情を曇らせ、何か言いかけたが、それを飲み込み、そのまま父の務めとして政行に従い、御所へと向かった。
そのやりとりを 雅仁は見ていた。
父の姿が見えなくなると、雅仁は傍に立つ健丞へと静かに声をかける。
「兄上は、まだお前を諦めないか。」
健丞は、眉をわずかにひそめたが、すぐに薄く笑った。
「諦めることはないでしょう。」
雅仁は、杯を手に取るような仕草をしながら、ふっと微笑んだ。
「赤松家の者を側近にすることそれ自体に、兄上はこだわっている」
それは、ただの人事ではない。
白泉家は公家の家柄でありながら、政行が関白となって以降、幕府と親密な関係を保っていた。赤松家は、その中で重要な役割を担う家系だった。
つまり、赤松家が誰につくかは、白泉家の勢力図にも大きく関わる。
しかし――
「歳の頃を考えても、32の兄上が20になったばかりのお前を側近とするのは妙な話だ。むしろ、16の私につける方が自然だろう。」
「ええ、ですが……それは表向きの話。」
健丞の声が、わずかに沈んだ。
「兄上が本当に私を付けたいのは、18になられた景正様です。」
白泉景正。
その名は、御所でもささやかれるものだった。
彼は、白泉政宏の公然の密子だった。
密子でありながら、祖父子として、政行の二男として本邸で育てられた存在。
雅仁の2歳年上でありながら、未だに従四位。
それは、彼が決して嫡男にはなれぬ運命を背負っていることを示していた。
しかし――景正が雅仁と違うのは、彼が本邸にいるということだった。
側室の子として本邸を追われた雅仁とは対照的に、景正は政宏と共に本邸に留まり、表立ってではないが、兄・政宏の補佐のような立場を担っていた。
そして、景正の存在があるがゆえに、政宏は赤松健丞をどうにかして手元に置こうとしていた。
「兄上は、赤松であるお前がどうしても欲しいのだろう。」
雅仁が言うと、健丞は無言でうなずいた。
「ですが、景正様は……」
健丞は、言葉を濁した。
それを聞き、雅仁は小さく笑った。
「兄上の代わりに、しばしば私に嫌がらせをしてきたな。」
「……しかし、器の違いは歴然。」
健丞が、淡々と続けた。
「宮中では、もはや景正様があなた様に敵わぬことは、誰もが知っている。だからこそ、政宏様は焦っているのでしょう。」
「赤松が、私につくか、景正につくか。それが、兄上にとっての問題か。」
雅仁は、杯の縁を指でなぞる。
「お前は、どうする?」
健丞は、静かに息をついた。
「……私は、すでにここにおります。」
その言葉に、雅仁はふっと笑った。
「ならば、それでいい。」
雅仁が立ち上がると、健丞も黙ってそれに従った。
二人の間には、それ以上の言葉はなかったが、互いにその意味を理解していた。
景正が、どれほど雅仁を疎ましく思おうとも、健丞は、すでに雅仁の側にいる。
この先の政争がどう転ぼうとも、それは変わらない。
しかし、政宏の思惑がこれで終わるとは思えなかった。
――静かに、政争の火種が、動き始めようとしていた。
---
春めいた風が京の空に吹き、雅仁の袖を軽く揺らした。
「飛香舎へ。」
内裏に足を踏み入れた雅仁は、紫宸殿ではなく、今上帝の后・藤壺女御の住まう飛香舎へと案内された。
紫宸殿ではなく、藤壺へ。
その意味を、雅仁は即座に理解した。
表立っては呼べぬ話がある。
そして、それを聞くべきは、関白の嫡子たる兄・政宏ではなく、二条別邸の主たる自分なのだと。
***
飛香舎は、藤壺女御の住まいとして知られる一方、今上帝がしばしば足を運ぶ場でもあった。
今日も、その例に漏れず、帝の御座が用意されており、統仁親王までもが同席していた。
内裏の格式ばった空気とは異なり、藤壺のもとでは、どこか気楽な雰囲気が漂っている。
「おお、雅仁。よく参ったな。」
今上帝の声が響くと、藤壺女御が笑みを浮かべた。
「上様がお前をお呼びになったのよ。」
藤壺は、雅仁を幼い頃から可愛がっていた。
藤壺自身、関白・白泉政行の養女という立場だったが、御所に上がる前からすでに賢く、品のある女性として名高かった。そして、その彼女が最も可愛がっていたのが雅仁だった。
「すっかり大人びたわね。」
藤壺は、優しく微笑みながら雅仁を見つめた。
しかし、今日の雅仁に向けられた視線は、藤壺だけではなかった。
部屋の端に控える女房たちが、ひときわ美しさを放つ雅仁の姿に、うっとりと見惚れていたのだ。
細やかに整えられた衣、涼やかでありながら、どこか妖艶さを感じさせる顔立ち。
男でありながら、そこに立つだけで場を華やかにする雅仁に、誰もが目を奪われていた。
「これほどの美しさでは、誰が女御か分からぬな。」
今上帝が冗談めかして言うと、藤壺女御がくすりと笑った。
「もしも雅仁が姫君であったならば、さぞかし帝もお困りだったでしょうに。」
***
やがて、話は本題へと移った。
「雅仁よ。」
帝が、ゆっくりと口を開く。
「そなたは、有職故実のみならず、国学、儒学、さらには蘭学にも通じていると聞く。」
その言葉に、雅仁は静かに膝を正し、頭を垂れた。
「もったいなきお言葉にございます。」
「なに、隠すことはあるまい。」
帝は、雅仁を見つめたまま続けた。
「今、朕は学問所の設立を考えておる。」
それは、すでに雅仁も知っていたことだった。
「しかし……」
帝は、少し目を伏せる。
「幕府との折衝が難しい。」
その一言で、この場にいる誰もが事情を察した。
幕府は、朝廷側に新たな学問の府が設立されることを快く思っていない。
それゆえに、帝はこの話を関白の嫡子である政宏には持ちかけず、藤壺のもとで、雅仁に問うているのだ。
「そなたならば、この学問所で何を教えるべきか、分かっているのではないか。」
帝の言葉に、雅仁はしばし黙した。
これは、ただの学問の話ではない。
学問を広めるということは、誰に知を与えるのかという政治の問題と直結する。
「……帝。」
雅仁は、静かに口を開いた。
「もしもこの学問所が、公家や皇族のみに留まるものであるならば、幕府は必ずこれを警戒し、妨げましょう。」
帝は、雅仁の言葉を黙って聞いていた。
「ですが、学問は……武士にとっても、必要なものでございます。」
その言葉に、統仁親王が少し眉を上げる。
「武士にとっても?」
「はい。」
雅仁は、続けた。
「もし、この学問所が公家のためのものではなく、幕府の役人や旗本の子弟にも門戸を開くものであれば、幕府はむしろ、これを利用しようとするのではありませんか。」
「幕府の者を受け入れる、か。」
帝は、深く考え込むように目を閉じた。
「しかし、それでは公家たちが反発しよう。」
「確かに、一筋縄ではいきませぬ。」
雅仁は、杯の縁をなぞるようにしながら、静かに言った。
「しかし、学問を独占するのではなく、共有する形を取れば、幕府も朝廷を排除しにくくなります。少なくとも、表立って反対する理由を奪うことができるでしょう。」
「……なるほどな。」
帝は、ふと微笑んだ。
「そなたの考えは、実に面白い。」
そう言いながら、帝は藤壺を見やった。
「さすがは、そなたが可愛がる子よ。」
藤壺女御も、誇らしげに微笑んだ。
「でしょう?」
「だが、政宏はこの話をどう思うだろうな。」
帝の言葉に、部屋の空気がわずかに張り詰める。
藤壺は、ふっと目を細めた。
「……それこそ、雅仁がうまくやってくださるでしょう。」
「ふむ。」
帝はもう一度、雅仁を見つめた。
「雅仁よ、そなたの助力を期待しておる。」
「……もったいなきお言葉。」
雅仁は、静かに頭を下げた。
---
飛香舎の空気が、ふと軽くなった。
今上帝が、杯を持ちながら、雅仁を見やる。
「……そなたには、浮いた話の一つもないのか。」
不意の問いに、統仁親王が面白がるように笑い、藤壺女御も微かに唇を綻ばせた。
「元服して五年。そなたほどの器量ならば、関白たる父君が相手の一人や二人、用意していてもおかしくあるまい。」
雅仁は、微かに目を伏せ、苦笑した。
「……兄上が、それを許しますまい。」
その言葉に、今上帝の目が細くなる。
「政宏が、か。」
「はい。」
雅仁は静かに頷く。
二条別邸に、女の影がない理由。
それは、単に雅仁が関心を持たぬからではない。
兄・政宏が、それを許さぬからだった。
藤壺女御は、静かに扇を閉じる。
「――政宏の兄上は、珠御前の面影をこれ以上増やしたくないのでしょう。」
その言葉に、雅仁は微かに笑った。
「……ええ。」
今上帝が、手元の盃を揺らす。
「なるほどな。そなたが父君の愛した珠御前によく似ているのは、宮中でも有名な話。政宏にとって、それはおもしろくなかろう。」
「もし、私に子ができれば。」
雅仁は、穏やかに続けた。
「それが男子であれば、兄上の血筋を脅かしかねません。女子であれば――間違いなく、統仁様に入内するでしょう。」
その言葉に、一瞬、室内が静まる。
誰もが、その意味を理解した。
雅仁の血を引く女子が入内するということは、次代の天皇となる可能性が生まれるということだ。
政宏は、それを恐れている。
「兄上にとって、私は今のままでよいのです。」
「今のまま?」
統仁親王が、興味深そうに聞く。
「女の影もなく、跡継ぎも持たず、ただの美しき公達として宮中を飾る存在。」
「確かに、それならば害はない。」
今上帝が、盃を置きながら言った。
「しかし……そなたは、それでよいのか。」
雅仁は、ふっと目を伏せる。
「……それが、私の定めでございます。」
その声音には、どこか静かな諦観が滲んでいた。
藤壺女御が、微かにため息をつく。
「……もったいないこと。」
「いえ。」
雅仁は、静かに微笑んだ。
「今のままで、十分でございます。」
それが、偽らざる本心だった。
彼に許されたのは、己の才を振るうことだけ。
未来を持たぬ者として生きることを、彼はすでに受け入れていた。
今上帝は、しばし雅仁を見つめていたが、やがて微かに笑った。
「……ならば、そなたがどこまで行けるか、朕は見てみたくなった。」
それが、褒め言葉なのか、警戒の表れなのか――
雅仁は、ただ黙って頭を下げた。
---
牛車が、夜の静かな京の街を進む。
飛香舎でのやりとりを終えた雅仁は、赤松健丞と共に牛車に揺られながら、穏やかに口を開いた。
「……ありがたいことだな。」
「何がです?」
雅仁は、遠くを見ながら淡く微笑む。
「今上帝にも、統仁親王にも、覚えがめでたいということだ。」
健丞は、その言葉の裏にあるものを察した。
「ですが、殿……」
彼は、慎重に言葉を選ぶ。
「それは決して、良いことばかりではありません。」
「ええ。」
雅仁は、静かに頷いた。
「私がただの公達として、宮中を彩るだけならばよかったのだが……政に興味を持ちすぎていると知られれば、身を滅ぼしかねない。」
その言葉に、健丞は目を伏せた。
幼い頃から、雅仁の利発さを知る彼にとって、この現状はあまりにも惜しいものだった。
「……もったいないことです。」
健丞の言葉には、悔しさが滲んでいた。
雅仁ほどの才がありながら、それを公に示すことすら許されない。
公家の身でありながら、公家として生きる道を制限されている。
そのことが、健丞にはどうしても納得できなかった。
しかし、そんな健丞を見て、雅仁はふっと微笑む。
「では、傾奇者を演じてみるか。」
「……どういうことです?」
健丞が眉をひそめると、雅仁は楽しげに続けた。
「昨年、大阪に適々斎塾という蘭学塾が開かれたことは知っているだろう?」
「適々斎塾……」
健丞は、すぐに思い当たる。
大阪船場の医者であり、蘭方医学を修めた緒方洪庵が開いた塾。幕府の厳しい統制がある中でも、蘭学を学びたい者たちが集まる場となっている。
「なぜ、それを?」
「勉学熱心な書生が集まっていると聞く。医者の卵も多いだろう。」
雅仁は、しなやかな指先で扇を軽く動かしながら続けた。
「彼らを一度、二条別邸に呼んでみたい。」
「……殿下、それは――」
健丞が息を飲んだ。
「男ならば問題あるまい?」
雅仁は、いたずらっぽく笑った。
二条別邸には、女性の影がない。
それは、兄・政宏の圧力によるものだったが、裏を返せば男ならば、自由に出入りできるということでもある。
「兄上は、学問には興味がない。」
「つまり、目を向けることはない、と。」
「その通り。」
雅仁の目が、冷静に光った。
「宮中で燻っているよりも、大阪船場の塾を訪ねるのも悪くないだろう。」
「……本気ですか?」
健丞は、少しだけ雅仁を見つめた。
「もちろん。」
雅仁は、何でもないことのように答える。
「宮中では見えないものが、大阪では見えるかもしれない。」
「しかし、殿は京の人……それほど簡単に外へ出ることは。」
「だから、お前が行くのだ。」
「……!」
健丞は、目を見開いた。
「私が、適々斎塾を?」
「そうだ。」
雅仁は、牛車の窓から夜の京を見つめる。
「彼らの学ぶものを知り、彼らの考えを聞いてこい。」
「それは……」
健丞は、少し戸惑った。
雅仁は、あくまで公家であり、幕末という激動の時代にあっても蘭学に手を伸ばそうとする存在だった。
それを表立ってはできぬゆえに、傾奇者を演じるという策を取る。
しかし、それが京の秩序にどれほどの影響を及ぼすかを考えると、軽々しく決断できることではなかった。
「……」
しばらく考えた後、健丞は、深く息を吐いた。
「分かりました。」
その言葉に、雅仁は満足げに笑う。
「さすがだな。」
牛車は、静かに二条別邸へと進む。
京の夜風が、ふたりの間を静かに吹き抜けた。
---
船は、静かに大阪の港へと滑り込んだ。
赤松健丞は、手に雅仁がオランダ語で認めた書状を携え、香散見丸と共に船を降りる。
「ここが……大阪……」
京しか知らぬ香散見丸は、目の前に広がる活気ある町並みに圧倒された。
船場のあたりは、商人たちの活気が満ちている。上方随一の経済の中心だけあって、人の流れも京とはまるで違う。着物の裾をさばくように、活発な商人や行商人が行き交っていた。
「迷うなよ。」
健丞が短く言うと、香散見丸は慌てて彼の後を追った。
***
彼らが向かうのは、適々斎塾。
近所の者たちに尋ねながら、ようやくたどり着いた塾の建物は――
「……こんなに小さなところなのか?」
健丞は、思わず呟いた。
京の寺院や公家屋敷と比べると、何の変哲もない簡素な建物だった。
しかし――
門をくぐると、そこには熱気が満ちていた。
狭い空間の中、書を広げ、論じ合う若者たち。机に向かい、真剣に筆を走らせる書生。
言葉にせずとも、この場にあるものが分かる。
「ここには……知がある。」
香散見丸が、呟くように言った。
***
門下生の案内を受け、健丞は塾長である緒方洪庵に通された。
座敷に通されると、そこには洪庵の妻である八重も控えていた。
「遠路はるばるお疲れさまでございます。」
洪庵は、丁寧に頭を下げた。
「こちらこそ、突然の訪問をお許しください。」
健丞も礼を返し、雅仁がしたためたオランダ語の書状を差し出した。
洪庵が書状を受け取り、じっくりと目を通す。
やがて、顔を上げると、その目には驚きと感嘆が浮かんでいた。
「……これは……」
八重が、興味深そうに洪庵の表情を覗き込む。
「何か?」
健丞が問うと、洪庵はしばし考え込んだ後、静かに言った。
「これは、独学で学ばれたものなのですか?」
「はい。殿は、二条別邸に蘭学書を置き、誰に教わるでもなく、ただ書を通じて学ばれました。」
洪庵は、再び書状を見つめる。
「公家でありながら、その枠に囚われない思考をお持ちとは……」
「殿は、学問を知の道具としてのみ扱われているのではない。」
健丞は、少し誇らしげに言った。
「それを用いて、いかに世を動かすかを考えておられる。」
「……素晴らしい。」
洪庵は、深く息をついた。
「これほどの見識を持たれる御方が、学問に関心を寄せてくださるとは。」
「それを確かめるため、私は大阪に参りました。」
健丞の言葉に、洪庵はふっと微笑んだ。
「何をお知りになりたいのです?」
「……貴塾の学問を、目で確かめたい。」
その言葉に、洪庵は静かにうなずいた。
「では、まずはヅーフ部屋をご覧いただくのがよろしいかと。」
***
そのころ、香散見丸は「ヅーフ部屋」にいた。
ここは、適塾でオランダ語の辞典(ヅーフ辞典)を用いて、門下生たちが蔵書の解読を行う場だった。
香散見丸は、その様子を、興味深く眺めていた。
若者たちが、辞典を片手に、懸命に翻訳作業を行っている。
「これが、蘭和辞典……」
目の前の机には、手書きの辞典が広げられていた。
香散見丸は、それをまじまじと見つめた後、ふと何気なく言った。
「これなら……二条別邸にも、ありますよ。」
その瞬間――
室内が、静まり返った。
塾生たちが、一斉に顔を上げる。
「今……何と?二条別邸……?」
「白泉の権中納言殿の、あの?」
香散見丸は、彼らの反応に戸惑った。
「えっ……はい。でも、殿はもう少し分厚い蘭和辞典もお持ちですけど。」
その言葉に、塾生たちは顔を見合わせた。
「……公家が、蘭和辞典を?」
「そんな話、聞いたことがない……!」
「それも、このヅーフ辞典よりも分厚いものを……?」
彼らの驚きは、それほど大げさなものではなかった。
蘭学は、幕府の統制が厳しい学問であり、主に武士や商人の学者が学ぶものだった。
公家が蘭学を学ぶなど、聞いたことがない。
香散見丸は、そんな彼らを見ながら、ふっと微笑んだ。
「殿は、公家の中の公家というわけじゃないんです。」
「……どういうことだ?」
「殿は、普通のお公家とは違います。」
香散見丸は、胸を張るように言った。
「ただ宮中で詩を詠むだけじゃなくて、世界のことを知ろうとしているんです。」
その言葉に、塾生たちは再び顔を見合わせた。
そして――
「……面白い。」
誰かが、ぽつりと言った。
「本当にそんな御方がいるのなら、ぜひ会ってみたいものだ。」
そうして、興奮する塾生たちをよそに、香散見丸は「あれ、何だか大変なことになってきたな……?」と、少しだけ不安になるのだった。
---
夜の帳が静かに降りる京の街。
赤松健丞と香散見丸は、緒方洪庵からの返書を手に、二条別邸へと戻ってきた。
旅の疲れを感じながらも、健丞の胸中は満たされていた。適塾の熱気、門下生たちの知識への飢え、そして雅仁への予想以上の関心――それらすべてが、健丞の中でひとつの手応えとして残っていた。
「……殿も、きっとお喜びになられる。」
彼は、懐にしまった書状を指先で確かめるように触れながら、二条別邸の門をくぐった。
だが、その瞬間、空気の違いに気がついた。
――妙だ。
屋敷の雰囲気が、普段と違う。
健丞は、瞬時に香散見丸に目配せし、慎重に歩を進めた。
***
座敷の中。
薄明かりの下、静かな息遣いと、衣擦れの音が聞こえる。
そこには――
雅仁が、左大臣・花京信忠に手を握られていた。
「……殿。」
健丞の呼びかけに、雅仁は微かに目を伏せた。
「帰ったか、健丞。」
普段と変わらぬ静かな声。
だが、健丞の目は雅仁の手を離さぬままの信忠を鋭く捉えていた。
「ほう……赤松の若君か。」
信忠は、ゆったりと振り向いた。
左大臣・花京信忠――
表向きは公家社会の重鎮であり、五摂家にも匹敵する権威を持つ大臣。
だが、その実、彼の色癖の悪さは宮中でも知らぬ者がいないほどだった。
男も女も問わず、美しいものを手に入れることに執着する人物。
かねてから雅仁を養子に迎えたいと言っていたが、健丞はその真意を疑っていた。
「……ご機嫌うるわしゅうございます、左大臣殿。」
健丞は、無表情に一礼する。
「珍しく、二条別邸にお運びとは。」
「おや? 私がここを訪れてはならぬと?」
信忠は、扇を軽く揺らしながら、愉しげに言った。
「いつもは健丞殿が、雅仁殿の傍にいて邪魔をされるからな。今日はよい機会だと思ったまでのこと。」
――やはり、俺の留守を狙って来たか。
健丞は、奥歯を噛んだ。
「殿。」
彼は、まっすぐ雅仁を見る。
「左大臣殿とは、何のお話を?」
雅仁は、微かに微笑んだ。
「私を、養子に迎えたいと。」
信忠が、まるで品定めをするように雅仁の顔を見つめる。
「何度も申しておるが、白泉家に埋もれさせておくには、あまりに惜しい。」
「ありがたいお言葉です。」
雅仁は、静かに答えた。
「ですが――私は、白泉の家の人間。」
「白泉の家? はて……」
信忠は、意地の悪い笑みを浮かべる。
「兄君が、それを望んでいるとでも?」
「……」
雅仁は、沈黙する。
その沈黙を、信忠は楽しむように眺めた。
「結局のところ、そなたは 政宏殿の意向ひとつでどうにでもなる立場ではないか。」
――そこを突いてきたか。
健丞は、息を詰めた。
政宏が、雅仁を自由にさせていないこと。
そのことを、信忠は見抜いている。
そして、あえてそれを指摘し、雅仁に「自らの意思で信忠のもとへ行く」ように仕向けているのだ。
「私は、今のままで構いません。」
しかし、雅仁は淡々とした口調で言った。
「……ふむ。」
信忠は、じっと雅仁を見つめる。
「その言葉が、あと何年続くか……楽しみなことだな。」
そう言うと、雅仁の手をそっと撫で、名残惜しそうに手を離した。
「今日はこれで帰るとしよう。」
信忠は立ち上がり、軽やかに扇をはたいた。
「では、また訪れるとしようぞ、雅仁殿。」
そして、健丞の肩を軽く叩く。
「健丞殿、邪魔ばかりせぬようにな。」
その言葉を残し、信忠は悠々と去っていった。
***
信忠が去った後。
健丞は、大きく息を吐いた。
「……殿。」
「大丈夫だ。」
雅仁は、静かに言った。
「大丈夫……?」
健丞は、拳を握りしめる。
「奴は、殿を……」
「分かっている。」
雅仁は、穏やかに微笑んだ。
「だからこそ、私は決して動かない。」
信忠の手には、決して落ちない。
それが、雅仁の決意だった。
香散見丸は、息を呑んで二人のやりとりを見つめた。
雅仁は、微笑んでいたが、その目は、どこまでも冷静だった。
――私は、今のままで構わない。
その言葉の裏にある、雅仁の本当の覚悟を、健丞もまた、感じずにはいられなかった。
---
信忠が去った後の座敷には、まだ微かな緊張が残っていた。
赤松健丞の拳は、わずかに握られたままだった。香散見丸もまた、雅仁の微笑みの裏に潜む冷ややかな覚悟を感じ、言葉を発することができずにいた。
だが――
「さて。」
雅仁の涼やかな声が、その張り詰めた空気を軽やかに断ち切った。
「緒方殿のところは、どうだった?」
その言葉に、健丞ははっと我に返る。
「……殿。」
雅仁は、穏やかに微笑みながら、軽く扇を動かしている。
「この屋敷の空気が淀むのは好きではない。」
健丞は、息を整え、懐から書状を取り出した。
「緒方洪庵先生より、殿への返書を賜っております。」
そう言って、慎重に書状を雅仁の前に差し出す。
雅仁は、手に取ると、すぐにその封を解いた。
巻かれた書をゆっくりと広げ、目を通していく。
やがて――
「……ふむ。」
雅仁の目が、わずかに細められた。
「緒方殿は、私の書状を『見事なもの』と評価してくださったか。」
「はい。」
健丞は、静かにうなずいた。
「独学でオランダ語を学ばれたこと、そして公家でありながらその枠に囚われぬ視点を持たれていることに、大いに驚かれておりました。」
「彼がそう言うのならば、多少は形になっていたのだろうな。」
雅仁は、手元の書を指でなぞるようにしながら、思案する。
「適塾の様子は?」
「熱気に溢れていました。」
健丞の声には、静かな感動が滲んでいた。
「狭い塾の中に、武士や商人の子弟が集まり、懸命に学びを求めていました。書生たちは、蘭書を訳し、一語一語を拾いながら、知を積み上げています。」
「……素晴らしい。」
雅仁は、ふっと息を吐いた。
「そこにいる者たちは、身分に囚われず、ただ知を求めているのだな。」
「はい。」
「それに比べて、宮中は……」
雅仁の言葉に、健丞が少し眉を寄せる。
「陛下の学問所構想も、幕府との均衡を考えねば進まぬ。」
「しかし、適塾では……?」
「何のしがらみもなく、ただ学ぶ場がある。」
「……ええ。」
雅仁は、静かに目を伏せた。
「学びたい者が学べる場……それが、京にもあればよいのにな。」
健丞は、何かを言いかけたが、言葉を飲み込んだ。
「……そして、塾生たちが、少し面白い反応をしていました。」
ふと、香散見丸が口を挟んだ。
「どういうことだ?」
雅仁が顔を向けると、香散見丸は少し得意げに言った。
「ヅーフ辞典が、二条別邸にもあるって言ったら、みんな驚いてました。」
「ほう?」
雅仁の眉が、わずかに上がる。
「それも、この塾にあるものより分厚いものだって。」
「……」
雅仁は、少し思案するように視線を落とした。
「彼らにとって、公家が蘭学を学ぶことは、想像もつかぬことなのだな。」
「そうみたいです。」
「しかし、興味を持ってくれたのだな?」
香散見丸は、勢いよくうなずく。
「はい! 『そんな公家がいるのか』って、ちょっとざわついてました。」
「ふむ……」
雅仁は、書状を巻き直しながら、微かに笑みを浮かべた。
「面白い。」
「……殿?」
健丞が慎重に問いかける。
「適塾の者たちと、もう少し、縁を結んでみるのもよいかもしれぬな。」
「それは……」
「京の学問が、閉ざされたものであってはならない。」
雅仁の目が、静かに光を帯びる。
「――彼らが何を学び、何を見ているのか。私も、もっと知りたい。」
その言葉に、健丞は深く息をついた。
「……承知しました。」
「ただし、表立って動くのは避けねばな。」
「ええ。幕府や兄上が嗅ぎつければ、厄介なことになる。」
「だからこそ、慎重に。」
雅仁は、夜の空を仰ぐ。
京の夜風が、障子の隙間からそっと吹き込んだ。
「適塾との縁……これは、我々にとっても大きな意味を持つかもしれぬな。」
香散見丸は、二人のやりとりを黙って聞いていた。
---
雅仁は、京を離れられなかった。
それでも、彼の思考は京の枠に収まるものではなかった。
適塾とのやり取りが始まり、二年が過ぎた。
この二年の間に、京も少しずつ変わっていた。
関白・白泉政行は、太政大臣を兼ねることになった。
雅仁は、権大納言となった。
政治的な地位は上がったが、それでも宮中の学問所計画はいまだ停滞していた。
雅仁が朝廷側の学問所に手を出せないのならば――適塾を支援すればよい。
***
適塾の門下生の数は増え続けていた。
書生たちは熱心に学び、緒方洪庵もまた、新たな知識を取り入れながら塾を運営していた。
しかし、問題はすぐに表面化した。
――適塾は、手狭になりすぎていた。
書生が増え、講義を受ける場が足りない。
宿舎も足りない。
そこで、適塾は移転を検討することになった。
「大阪の過書町に、新たな塾を開く。」
緒方洪庵はそう決めた。
しかし、それには資金が必要だった。
「お困りのようですね。」
雅仁は、さりげなく資金援助を申し出た。
表向きには適塾との関係を明らかにするわけにはいかないが、それでも裏から支援することはできる。
「学ぶ場が広がるなら、それでよいのです。」
京の学問所は進まぬが、大阪の学問所は動いていた。
そうして、適塾は徐々に新たな拠点へと移り始めた。
***
適塾を支援することで、新たな繋がりも生まれた。
「殿、緒方洪庵先生が参られました。」
「ふむ。」
雅仁は、静かに扇を閉じた。
適塾との書簡のやり取りが続く中、時折、緒方洪庵自身が二条別邸を訪れるようになっていた。
「まことに奇妙なご縁ですな。」
初めて二条別邸を訪れた際、洪庵はそう言った。
「まさか、公家の屋敷で、蘭学の話をする日が来るとは。」
そして、静かに微笑んだ。
「ですが、殿がいかに公家の枠に囚われぬ方か……書簡を交わすうちに、よく分かりました。」
雅仁は、何も言わずに微笑んだ。
「私には、学びの場が必要なのです。」
「そして、学ぶべきものがあるならば、それを手にしたい。」
「……まこと、そうでございますな。」
洪庵は、目を細めた。
***
しかし、この変化を 面白く思わぬ者がいた。
白泉景正――
政宏の不義の子でありながら、白泉本邸で育てられた男。
彼は、公然の密子であり、雅仁と同じ関白の子供として扱われていた。
しかし、京の公家たちが徐々に雅仁を支持し始めるにつれ、景正の心に燻るものは大きくなっていた。
「……あの男、宮中の女房だけでなく、若い公家たちまでも惹きつけているではないか。」
景正は、苛立ちを隠さなかった。
――なぜだ?
景正は、白泉本邸にいながら、正嫡の兄・政宏の庇護を受けていた。
一方で雅仁は、二条別邸に追いやられ、関白の庇護のもとにありながらも、どこか孤立している。
本来ならば、景正こそが宮中の公達たちの中心にいるべきではないのか?
「なぜ、やつばかりが……」
苛立ちを押し殺しながら、景正は杯を握りしめた。
***
一方、雅仁は 何もせずに人々を惹きつけていたわけではなかった。
女房たちの間では、雅仁の美しさと聡明さが評判になり、若い公家たちは、その才知に魅了されていた。
「白泉の権大納言殿と話をすると、学ぶことが多い。」
「まるで光源氏のようだ。」
「だが、殿はただの風流な貴族ではない……むしろ、公家でありながら、政を知る賢人だ。」
噂は広がり、雅仁のもとには次第に賢明な若い公家たちが集まり始めた。
景正にとって、それは何よりも面白くない現実だった。
「……雅仁を、どうにかせねばならぬ。」
景正の目に、冷たい光が宿る。
適塾との繋がりが強まる一方で、二条別邸への圧力が強まる予兆があった。
---
景正は、花京信忠に接触した。
「ふむ……」
信忠は、景正の話を聞きながら、扇を指先で軽く叩く。
花京信忠は、この景正という男を内心、器の小さい、取るに足りない男だと思っていた。
景正の存在は、所詮政宏の不義の子に過ぎない。正式な嫡子ではなく、ただ本邸で養われているだけの、曖昧な立場の人間。
信忠は公家の政治においては、血統こそがすべてだと考えている。
その意味で、景正には何の価値もない。
だが――
「雅仁を、白泉家から追い出したい」
「雅仁殿を、私のものにしたい」
景正の持ちかけた話には、信忠もまた興味を引かれた。
花京信忠、齢四十三。
若い頃は、手当たり次第に美しい者を求め、女も男も問わず、次々と手をつけた。
しかし、今や昔ほど 女性に執着はなくなっていた。
――代わりに、目を引くものがある。
それは、才知の輝き。
それは、容姿の美しさ。
そして、それでいて 控えめに振る舞いながらも、どこか芯の強さを秘めた者。
――すべて、雅仁の持つものだ。
信忠は、あの二条別邸の公達をどうしても手に入れたいと思っていた。
景正は雅仁を憎んでいる。
だからこそ、景正は雅仁を信忠の邪欲の前に放り出したいと思っていた。
互いの目的は違えど、合致するものがあった。
***
藤壺女御の書状を偽る。
景正は、この策を用いた。
「……これなら、あの男も疑うまい。」
藤壺女御が雅仁を気にかけ、彼を飛香舎に呼ぶことは 珍しいことではなかった。
書状の筆跡を真似、印を巧妙に押すことで、飛香舎への招きが偽造された。
景正は、その偽書状を、二条別邸へと届けさせた。
***
雅仁は、飛香舎へ向かった。
夕刻、内裏の回廊を静かに歩む。
飛香舎は、この先だ。
藤壺女御に呼ばれることは、雅仁にとってさほど珍しいことではない。
「(何かお話が……?)」
そう思いながら、雅仁は、御所の後涼殿の脇を通る。
そのときだった――
「――っ!」
何者かが、雅仁の袖を強く引いた。
驚く間もなく、雅仁の身体は暗い部屋の中へと引き込まれる。
バタン――
背後で、間抜きが音を立てて閉められた。
閉ざされた、後涼殿の闇。
***
静寂。
雅仁は、暗闇の中に立ち尽くす。
これは――何かが、おかしい。
飛香舎へ向かうはずが、なぜここにいるのか。
今まで、こんなことは一度もなかった。
雅仁は、呼吸を整えながら、静かに目を細める。
「……どなたです。」
返答はない。
「私を、ここへ連れ込んだのは誰です。」
暗闇の向こうで、わずかに衣擦れの音がする。
誰かが、いる。
待ち伏せていたかのように。
雅仁は、心を静めた。
――罠だ。
気づくのが遅かった。
政宏か、あるいは景正が仕組んだ、何か。
そして、雅仁を狙う者がいる。
闇の奥に、誰かの気配があった。
「……ようやく、捕まえた。」
---
闇の中、束帯の隙間を這う手がある。
雅仁は、息を呑んだ。
ひやりとした指先が、襲の上から、慎重に、しかし躊躇いなく滑る。
――何者だ。
視界は閉ざされ、声を上げれば、誰が相手であろうとも「雅仁が取り乱した」という形で広まる。
そして、それが誰にとって有利になるかを考えれば――
政宏か景正か、あるいは……花京信忠か。
雅仁は、気配を探るように全身の神経を研ぎ澄ませた。
手の動きは緩やかで、慎重だった。
触れるか触れぬかの距離を行き来しながら、あえて焦らすような仕草。
――この手の主は、心得ている。
闇の中で、相手を支配する術を。
「……何のつもりですか。」
雅仁は、静かに声を発した。
低く、冷ややかな声音。
だが、その静寂を破ることはなかった。
手の動きは止まらない。
むしろ、雅仁の反応を愉しむかのように、さらに布の奥へと這おうとする。
――私は、ただの「美しい貴公子」ではない。
雅仁は、ゆっくりと自身の呼吸を整えた。
そして、その瞬間――
雅仁は、一瞬の隙を突き自ら後方へ跳ね退いた。
「――っ!」
手の主が、わずかに息を呑む音。
雅仁は、すかさず間抜きを探り、指先をかけた。
しかし――
閉ざされている。
「……逃げられぬと、分かっているでしょう?」
その声は、暗闇の中で響く。
低く、冷ややかで、どこか甘く笑むような声音。
「これほどまでに、美しき公達を……ここで、ただ逃がすなどということが、あるものか。」
――花京信忠か。
雅仁は、息を整えながら目を細めた。
「貴殿のすることは、まことにご壮健ですな。」
皮肉を含んだ声音に、信忠はくつりと笑う。
「我が齢四十三になろうとも、目の前にこのような珠があれば……手を伸ばさずにはいられぬものだよ。」
「……珠?」
花京信忠の言葉に、雅仁の脳裏にかすかな違和感が生じた。
――まさか、この人も?
「かつて白泉に取られた珠御前、ならば白泉から奪い返すまで」
――珠御前。
雅仁の母の名。
それは、雅仁が唯一錦絵でしか知らぬ女の顔。
しかし、それが何を意味するのか、考える間もなかった。
信忠の手が、乱暴に束帯の合わせを暴いた。
「っ……!」
雅仁は、瞬間的に反射的な嫌悪感を覚えた。
単なる悪ふざけや戯れではない。
そこには執着がある。
――珠御前への。
母の影を、私に重ねている?
それとも、珠御前を手に入れられなかった過去の憤りを私に向けている?
――どちらにせよ、これは許せぬ。
もし、誰かにこの場を見られれば、どちらが「傷もの」にされたかではなく、どちらが「醜聞を生んだか」が問われる。
そして、信忠は そういう策略を心得ている。
---
「――誰か!」
雅仁の凛とした声が、暗闇を貫いた。
閉ざされた間抜きの向こうにまで響くように、意図的に。
これは、もはや密やかな駆け引きではない。
――これは、戦だ。
信忠は、一瞬動きを止めた。
雅仁が、声を上げた。
この後涼殿で。
宮中の回廊の近くで。
もし、誰かが聞いていたらどうなるか。
それを知り尽くしている男の顔が、歪んだ。
――ここで手を引くか? いや、信忠はそんな男ではない。
彼の目には、まだ強引に事を進めようという執念が滲んでいる。
だが、その瞬間――
「……? 誰かいらっしゃいますの?」
女房の声が、廊下の向こうからした。
間抜きの外に 確かに誰かがいる。
「この書状は……」
赤松健丞の声。
――来た。
雅仁の勝算が、揃った。
***
「これは、藤壺女御からの書状……?」
健丞が 拾い上げたのは、間抜きに引き込まれる直前に落としてしまった書状。
「飛香舎へ?」
公達の声が重なる。
「しかし、雅仁殿はここに……?」
「誰かが、書状を偽ったのでは?」
「間抜きを開けよ!」
***
光が差し込んだ。
閉ざされていた間抜きが、開かれる。
そこにいたのは――
乱暴をする花京信忠。
そして、乱暴されている白泉雅仁。
公達たちは息を呑んだ。
女房たちの中には、小さく悲鳴を上げる者もいた。
「な、何をなさっておいでなのですか……!」
誰かが、声を震わせる。
信忠は表情をこわばらせたまま、一歩後ずさる。
「……これは、」
――言い逃れは、できない。
この場には 証人がいる。
この場を見た者が 数人もいる。
そして――
偽りの書状がある。
花京信忠は、逃げた。
公達たちは、動揺しながらも、それを追うべく走り去っていった。
残されたのは――
白泉雅仁、そして、赤松健丞。
静寂が訪れた。
女房たちは、ためらいながらも、雅仁の周りに屏風を立てる。
それは、彼が身を整えるためのささやかな配慮。
「……御簾を下ろします。」
女房の声が、震えていた。
「ありがとう。」
雅仁の声は、穏やかだった。
だが、屏風の中に入ると――
その場に座り込んだ。
***
「……少し、このままに。」
低い声で、雅仁は言った。
赤松健丞は、何も言わず、ただ彼のそばに座った。
「これでもう、大丈夫だ……」
雅仁は小さく息を震わせる。
今、ようやくすべてが終わった。
この罠を退けた。
信忠を追い詰め、景正を暴く機会を得た。
しかし――
乱暴された恐怖は、後から襲ってくる。
今になって肌に残る感触が、嫌悪と共に込み上げる。
目を閉じると、信忠の冷たい指が束帯を乱した瞬間が蘇る。
雅仁の指先が、わずかに震えていた。
健丞は、雅仁の震える手を見つめた。
そして、迷いなく彼をそっと抱きしめた。
「……健丞?」
「殿。」
いつかのように。
幼い頃、怖い夢を見て泣いたときに、そっと背を撫でたように。
今、彼は何も言わず、ただその震えを抱きしめた。
雅仁は、静かに健丞の肩に額を預けた。
「……情けないな。」
「いいえ。」
「私が……声を上げてしまった。」
「殿は、声を上げるべき時に、声を上げられました。」
健丞の手は、優しく雅仁の背を支えていた。
「だからこそ、こうして、ここにいる。」
「……そうだな。」
雅仁は、震えながらも小さく微笑んだ。
「お前がいてくれて、よかった。」
「私は、ずっと殿のそばにおります。」
「……ああ。」
雅仁は、ゆっくりと目を閉じる。
「……少しだけ、このままで。」
「ええ。」
---
追われたのは、雅仁ではなく、景正だった。
書簡偽装の咎を受けた景正は、白泉家から追放されることこそなかったものの、京の地を追われた。
江戸の白泉屋敷へ――。
彼に課されたのは、幕府との折衝役。
これは左遷か、それとも試練か。
景正は関白の二子でありながらも、正式な嫡子ではない。
そんな自分が、幕府と朝廷の狭間で何を成せるか……それを問われているのだった。
「……江戸か。」
雅仁は、その報せを受けながら、どこか遠くを見るように呟いた。
「政宏様も、さすがに大きくは出られなくなりましたね。」
赤松健丞が、低く言う。
「これまで景正様を後ろ盾にして、殿を抑え込もうとしていたのですから。」
「……私が勝ったわけではないさ。」
雅仁は、静かに微笑む。
「兄上が、大義名分を失っただけ。」
「ですが、もう殿を抑える口実はないでしょう。」
健丞はそう言いながらも、雅仁が今まで以上に慎重な態度を取っていることに気づいていた。
勝っても、驕らない。
むしろ足元を固めることに専念している。
その姿勢が、これまで才色兼備を称えられていた若い公達だけでなく、老獪な公家たちの支持も集める結果となっていた。
「……光源氏以上、か。」
宮中では、雅仁の名声がさらに高まっていた。
男をも惹きつけてしまう美貌と魅力。
もはや光源氏を超えた存在であるとまで言われるほどだった。
それは、あの後涼殿の一件が「色事に巻き込まれるほどの器量を持つ」という皮肉めいた評価に転じた結果でもあったが……。
「しかし、殿は宮中での振る舞いを派手にしていません。」
「派手にする必要がないのだよ。」
雅仁は、淡々と答えた。
「……すでに、私の周囲には人が集まっている。私が何かを仕掛けなくても、彼らが動く。」
つまり――
権力とは、積み重ねるものではなく、惹きつけるものだ。
それを、雅仁は本能的に理解していた。
---
二条別邸。
「香散見丸、そちらの蘭書を出してくれ。」
「はい、殿!」
香散見丸は、小さな体で一生懸命に古びた蘭学書を運んでいた。
二条別邸では、今、書の虫干しをしている。
蘭学書は、湿気を含むと傷みやすい。
適塾との交流が続く中、雅仁のもとには新しい蘭学書が次々と届けられていた。
しかし、同時に古い書物の保存も怠るわけにはいかない。
「殿、これは?」
香散見丸が、分厚い一冊を抱えながら尋ねた。
「『エウローパ医方書』だ。」
「適塾にもありました!」
「ふむ。」
雅仁は、風を受けながら書を開く。
その文字の並びを指でなぞるようにしながら、静かに呟いた。
「……西の国では、人の身体は『血』 で巡ると考えるのか。」
「日本の医術とは、だいぶ違いますね。」
「ええ。『気』 ではなく、『物質としての体』 を捉える視点がある。」
香散見丸は、不思議そうにページを覗き込んだ。
雅仁は、その様子を見て微笑んだ。
「お前も、そのうち蘭語を覚えるといい。」
「えっ!? ぼくに蘭学を!?」
「そうだ。学ぶことは、どんな身分の者にも許されるべきことだからな。」
香散見丸の目がきらりと輝いた。
「はい! 殿がそうおっしゃるなら!」
「……ふふ。」
雅仁は、書を閉じ、日差しを浴びながら、空を仰ぐ。
京には風が吹いている。
それは、新しい時代の風。
誰が主となるかは分からない。
しかし、雅仁は知っていた。
風を読む者こそが、未来を掴むのだと。
---
午後の陽が、障子越しに柔らかく射し込む。
二条別邸の書院。
庭園を望むその空間に、雅仁は無造作に寝転がっていた。
束帯ではなく、気軽な衣。
薄手の単衣が乱れ、襟元から白い首筋が覗く。
「……もう、あの花京の狸も来ないと思うと、心安らぐな。」
雅仁は、 片腕を枕にしながら、緩やかに笑った。
「まったく、厄介な男だった。」
「殿にとって、あのような輩はもう珍しくないでしょう。」
赤松健丞は、淡々とした口調で言いながらも、視線をどこに置くべきか迷っていた。
雅仁の 寝姿があまりに無防備だったからだ。
思わず、目を逸らす。
しかし、意識すればするほど、その姿は目に焼きつく。
さらりと落ちる黒髪。
細くしなやかな手。
そして、軽くめくれた袖から覗く華奢な手首。
まるで誘うかのように横たわるこの人は――
「……健丞?」
「……!」
突然の声に、健丞は思考を戻す。
「何を考えている?」
「いえ、何も。」
「そうか?」
雅仁は、くすりと微笑む。
「お前は、私が気を抜くとすぐに目を逸らすな。」
「殿のお姿が、際どいので。」
健丞は、ほぼ無意識のうちに 本音を漏らしていた。
「際どい?」
雅仁は、少しだけ身体を起こし、健丞を見つめる。
「何が?」
その言葉に、健丞は答えられなかった。
雅仁の肌に落ちる光が、あまりに美しかったから。
「……。」
「ふむ。」
雅仁は、健丞の沈黙を面白そうに眺めながら、再び横になる。
「お前ほどの男なら、周りの女たちも放っておかぬだろうに。」
「……それは、殿も同じことでは?」
「ふふ。」
雅仁は、微かに笑う。
「そうかもしれぬな。」
「……。」
健丞は、ふっと息をついた。
なぜ、女の影がないのか。
それは――
「女よりも美しいこの人が、常にそばにいるからだ。」
それを、 口にすることはなかった。
雅仁は、再び無防備な姿で横たわる。
その姿を、ただ黙って 見つめることしかできなかった。
---
宮中の廊下を歩いていると、ふと興味を惹かれる若者に出会った。
「……岩吉?」
そう呼ばれている彼の本名は、岩倉具視。
「ははっ、殿のような高貴な方に、そんな名で呼ばれるのは少々気が引けますな。」
にこりと笑う顔は、どこか人懐っこく、それでいて目の奥には鋭い光が宿っている。
雅仁は、ふと足を止めた。
この男、只者ではない。
***
岩倉具視。
位階は従五位上、まだまだ若い公家のひとり。
しかし、雅仁より二つ年下でありながら、すでに伏原宣明に入門し、儒学を修めている。
「白泉の権大納言殿が、私のような者に何用で?」
具視は、まっすぐに雅仁を見る。
その目の強さに、雅仁はむしろ興味を深めた。
「お前は、何を考えている?」
「何を、とは?」
「伏原に学びながら、宮中に仕える。その上で、何を見ている?」
具視は、一瞬だけ目を伏せ、すぐにまた鋭く微笑んだ。
「……朝廷が、このままであるとは思えません。」
「ふむ。」
「幕府はゆっくりと力を失い、それをどこが拾うのか。公家が拾うのか、幕府が立て直すのか、それを見極めたいのです。」
雅仁は、静かに具視を見つめた。
「なかなかの見識だな。」
具視は、軽く肩をすくめる。
「いえ、まだまだ若輩者ゆえ、どこまで通じるか……。」
雅仁は、その言葉にくすりと笑った。
「ならば、二条別邸へ来い。」
「……?」
具視は、意外そうに目を瞬かせる。
「本邸ではなく?」
「お前のような者を、本邸へ迎えるのは難しい。白泉家は、格式を重んじる。」
「なるほど。」
「だが、二条別邸ならば話は別だ。」
「……。」
具視は、しばらく沈黙した後、ゆっくりと笑った。
「なるほど、蘭学者も出入りするあの屋敷なら、私のような者でもお邪魔にならぬというわけですな。」
「賢いな。」
雅仁の言葉に、具視は少しだけ低く頭を下げた。
「では、喜んで、お伺いさせていただきましょう。」
---
「……やはり、殿は惜しいお方ですな。」
岩倉具視は、二条別邸の書院で盃を置きながら、ぽつりと呟いた。
夜の帳が降りる中、蝋燭の灯りがゆらゆらと揺れている。
雅仁は、その言葉に微かに笑いながら、ゆっくりと盃を傾けた。
「何が惜しいのだ?」
「殿のような方が、政宏様の陰で燻っていることがですよ。」
「……。」
具視の言葉には、微かな苛立ちが滲んでいた。
「知が、求められている時代です。」
学問所構想にも積極的な具視にとって、今の朝廷に最も必要なのは『学ぶ場』であることは明白だった。
それは単に、貴族の子弟のためのものではない。
武士も、商人も、学問を知り、世を考えねばならない時代が来る。
「それを、今上帝もお考えだ。」
具視は、まっすぐに雅仁を見つめる。
「殿は、学問所の設立にとって、不可欠な存在ではないのですか?」
「……そうかもしれぬな。」
「そうかもしれぬ、ではありません。」
具視は、少し身を乗り出した。
「殿がいるからこそ、学問所が機能するのです。」
「私ではなく、伏原宣明殿や、他の学者たちが主導すればよい。」
雅仁は、静かに答えた。
「殿がいることで、知が集まる。」
「蘭学も儒学も、有職故実も、ただ並べるだけでは意味がない。知識とは、それを繋ぎ、新たな視点を生み出すことに価値がある。」
具視の目は、真剣だった。
「殿のような方こそ、それを導くべきなのです。」
「……。」
雅仁は、ゆっくりと盃を置いた。
「具視。」
「はい。」
「まだ、時宜ではない。」
その言葉に、具視の表情が曇る。
「……殿。」
「今、私が表に出れば、何が起こる?」
具視は、しばらく口を閉ざした。
「政宏様が、動く。」
「そうだ。」
「だが、それを恐れていては、何も変わらないではありませんか。」
「私は恐れているのではない。」
雅仁は、扇を軽く広げ、ゆるやかに仰ぐ。
「最も効果的な瞬間を待っているのだ。」
「……。」
具視は、その言葉の意味を考えた。
「急く必要はない。」
「急かねば、時を逃すこともある。」
「ふむ。」
雅仁は、ふっと微笑んだ。
「ならば、具視よ。お前は、時を呼ぶ風となるか?」
具視は、一瞬目を細め――
「……喜んで。」
そう答えた。
知の必要性を知る者たちは、ゆっくりと繋がり始めていた。
---
学問所の設立が、現実のものとなった。
武家伝奏が幕府との折衝を担い、ついに皇族や公家の子弟のための教育機関が正式に認可された。
朝廷内では、この新たな学問所が「かつての学問所を超える新たな知の場」となることへの期待が高まっていた。
この功績により、雅仁は従二位に登る。
――決して表に出ることはなかったが、岩倉具視の尽力も大きかった。
その功績を評価され、具視も正五位下に昇叙された。
しかし、その時――
最もこの学問所の設立を期待していた 今上帝が、崩御する。
時が、一瞬で停滞した。
学問所の設立は、皇統の安定を前提としていた。
統仁親王が新帝として即位し、政治の混乱を抑えることが最優先事項となる。
摂政には、父である白泉政行が就き、白泉家が朝廷を統べる時代が続く。
しかし――
学問所の開講式は、延期となった。
「……やはり、すぐには動かせぬか。」
雅仁は、書院で報を受けながら、静かに呟いた。
***
岩倉具視は、強く拳を握っていた。
「これでは、学問所の意義が失われます!」
「……具視。」
「殿、これほどの苦労を積み重ねて得たものを、ただ延期とは……!」
具視の目には、怒りと苛立ちがあった。
「知を、また閉じ込めるつもりか。」
具視にとって、学問所は単なる公家の体面ではない
それは、知の解放であり、時代を変える一歩だった。
「帝は……いや、摂政殿が、どれほどの学識を重んじようとも、今は動けぬと?」
「……ああ。」
雅仁は、ゆっくりと目を伏せた。
「今は、時宜ではない。」
「また、時宜ですか。」
具視の声は、悔しげだった。
「殿は、あまりに慎重すぎる。」
「……ふむ。」
雅仁は、ふっと笑う。
「お前は、あまりに焦りすぎる。」
「……。」
具視は、何か言いかけたが、言葉を飲み込んだ。
雅仁は、ゆるりと扇を開いた。
「学問所が設立されても、ただ学ぶ場があればよいのではない。」
「……?」
「それが、どのように政治と結びつくかを考えねばならぬ。」
具視は、じっと雅仁を見た。
「……殿は、何を見ていますか。」
雅仁は、ゆっくりと具視を見つめた。
「私は、学問所の開講式よりも、その先を見ている。」
「その先……?」
「学ぶだけでは、何も変わらぬ。学んだ者が、世を動かしてこそ、意味があるのだ。」
具視は、息を呑んだ。
雅仁の視線は、すでに『学問所ができた後』に向けられていた。
そして、それを動かすのは――
「……お前のような者だよ、具視。」
「……!」
岩倉具視は、その言葉の重みを噛み締めるように、静かに唇を結んだ。
今、すべきことは何か。
それを、彼は理解し始めていた。
---
藤壺女御の住まう御殿は、静かだった。
かつての華やぎは影を潜め、今はただ、深い哀しみと病の気配が漂っている。
帝に先立たれた悲しみ。
見る影もなく痩せ、病床に伏した皇太后。
雅仁は、静かにその床前に座した。
「……統仁を、頼みます。」
皇太后の声は、弱々しく、それでも深い思いが込められていた。
「帝は……この国を案じておられました。外国の船が、頻りに近海に現れることを……」
雅仁は、目を伏せた。
このところ、頻発する異国船の出没。
幕府は対応に苦慮し、今上帝は即位間もなくして幕府へ海防強化及び対外情勢の報告を命じていた。
「幕府は、異国船の来航状況を報告し、沿岸警備の不十分さを理由に打払令の復活を撤回せざるを得なかったと申しておりました。」
「……帝は、それをお許しにはなりませなんだ。」
皇太后の声がかすれる。
「帝は、外夷を打ち払うことを望んでおられた。」
雅仁は、静かに目を閉じた。
「……それほどまでに。」
「ええ……」
皇太后は、長く息を吐く。
「帝の御心は、ただ、この国を守ることにあった。」
「ですが……幕府は……」
雅仁は、言葉を選ぶように静かに答えた。
「幕府もまた、これ以上の衝突を避けたかったのでしょう。」
「海防の不備、戦力の限界……彼らは、それを知っている。」
「……。」
皇太后は、静かに雅仁を見つめた。
「あなたは、知っているのでしょう。」
雅仁は、じっと皇太后を見つめ返す。
「この国が、いずれ動かねばならぬことを。」
「……。」
「幕府が……朝廷が……異国と向き合わねばならぬことを。」
雅仁は、静かに目を伏せた。
皇太后は、弱々しくも微笑んだ。
「あなたは、帝が頼りにされたお方。統仁を……どうか支えてください。」
「……かしこまりました。」
雅仁は、深く頭を下げた。
皇太后の病床に差し込む陽の光は、どこか儚げだった。
この国の行く末が、静かに動き始めていることを予感させながら。
---
翌年、学習所(学習院)の開講式が行われた。
かつて帝が望んだ学びの場が、ついに実現したのだ。
これとほぼ同時期に、帝は石清水臨時祭において外夷を打ち払い、四海静謐を祈る儀を執り行った。
これは、幕府の対外政策に対する強い意志の表明でもあった。
そんな折、二条別邸に、関白・白泉政行がやってきた。
「……そなたの名が、帝のもとで出ることが増えてきたな。」
政行は、庭園を望む書院に腰を下ろしながら、ゆるりと扇を広げた。
雅仁は、静かに盃を傾けながら応じる。
「私は、ただ求められるままに動いているだけです。」
「ふむ。」
関白として、政行は **すでに何度か辞任を奏上していた。
しかし、今上帝の信認は厚く、辞職は留保され続けていた。
幕府との折衝、攘夷の機運、そして難しい朝廷運営――
老体には厳しい時勢であった。
しかし――
「政宏には、これを回せる器量はない。」
政行の言葉は、重かった。
関白の嫡男として育てた政宏。
しかし、彼には 父ほどの柔軟さも、戦略もない。
「兄上は、白泉家の嫡男です。」
雅仁は、淡々と答えた。
「しかし、それだけでは足りないのでしょう。」
「……。」
政行は、じっと雅仁を見つめる。
この息子は、決して己の欲を表に出さない。
だが、宮廷の流れを読む目は、誰よりも確かだった。
「ならば、そなたは誰を推す?」
政行は、問いかけた。
雅仁は、一拍置き――
「花京信忠殿です。」
「……ほう。」
扇を閉じる音が、静かに響く。
「左大臣を?」
「ええ。」
「そなたは……かつてあの男に狙われたというのに。」
「それと、これとは別の話です。」
雅仁は、冷静に言った。
「政を動かす力を持つ者でなければ、関白にはなれません。兄上では、それができません。しかし、花京殿には、できます。」
「……色事には難があるがな。」
政行は苦笑した。
「それは、宮中のことです。大事なのは、幕府との折衝ができるかどうか。今、幕府との交渉をうまく回せるのは、花京殿だけです。」
政行は、扇を指先でなぞるようにしながら、しばし沈黙した。
雅仁は、復讐のために信忠を貶めようとはしない。
むしろ、政を考えている。
「……そなたは、政に関わるつもりはないのか?」
政行の問いに、雅仁は静かに微笑んだ。
「私は、まだ。」
その言葉に、政行はふっと笑う。
「また、それか。」
「ええ。」
「……ならば、見せてもらおうか。」
扇を閉じ、政行は静かに立ち上がった。
「そなたが、どこまでこの世を見通しているのかを。」
そして、ゆっくりと庭へと歩み去っていった。
---
それから間も無くして、雅仁は花京信忠を二条別邸に呼んだ。
父の後に関白をついで欲しいこと、そして時が来ればその役職を兄に譲って欲しいこと。
花京は「兄君で良いのか」と言った。
雅仁は、盃を置きながら、夜空を仰ぐ。
「私は、日陰のものです。」
雅仁は、静かに言った。
その声音は、決して卑下したものではなかった。
むしろ、それを受け入れ、なお誇りを持っているかのように。
「母は側室。私は、兄と違って『政』の字を持てぬ白泉家の人間。」
「しかし――」
雅仁は、盃を置き、じっと花京信忠を見つめた。
「この世に生を受けたことを、なかったことにはしたくないのです。」
静かでありながら、確かな意志のこもった言葉。
それは、これまで信忠が見てきたどの貴公子とも違った。
「……そなたは。」
信忠は、雅仁を見つめる。
彼の表情に、驚きと理解が滲んでいた。
「……なぜ、これほどまでに、人を惹きつけるのか。」
その理由が、今、分かった気がした。
この男は、何も持たずに生まれたのではない。
持たぬことを知りながら、それを力に変えたのだ。
「……ふむ。」
信忠は、盃を持ち上げた。
「その言葉、しかと聞いた。やはり、そなたの風に乗ることは、悪くない。」
---
花京信忠が二条別邸を辞した後――
雅仁は、一人、能舞台の縁に腰を下ろし、盃を傾けていた。
月明かりが、静かに庭を照らしている。
静寂の中、遠くで虫の音が響く。
やがて、その横に、赤松健丞が座った。
「……よく耐えましたね。」
健丞の声は、低く、慎重だった。
雅仁は、盃を軽く回しながら、目を細める。
「お前には、分かったか?」
「……。」
「あの日の恐怖が、露呈しないように。」
雅仁は、ゆっくりと盃を口に運び、酒を飲み下した。
「それでいて――花京信忠が、私を珠御前の息子ではなく、あくまで 『白泉雅仁』として見るように。」
健丞は、そっと息を飲んだ。
「……殿は、己の心のうちを見せたように振る舞った。」
「その通り。」
雅仁は、微笑む。
「それは、一種の自己犠牲でもあった。」
健丞は、拳を握る。
「朝廷と幕府……広くこの国の政のために、花京殿には父の後の、そして兄の前の関白を担ってもらわなければならない。」
「……ええ。」
「だからこそ――私は、自らを差し出したのだ。」
盃の中の酒を、ゆらりと揺らしながら、雅仁は低く笑う。
「私の思いを、花京殿に飲ませたのだ。」
「……。」
健丞は、何も言えなかった。
「次に、花京殿が何かを求めれば――私は、拒むことができない。」
静かな声が、夜の闇に溶けていく。
「それが、どれほどの危うさか……殿は、分かっておられるのですか。」
健丞の声は、かすかに震えていた。
雅仁は、ゆっくりと目を伏せた。
「分かっているさ。」
「……。」
「だが、それがこの国のためになるならば……私は、そうする。」
「……。」
健丞は、拳を握ったまま、何も言えなかった。
月明かりの下、雅仁はただ静かに酒を飲み続けた。
---
夜風が、能舞台の簾を揺らす。
月明かりの下、雅仁は静かに盃を手に取り、それを赤松健丞に差し出した。
「健丞。」
健丞は、黙ってその盃を受け取る。
酒の香りが、微かに鼻をくすぐった。
「もしも――」
雅仁の声音は、穏やかだった。
しかし、その静けさの奥に、揺るぎない決意が宿っている。
「もしも、花京殿から乞われることがあれば。」
健丞は、息を止める。
「私が花京殿のものにならぬように。」
雅仁は、ゆるりと扇を閉じた。
「お前が、私を抱くのだよ。」
盃の中の酒が、ゆらりと揺れた。
健丞の指先が、わずかに震える。
「……殿。」
健丞は、何か言いたかった。
しかし、何も言えなかった。
雅仁は、微笑む。
「お前ならば、拒むことなく、私を奪ってくれるだろう?」
それは、信頼か、それとも……試しなのか。
健丞は、盃を見つめた。
月明かりが、琥珀色の液面に映り込んでいる。
それは、まるで「この関係が、後戻りできなくなる」ことを告げるかのようだった。
健丞は、ゆっくりと盃を傾けた。
酒が喉を滑り落ちる。
そして、静かに盃を置いた。
「承知しました。」
低く、静かな声。
健丞は、盃を持つ手をそっと雅仁の手の上に重ねる。
「……私は、殿を誰にも渡しません。」
「たとえ、それが花京殿であっても。」
風が、二人の間をすり抜けた。
雅仁は、ゆっくりと微笑んだ。
「……頼もしいな。」
盃の誓いが交わされた夜。
それは、互いの関係を、決して元には戻せぬものとする約束だった。
---
静寂の中、琥珀色の酒が揺れる。
夜空には冴え冴えとした月が浮かび、その光が、能舞台の縁に座る二人の姿を白く照らし出していた。
盃を交わす――まるで婚姻の儀のような、美しい光景。
それなのに。
なぜ、こんなにも心苦しいのだろう。
赤松健丞は、盃を手にしたまま、目の前の主を見つめる。
心を寄せる主人からの申し出であるというのに。
この場は、あまりに幻想的で、すべてを受け入れてしまいたくなるほどの魔性があった。
それなのに。
それなのに――
健丞の心には、どうしようもない痛みがあった。
(もしも、そういう時が来たとしても……)
それは、恋や愛といった甘やかなものではない。
それは、ただの義務。
ただの防壁。
「花京信忠のものにならぬため」という理由だけで、雅仁を抱く。
それが、どれほどの苦痛かを、健丞は理解していた。
―― だからこそ、健丞は願った。
「そんな時など、一生来ないでほしい。」
―― それと同時に。
「もし、その時が来たならば、誰よりもこの方を強く抱きしめてしまうだろう。」
この想いの矛盾こそが、健丞にとって最も耐え難い苦しみだった。
雅仁は、月の光の下、ただ静かに微笑んでいた。
その美しさを前に、健丞はただ、心の奥底で、痛みを噛み締めるしかなかった。
---
時代の舵が、大きく切られた。
白泉政行――関白辞任。
しかし、今上帝の特例により「太閤」の称号を賜り、内覧として朝廷の実務に留まった。
そして、次代の関白には、花京信忠。
関白宣下の儀。
雅仁は、殿上人としてその場にあった。
「……。」
殿上の間から、信忠が正式に関白へと叙任される様子を見つめる。
信忠は 迷いなく、ただ静かに受けた。
そして――
何も求めてこなかった。
「……。」
雅仁は、信忠を見つめながら、ふと推測する。
「そうか――」
花京忠敬の誕生か。
同じ年、花京家には嫡子忠敬が生まれた。
つまり、信忠にとって、「跡を継がせるべき者」ができたのだ。
「ふふ。」
雅仁は、扇をゆるりと開く。
「ならば、花京殿は――今しばらく、私に刃を向けることはない。」
雅仁にとって、平和な時代が訪れた。
今上帝の覚えもめでたく、関白・花京信忠との関係も良好。
さらに、朝廷内の公家たちとの折衝役としての立場も確立し、彼の影響力は増していた。
学問所にも時折顔を出し、知の場の発展を見守る。
その一方で、二条別邸には昨年、雅仁の支援で適塾を移設した緒方洪庵が訪れていた。
彼の来訪は、屋敷に新たな活気をもたらした。
公家と蘭学者、二つの世界が交わる場所。
雅仁が築いた知の交差点は、次第に形を成していた。
しかし――
「……面白くないのは、政宏様ですね。」
赤松健丞が、静かに言った。
雅仁は、扇を軽く仰ぎながら微笑んだ。
「当然だろう。」
白泉政宏。
彼にとって、弟が穏やかに過ごし、影響力を持ち始めることほど面白くないことはない。
「私を二条別邸に追いやり、権勢を独り占めするはずだったのに。気づけば、花京殿が私の意向に従って関白となり、帝からの信頼は揺らがない。兄上は――」
雅仁は、盃を傾ける。
「これを、永遠に続けようとは思っていないだろう。」
「……。」
健丞は、黙って雅仁を見つめた。
「……殿は、何を見ていますか?」
雅仁は、微かに笑った。
「嵐の前の静けさだよ。」
---
案の定、政宏は動いた。
夷狄に対する対応をめぐる勅許の問題で、密かに陰謀を巡らせたのだ。
今上帝は、完全な攘夷派。
一方で、江戸にいる幕府側の折衝役である景正からの報せによれば――
幕府内にも開国派と攘夷派が存在している。
大老を中心とする開国派は、「開国の勅許」を求めていた。
政宏の狙いは、その勅書を握り潰すことにあった。
「攘夷派である帝の気持ちに叶う策であるはずだ。」
そう、政宏は考えていた。
さらに、この陰謀にはもうひとつの意図があった。
景正を、朝廷に帰りやすくするための布石。
景正が幕府と朝廷の間で主導権を握ることで、彼の地位は向上し、いずれ再び京に戻ることができる。
この策が成功すれば、政宏の影響力は、幕府と朝廷の両方でさらに強まることになる。
「……しかし、殿はどちらにもつかないのですね。」
赤松健丞は、静かに盃を置いた。
雅仁は、扇を軽く仰ぎながら 微笑んだ。
「当然だろう。開国派にも、攘夷派にもつかず。ただ、帝の寵愛だけは、決して失わないようにする。」
それが、この政局の中で最も確かなことだった。
「私は強いて言えば、天皇派だ。」
雅仁は、静かに盃を傾ける。
「天皇は、唯一揺るがぬものでなければならない。」
健丞は、じっと主を見つめた。
「……では、関白を辞した政行様には?」
「宮中の情報を、伝えている。」
雅仁は、淡々と言った。
「父上は、政の表舞台には立たぬが、内覧として依然影響力を持っている。私は、天皇の御意を支えながら、同時に父上が動きやすいよう、采配している。」
「つまり、殿は――」
「宮廷を動かしているのは、兄上ではなく、私だ。」
扇を閉じ、雅仁は月明かりを浴びながら、静かに笑う。
「さて、兄上はこの策が成功すると思っているのか。それとも自らの行動が、方々の怒りを買う可能性を、まだ理解していないのか。」
政宏が怒りを買ったのは、今上帝ではなく、幕府の開国派筆頭である大老だった。
幕府の勅許問題を巡る陰謀が発覚し、大老は激怒。
その結果「大老の大獄」により、 政宏は、辞官および落飾を、景正は、切腹を命じられた。
「……帝が、お怒りです。」
赤松健丞の報せを受け、雅仁は静かに盃を置いた。
怒るべきは、幕府ではなく兄の行動なのに――
攘夷派である今上帝は、幕府のこの決断に激しく憤った。
その反発の声が、宮中を大きく揺るがしていた。
「このままでは、幕府と朝廷が全面対決の構えを見せかねない。」
そんな事態を憂いたのは、内覧である父・政行だった。
「帝。」
政行は、病身を押して、今上帝のもとに参じた。
「幕府と対立すれば、承久の乱のような事態を招きかねませぬ。幕府が朝廷を制圧し、帝が行幸を余儀なくされたあの時のように。どうか、冷静なご判断を……!」
しかし、 聞き入れられなかった。
帝は、政行の諫言を受け入れず、幕府に対してさらに強硬な姿勢を示した。
この国は、どこへ向かうのか。
政行は、やがて 内覧辞退の意向を上奏し、即座に受理された。
「……これで、白泉家は…。」
赤松健丞が、低く言う。
雅仁は、静かに目を伏せた。
「父上がいなくなれば、宮廷の均衡は崩れる。そして、花京殿が単独行動を余儀なくされる。」
政行が内覧としての影響力を失ったことで、これまで彼の意向を受けながら関白職を遂行していた花京信忠は、もはや政行の言葉を聞かなくなった。
それは、つまり――
「……花京殿と父上の間に、誰も入ることができなくなる。」
「殿が、取り持とうとなさるのでは?」
「試みたさ。」
雅仁は、静かに笑う。
「だが、叶わなかった。」
信忠はすでに、関白として単独で動き始めている。
「ならば、白泉家の没落を留め得るのは、私だけだ。」
健丞は、思わず拳を握る。
「……殿。」
「今の私は、帝の寵愛を受けている。だがそれだけでは、白泉家を支えるには足りない。」
政宏が失脚し、景正が処刑され、父・政行は引退。
にもかかわらず、政宏の他の息子を雅仁の養子にする話すら出てこない。
「つまり、私は――ただ、私として、この家を守るしかないのだよ。」
健丞は、沈黙したまま、雅仁の横顔を見つめた。
「殿。」
「何だ?」
「……白泉家が、全てではありません。」
健丞の言葉に、雅仁は扇をゆっくりと広げ、ふっと微笑む。
「そうかもしれないな。」
「だが、私は白泉であることを、なかったことにはしない。それが、この家のためであろうと、この国のためであろうと。私は、私のすべきことをするだけだ。」
その言葉に、健丞は何も言えなかった。
ただ――
この人の孤独は、あまりにも深すぎる。
そう思うことしかできなかった。
---
白泉雅仁は、ただ生きていた。
それは、決して華やかなものではなかった。
白泉家で唯一、宮中での地位を保ち続けながら、その地位を守るための行動以外、何もできない。
ただ、そこにいる。
それだけだった。
かつて憎んでいた景正が切腹して、一年が経つ。
そのはずなのに――
「景正が生きていたら、今の私を見て何と言うだろうか。」
そんなことを考えるようになっていた。
雅仁の献身は、もはや人々の憐れを誘うものとなっていた。
宮廷において、彼はひとつの悲劇の象徴となりつつあった。
「……殿。」
赤松健丞が、ふと漏らした。
「もう、少し……お体を労わってください。」
「労わる?」
雅仁は、扇を軽く広げ、微笑む。
「白泉雅仁として生きることが、私にとっての労わりだよ。」
「……。」
健丞は、それ以上何も言えなかった。
今や、雅仁の姿は「儚き獅子」のようだった。
彼は、確かにそこにいる。
しかし、かつてのような艶やかさは薄れ、痩せた姿は、どこか幻想的ですらあった。
その姿が、今上帝や花京信忠だけでなく、多くの人々の興味を引いた。
「美しく、そして哀れなものほど、人の心を惹きつける。」
それは、雅仁自身が誰よりも理解していた。
そんな中、緒方洪庵が京都に赴いた。
二条別邸・数寄屋書院。
襖を開けると、ほのかに香の匂いが漂う。
雅仁は、静かに座し、緒方洪庵を迎えた。
「久方ぶりでございます、緒方殿。」
「ええ、権大納言殿。」
緒方は、雅仁の痩せた姿を見つめ、静かに息を吐いた。
かつてこの男は、宮廷でもひときわ 華やかだった。
今も美しさは変わらない――が、その身体はあまりにも細くなっていた。
「お顔の色がすぐれませんな。」
「公務に励んでいるまでのこと。」
「公務のために、ご自身を損なわれては本末転倒ですぞ。」
緒方は、少し厳しい口調で言った。
「殿は、学問所にもっと積極的に関わってもよろしいのではありませんか?」
「……学問所に、ですか?」
「ええ。」
緒方は盃を置き、まっすぐ雅仁を見た。
「時代が変わろうとも、知識や教養はその価値を変えません。」
「それを生き甲斐にしても良いのではありませんか?」
雅仁は、ゆっくりと目を細めた。
「……生き甲斐。」
「何も、家のためにだけ生きる必要はないでしょう。学問を通じて、この国に貢献することもできるはず。」
その言葉に、雅仁は微かに笑った。
「ふむ……興味深い話だ。」
緒方洪庵の言葉は、雅仁の心に、かすかな希望の光を灯した。
自分のすべきことは、まだある。
この国のために。
そう思えたのは、久しぶりのことだった。
***
それから雅仁は、ますます熱心に蘭学を学ぶようになった。
しかし、医学そのものよりも、国家を病と見立てる「治学」に興味を持ち始める。
ある日、書院で緒方と議論を交わした。
「種痘を広めるべきです。」
緒方が主張する。
「種痘は、天然痘の被害を防ぐために必要不可欠なものです。」
「ふむ。」
雅仁は、扇を軽く回しながら言った。
「では、国家にとっての種痘とは、何でしょう?」
「……?」
「私は、異国との付き合い方を考えています。」
緒方は、思わず息を呑んだ。
「殿は……国家における病を、異国との関わり方だと?」
「ええ。」
雅仁は、ゆっくりと盃を傾ける。
「病を防ぐには、異物をどう取り込むかが重要です。」
「異国の文化や知識を、どこまで受け入れ、どこまで制限するか。」
「それは、まるで種痘のようなものではありませんか?」
緒方は、目を見開いた。
この発想の柔軟さ――
「殿の柔軟さは、殿が庶子という周縁の存在だからこそかもしれません。」
「……ほう。」
「ご自身が、朝廷の中心でありながら、決して中心にはなれない。その立場があるからこそ、外からの視点を持ち、物事を違う角度から見ることができる。それは、ある意味、国家の在り方を考えるのに適した立場では?」
雅仁は、微かに微笑んだ。
「……私は、そういう運命にあるのでしょう。」
「では、その運命を活かすのも、また殿のお役目ですな。」
緒方洪庵は、雅仁に盃を差し出した。
「異物を拒むのではなく、異物をどう取り込むか。」
「それを考えるのは、もはや医者ではなく、政の道を行く者の役割かもしれませんな。」
雅仁は、盃を受け取り、静かに飲み干した。
---
「父上、緒方洪庵殿をお連れしました。」
二条別邸の奥、政行の寝所。
扇の間を抜けた先に、病床につく白泉政行の姿があった。
かつて関白として朝廷を取り仕切った男の身体は、見る影もなく痩せ衰えていた。
「……緒方殿、であったな。」
低く掠れた声が、静かに響く。
「はじめまして。」
緒方洪庵は、畳の上に膝をつき、深く頭を下げた。
「殿下のご体調をお察し申し上げます。」
政行は、弱々しく微笑む。
「我が子が、そなたを信頼しているようだな。」
「光栄の至り。」
「では……診てくれるか?」
「もちろんでございます。」
緒方は、ゆっくりと手を伸ばし、政行の脈を取った。
――細い。弱い。
これは……長くは持たぬ。
緒方は、一瞬だけ雅仁を見た。
雅仁も、その視線に気づいた。
彼の顔色は変わらなかったが、その瞳の奥で、何かが揺らいだのを緒方は見た。
「父上を、失うかもしれない。」
――その現実が、ひたひたと迫っているのだ。
「……どうだ?」
政行の問いに、緒方は微かに息を吐き、慎重に言葉を選んだ。
「少しでも気力を回復するよう、薬を調合いたします。ですが、お体を労わらねばなりません。」
「ふむ……。」
政行は、かすかに笑う。
「もう、私の役目は終わったのだ。」
「そんなことは……!」
雅仁が口を開く。
だが、その言葉は、政行の微笑みで遮られた。
「そなたが、ここまでよくやってくれた。私の見えぬところで、どれほどの重荷を背負ったか。」
「……父上。」
政行の手が、震えながらも雅仁の手を取った。
「白泉を……守ってくれ。」
雅仁は、強く唇を噛んだ。
父はもう、自分を支えることはできない。
そして、兄の政宏も復帰は見込めない。
「私が、守らねば。」
だが、そのために何をすべきなのか。
---
あくる夜、花京信忠からの使いが訪れた。
「関白殿より、雅仁様を花京本邸へお招きしたいとのこと。」
「……今か。」
雅仁は、静かに盃を置いた。
政行の病状が明らかになった今、花京信忠が何もせぬはずがない。
「行ってまいります。」
健丞が、すかさず口を開く。
「一人では危険です。」
「大丈夫だ。」
「……しかし。」
「お前は、私のために動く時まで待て。」
健丞の目が揺らいだ。
しかし、雅仁の意志が変わることはない。
「……かしこまりました。」
健丞が下がるのを見届け、雅仁は静かに花京本邸へと向かった。
---
御所最南の邸宅――花京本邸。
広間に通された雅仁を、花京信忠はゆったりとした姿勢で迎えた。
「ようこそ、雅仁殿。」
「ご招待、痛み入ります。」
「いや、なに……。」
信忠は、盃を持ち上げる。
「白泉の行く末を、そなたと語らねばならぬと思ったまで。」
「……白泉の行く末、とは。」
「――政宏殿の還俗を。」
雅仁の指先が、微かに震えた。
「兄上の……還俗。」
「政行殿が、もう長くはない。そなた一人で白泉を支えるのは、さすがに酷ではないか?」
信忠は、ゆるりと盃を回した。
「還俗を認め、関白の座を政宏殿に約束しよう。」
「……兄上を、次の関白に?」
「ええ。」
「それが叶えば、白泉家の復権は確実だ。」
「……条件は?」
信忠の唇が、わずかに吊り上がった。
「――そなたが、私の養子となることだ。」
雅仁は、息を呑んだ。
「……養子?」
「そうだ。」
「ご嫡子の忠敬様がいらっしゃるではありませんか。」
「忠敬はまだ三つ。私は、そなたがほしいのだよ。」
花京信忠が、静かに盃を置いた。
「政宏殿が還俗し、関白になれば、白泉家は復権する。」
「そなたは、それを望んでいるのだろう?」
雅仁は、口を閉ざした。
望んでいる。
白泉を救うためなら、どんなことでもするつもりだった。
だが――
「これは、政治ではないでしょう。」
「ふふ。」
信忠は、ゆっくりと笑った。
「そうだな。これは私の私欲だ。」
「……。」
「そなたの美しさと才を、私は捨て置くことができぬ。そなたを、私のものにしたい。」
静寂が落ちる。
盃の中の酒が、ゆらゆらと揺れた。
「……答えは?」
雅仁は、目を閉じた。
「私が、養子となれば……兄上の還俗と、関白の座は約束されるのですね?」
「ええ。」
雅仁は、微かに唇を噛んだ。
白泉を守るために、この身を差し出すのか?
それとも――
「……。」
「答えは急がない。」
そう言って、雅仁はその夜、二条別邸に返された。
それは、一見寛大なようでいて、逃れられぬ猶予だった。
―― 花京信忠の求めからは、逃げられない。
ただ、決断の刻が先送りにされたに過ぎないのだ。
夜気が冷たい。
雅仁を乗せた牛車が二条別邸の門をくぐると、待っていたのは、赤松健丞だった。
屋敷の灯が、静かに彼の影を長く伸ばしている。
「……殿。」
声は、低く押し殺されていた。
「お戻りを……。」
健丞の言葉が途中で止まる。
雅仁の表情を見た瞬間、何かを察したのだろう。
「……。」
雅仁は、何も言わない。
言葉にすれば、すべてが決まってしまうから。
ただ、彼の心の中では、すでに覚悟が決まっていた。
「……話せませんか。」
健丞の声が、かすかに震える。
「殿……一体、花京殿と何を話されたのですか?」
雅仁は、目を伏せたまま、扇をゆるりと広げる。
答えは、言葉にする必要はない。
健丞が知りたがることも、彼がどんな反応をするかも、すべて分かっている。
だからこそ――
「……話すことなど、何もないよ。」
雅仁は、そう静かに言った。
まるで、決して破れぬ薄氷を纏うように。
健丞は、息を呑んだ。
「……何もない、とは。」
「何もない、ということだ。」
「ならば、なぜ……そんな顔をされているのですか。」
健丞は、一歩近づいた。
「殿、私は――」
「――健丞。」
雅仁は、そっと扇を閉じた。
「お前の役目は、まだ来ていない。だが、もうすぐだろう。」
「……!」
「それが、白泉家を守るための道なのだから。」
沈黙。
張り詰めた、重い沈黙。
健丞は、拳を握った。
「……本当に、それでいいのですか。それが、殿の選ぶ道なのですか。」
雅仁は、目を伏せる。
そして、そっと微笑んだ。
「……私に、他の道があるのなら、教えてくれ。お前が、それを示してくれるのならば。」
---
花京信忠の動きは、意外にも早かった。
公武合体の機運が高まり、幕府と朝廷の折衝が続く中で、
白泉政宏は、ついに宥免され、謹慎を解かれた。
「政宏様の還俗が命じられました。」
その知らせが届いたとき、雅仁は、ただ静かに扇を閉じた。
「……そうか。」
健丞が、じっと主の横顔を見つめる。
「これで、白泉家は……救われたのだろうな。」
還俗を命じられ、宮中への復帰を許された政宏。
彼は不服だった。
自らの意思ではなく、あくまで「公武合体の機運」による結果。
そして、それを実現させたのは――
雅仁の尽力にほかならなかった。
「雅仁、お前を招待しよう。」
これまで、白泉本邸には決して呼ばれなかった雅仁に、
初めて、兄・政宏が声をかけた。
その言葉に、屋敷の者たちは驚きを隠せなかった。
「……本邸に?」
「父上の枕元で、話をしよう。」
雅仁は、一瞬、わずかに目を見開いた。
そして、扇をゆるりと広げる。
「……かしこまりました。」
彼は、ただ、そう答えた。
白泉本邸。
かつて雅仁が追い出された場所。
しかし、今、彼はその邸に招かれ、病床の父・政行の枕元にいた。
「……。」
政行は、あまりに痩せていた。
まるで、薄氷の上に横たわるかのように、儚げな姿。
しかし、その瞳には、しっかりとした光が宿っていた。
政宏は、政行の側に座し、雅仁を見た。
「……お前は、よくやった。」
「……兄上?」
「正直、私はお前が気に食わなかった。生まれのことも、才能のことも。何よりも、私の知らぬところで、白泉家のために動いていたことが。」
雅仁は、静かに扇を閉じた。
「兄上……。」
「だが、今、こうして父上の枕元で並んでいる……それは、お前の尽力あってのことだ。」
政宏は、少し目を伏せ、低く言った。
「私の代わりに、お前が白泉を支えていたことを……認めよう。」
政行は、目を細めた。
「お前たちが、こうして語らう日が来るとはな……。」
「父上……。」
「雅仁。」
政行は、痩せた手をわずかに持ち上げ、雅仁の手を取る。
「そなたを……白泉家の子として、誇りに思う。」
「……。」
その言葉が、雅仁の胸に深く刻まれる。
兄が認めた。
父が、誇りに思うと言ってくれた。
これほどの喜びが、他にあろうか。
しかし――
「この結果は、私が身を売ったものだ。」
雅仁は、ただ黙って扇を仰ぐ。
誰にも、それを悟られてはならない。
白泉家を守るために、自らを差し出したことなど。
政宏の還俗も、復帰も、すべては自分が花京信忠に養子となることと引き換えに得たもの。
父の病床に並び立ち、兄からの称賛を受ける今、
それを語るわけにはいかない。
「……兄上。」
雅仁は、微かに微笑んだ。
「私は、ただ白泉を守りたかっただけです。それだけですよ。」
政宏は、鼻を鳴らしながらも、頷いた。
「ならば、これからも支えてもらうぞ。」
「もちろん。」
その答えの裏にある「真実」を、誰も知らない。
ただ、雅仁だけが、その痛みを知っていた。
---
「岩倉具視を、兄上に紹介したいと思います。」
雅仁はそう口にした。
政宏は、扇を手に取りながら、ゆっくりと雅仁を見た。
「……あの男か。」
「ええ。」
「しかし、岩倉は羽林家とはいえ、所詮は下級公家だぞ?」
「その通りです。」
雅仁は微笑み、茶を口に含む。
「ですが、彼は実に才気がある。何より、帝の学問所構想で大きく協力してくれた人物です。」
「なるほどな……。」
政宏は、盃を手にしたまま、しばし黙考した。
「とはいえ、ただの下級公家にすぎん男を、どう朝廷の中に押し上げるつもりだ?」
「歌です。」
雅仁は、さらりと言った。
「兄上は和歌を嗜まれますね。」
「……?」
「岩倉を、歌道の弟子としてお迎えください。」
政宏が、低く笑った。
「なるほどな……。」
「歌は、ただの教養ではありません。」
雅仁は、扇を軽く仰ぎながら言う。
「宮中において、和歌は発言権そのもの。兄上のもとで和歌を学ぶことで、岩倉は単なる下級公家ではなく、朝廷首脳と渡り合う者へと変わるでしょう。」
「面白い。」
政宏は、盃を置いた。
「ならば、その男を迎えてやろう。」
「兄上が賢明な判断をくださると信じておりました。」
雅仁は、ゆるりと微笑んだ。
政宏は、薄く笑いながら言う。
「だが、お前がなぜそんなに急ぐ?」
「……?」
「まるで、自分が近い将来、動けなくなるとでも言いたげだ。」
雅仁の指が、一瞬だけ止まった。
扇を開き、ゆっくりと微笑む。
「私は、白泉を守るためにできることをするだけです。」
「……。」
政宏は、じっと弟の表情を見つめた。
雅仁の目は、いつも通り穏やかだった。
しかし、その奥には、何かを隠している影が見えた。
それが何なのか、政宏には分からない。
だが――
「お前が考えることなら、間違いはないのだろう。」
「兄上の期待を裏切ることはいたしませんよ。」
政宏は、岩倉具視を歌道の弟子として迎えた。
それは、下級公家にすぎなかった岩倉が、やがて朝廷の中枢に発言力を持つ大きな転機となる。
そして雅仁は、静かにその様子を見届けながら、心の中で呟いた。
―― 私が花京の養子となり、白泉のために動けなくなる日が来る。
―― だからこそ、その時までに、白泉を守る者を育てなければならない。
―― それが、私の最後の仕事だ。
彼は、未来を託し始めていた。
---
「政宏様が、国事御用掛に補任されたそうです。」
二条別邸の静かな書院で、赤松健丞が雅仁に報せた。
「……そうか。」
雅仁は、扇を軽く回しながら、静かに頷いた。
国事御用掛――新設の職務であり、幕府と朝廷の関係を調整する重要な立場。
白泉政宏は、ついに朝政に復帰し、朝廷における白泉家の権威は、再び確立されることとなった。
「これで、白泉家の未来は安泰ですね。」
健丞の言葉に、雅仁は微かに微笑んだ。
「そうであれば、何よりだ。」
そして、彼は盃をゆるりと持ち上げた。
「――父上も、安心して逝けるだろう。」
そう呟いたのは、ほんの独り言だった。
だが、それは予言のように、確かなものだった。
しばらくして、白泉政行が逝去した。
朝廷を長年にわたり支え続けた、かつての関白。
その死の報は、宮廷にもたらされると同時に、白泉家に大きな影を落とした。
今際の際――
病に侵された政行は、雅仁の手を取った。
その手は、痩せ細り、冷たくなっていた。
「雅仁……。」
「……父上。」
「許してくれ。」
その言葉に、雅仁の指先が僅かに震えた。
「……何を、でしょうか。」
政行は、静かに目を閉じた。
「……私は、お前を本邸に迎えられなかった。日の当たる道を歩ませてやることができなかった。……私のために、お前が何を犠牲にしたかも知らぬまま、こうして死んでいく。」
「……。」
雅仁は、何も言わなかった。
彼が払った犠牲――
花京信忠への身売り
そのことを政行が知るはずもない。
だが、それでも政行は、ただただ、許しを乞うた。
「お前が、白泉を守ってくれた。そのために……どれほどのものを捨てたのか、私には分からぬ。だが、許してくれ……。」
雅仁は、静かに父の手を握った。
「何も、許すことなどありません。私は、白泉のために生きてきた。それが、私の望みでした。」
政行の目尻に、一筋の涙が浮かんだ。
そして、次の瞬間――
「……父上。」
偉大なる白泉政行は、そのまま静かに息を引き取った。
雅仁は、動かなかった。
彼の手は、政行の手を握ったまま。
だが、彼の瞳には、何の光も映っていなかった。
白泉雅仁の、最後の後ろ盾が失われた瞬間だった。
---
しかし――
政行の死があったとしても、政宏はもはや雅仁を白泉家から追い出すつもりはなかった。
それどころか、兄弟の間には、今までになかった奇妙な空気が生まれていた。
「これからは、共に白泉家を支えていこう。」
政宏の言葉は、確かに雅仁の耳に届いた。
「兄上……。」
「私も、お前を認めているのだからな。」
もはや、かつてのような冷淡な視線ではなかった。
白泉家を、二人で盛り立てる。
そんな時代が訪れようとしていた。
しかし――
「……。」
雅仁は、静かに扇を閉じた。
兄がどれほど信頼を寄せようと、白泉家がどれほど盛り返そうと――
彼は、やがて花京信忠の養子として引き取られる運命にあった。
今、この幸せに浸るわけにはいかない。
「……ええ。共に、白泉を支えましょう。」
雅仁は、微笑んだ。
しかし、その笑みの裏にある真実を、兄は知らない。
――この幸せは、長くは続かない。
それを知るのは、雅仁ただ一人だった。
---
政宏―― 白泉家の嫡男が、ついに関白に就任する。
それは、かつての関白である父・政行の死を乗り越え、白泉家が再び栄華を取り戻す瞬間でもあった。
しかし、同じ月――
雅仁は、花京家の養子になることを正式に受け入れた。
それは、白泉家にとっての「ひとつの時代の終焉」を意味していた。
そして、その決断をもって、雅仁は 「白泉雅仁」であることを捨てる決意を固めたのだった。
雅仁は、自ら白泉本邸屋敷を訪れた。
関白就任の祝賀の席が続く中で、その訪問はあまりにも唐突なものだった。
政宏は、関白としての公務の合間に迎えた。
「……どういうことだ?」
雅仁の姿を見た瞬間、政宏の顔に浮かんだのは、困惑だった。
「お前がここに来るとは、思わなかった。」
「最後に、ご挨拶をと思いまして。」
広間の奥、雅仁は静かに座す。
その横には、まだ幼い政宏の息子――6歳になる政路が座っていた。
「――私は、花京家の養子となります。」
その言葉に、政宏の表情が強張る。
「……何を言っている。」
「私は、白泉の者ではなくなります。」
「白泉を、守ると言っていたではないか。」
「守りました。兄上を、関白にしました。白泉は、未来を繋いでいくことでしょう。」
雅仁の視線は、静かに政路へと向けられた。
幼いその子が、白泉家の未来を象徴するように、そこにいる。
白泉は、続いていく。
そして、その流れの中に――
もはや、自分は存在しない。
政宏の拳が、膝の上でわずかに震えた。
「……お前は、本当にそれでいいのか。」
雅仁は、静かに扇を開く。
「私は、白泉ではなくなります。花京家の人間となるのです。それが、私が選んだ道です。」
政宏は、雅仁をまっすぐ見つめた。
「それは、お前が本当に望んだことなのか?」
雅仁は、微笑んだ。
「――ええ。望みましたとも。」
扇が、静かに閉じられる。
その音だけが、静寂の中に響いた。
「では……お元気で、兄上。」
雅仁は、ゆるりと頭を下げた。
そして、振り返ることなく、白泉本邸の廊下を歩き出す。
長い廊下を抜け、屋敷の門が見えたとき、
彼は最後に、ほんの一度だけ振り返った。
広間では、政宏がじっと座ったまま、動かない。
その横では、幼い政路が無邪気に何かを話しかけていた。
白泉家は、これからも続いていく。
しかし、そこに自分の居場所は、もはやない。
雅仁は、扇をゆっくりと開いた。
「――これで、いい。」
自らに言い聞かせるように、そう呟くと、
彼は再び歩き出した。
白泉家を去り、花京家の人間となるために。
---
白泉本邸を辞し、二条別邸へと向かう牛車。
その中には、雅仁と赤松健丞が乗っていた。
かつて、雅仁がはぐらかした花京信忠との取引。
それが、これだったのだ。
年の瀬までに、雅仁は二条別邸を出ねばならない。
そして、白泉家本邸屋敷に程近い、京都御苑の最南にある花京本邸に入る。
そこから先は、白泉雅仁ではなく、花京雅仁として生きる。
いや――
「生きるという表現は、正しいのか?」
健丞は、牛車の中で黙ったまま、じっと雅仁を見つめていた。
雅仁自身が、今から歩む道をどう思っているのか。
彼が口にしないからこそ、健丞にはわかる。
これは、生きる道ではなく、ただ「捧げる」道なのだ。
「……。」
雅仁は、牛車の窓から、京の街をぼんやりと見つめていた。
やがて、ぽつりと呟く。
「養子とは名ばかりだ。」
健丞は、目を伏せた。
その言葉は、どこか淡々としていた。
まるで、それがもう決定事項であるかのように。
「名義上は養子でも……私が何のためにあの邸に入るかは、分かるだろう?」
「……。」
「私は、実質的に花京殿の妻になるのだ。」
健丞の指が、拳を握る。
爪が食い込むほどに、強く。
「……そのことを、あなたがどう思っているのか。」
健丞の声は、低かった。
雅仁は、そっと目を閉じる。
そして、ゆっくりと、健丞の方を向いた。
牛車の揺れに合わせ、灯籠のかすかな光が二人の顔を照らす。
「健丞。」
「……はい。」
「覚えているね。」
健丞は、息を呑んだ。
一瞬、何かを言おうとした。
しかし、雅仁の瞳を見た瞬間、何も言えなくなった。
そこには、哀しみもなかった。
怒りも、絶望も。
ただ、静かな諦めと、最後の願いがあった。
「……。」
牛車が揺れる。
冬の京の冷たい空気の中で、雅仁は、そっと健丞の手を取った。
「これが最後だ。」
「……殿。」
「この身が、完全に人のものになる前に。せめて、お前のものになりたい。」
夜が、深まる。
牛車は、ただ静かに、二条別邸へと向かっていた。
その中で、二人はただ、互いの存在を確かめるように、静かに寄り添っていた――。
---
牛車が、二条別邸の門をくぐる。
その静寂の中、21歳になった香散見丸が、手際よく指示を出していた。
「文机は荷に詰めましたか?」
「はい、香散見様。」
「殿のお召し物は?」
「この荷に。」
「ならば、あとは……」
彼は振り返り、屋敷の主である雅仁を見た。
「今夜は、誰も書院に入れるな。」
雅仁は、静かに言った。
香散見丸は、一つ結びの黒髪を揺らしながら、凛とした声音で答える。
「かしこまりました。」
その姿は、まるで牛若丸のようだった。
「では、私は見張りに立ちます。」
「頼む。」
雅仁の言葉に、香散見丸は深く頭を下げ、すぐに動いた。
この夜、数寄屋書院の扉を開ける者は、誰一人としていない。
健丞が、雅仁の手を取った。
「……行きましょう。」
その声は、どこか震えていた。
雅仁は、微笑んだ。
「お前になら、任せられる。」
「……。」
二人は、数寄屋書院へと足を踏み入れる。
戸が静かに閉ざされる音が響いた。
外界の喧騒は、すべて断たれる。
そこにはただ、揺れる蝋燭の火だけが灯っていた。
赤松健丞は、知っている。
生まれた時から共にいた。
雅仁が、どれほど美しく成長したかを。
幼い頃、無邪気に笑っていたあの少年が、
いつしか宮廷で誰よりも愛され、誰よりも美しい存在となった。
それを、誰よりも近くで見てきた。
だからこそ、
「……すべてを、見て。」
雅仁がそう言った時、
健丞は、彼を抱きしめるしかなかった。
蝋燭の灯火が揺れる。
白い肌が浮かび上がる。
手が、ゆっくりと解く。
布が、静かに滑り落ちる。
雅仁は、ただ健丞を見つめる。
「……最後の夜だ。」
「……。」
「だから、お前のものにしてくれ。」
健丞の唇が、雅仁の唇を塞いだ。
熱を持った指が、雅仁の髪を梳く。
幾度も、幾度も、触れ、求め、確かめる。
ただ、二人の間にあるものを。
ただ、確かに存在しているものを。
この夜が、終わることを知っているから。
だから、
すべてを委ねる。
そして、
すべてを受け入れる。
蝋燭の火が揺れ、二人の影を映し続けていた。
二条別邸で過ごす、
最後の夜が、静かに更けていく。
---
密やかで、しめやかな夜が過ぎた。
そして――
口惜しい朝が、来た。
木戸を叩く音が、静かに響く。
「殿は、もう少し寝かせておいてほしい。」
健丞が、戸口に立っていた。
昨夜の余韻を、まだ纏っているような気配。
「湯屋の準備を。」
香散見丸は、一瞬だけ視線を向けた。
そこには、雪のように白い肌を晒した雅仁の姿があった。
ところどころに、紅葉のような痕が散っている。
香散見丸は、何も言わなかった。
ただ、深く頭を下げ、静かに命を受ける。
「かしこまりました。」
そして、すぐに足を運び、湯屋の支度を整えた。
---
やがて、湯浴みを終えた雅仁が、静かに現れた。
白い肌を覆うように、直衣を纏っている。
身を包む布の向こうに、昨夜の記憶が確かに残っていることを、健丞は知っていた。
香散見丸もまた、気づいていた。
しかし、誰も何も言わない。
この朝が、何を意味するかを知っているから。
健丞が、そっと手を差し出す。
「……行きましょう。」
雅仁は、微笑みもせず、その手を取った。
「ああ。」
花京本邸へ伴うことを許されたのは、
白泉家から、二人だけだった。
雅仁は、健丞と香散見丸を連れ、二条別邸を去る。
それ以外の従臣は、もう一緒には行けない。
だが、政宏が、彼らを大切に扱うことを約束していた。
それゆえ、雅仁は、静かに彼らと別れを告げる。
しかし、従臣たちは、涙を堪えきれなかった。
「……殿。」
「どうか、お元気で……。」
言葉を詰まらせる者もいた。
なぜか、今生の別れになるような気がしたからだ。
「……。」
雅仁は、ただ微笑んだ。
「心配はいらない。」
まるで、何でもないことのように。
まるで、これが当然の運命であるかのように。
しかし――
誰よりも、その言葉を信じていなかったのは、雅仁自身だった。
朝日が差し込む中、牛車がゆっくりと動き出す。
二条別邸の門が閉ざされた瞬間、
雅仁は、過ぎ去った日々に、そっと背を向けた。
もう、戻ることはないと知りながら――。
---
牛車の中。
ゆったりと揺れる空間の中で、健丞は雅仁をそっと抱きしめていた。
「……昨日の言葉を、覚えているか?」
雅仁の声は、驚くほど静かだった。
まるで、これから語ることがすでに決まった未来であるかのように。
健丞は、腕の中の身体を、少しだけ強く抱き寄せた。
「忘れるはずがありません。」
昨夜――
甘やかな、しかしどこか儚い夜の中で、
雅仁は初めて、自らの終わりについて語った。
「花京家に、自分の次代が確定したら――私の役目は、終わる。その時……自らの命を絶つつもりだ。」
健丞は、雅仁の言葉を聞いた時、何も言えなかった。
だが、それが雅仁の決意であることは、理解できた。
白泉家のために、宮廷のために、雅仁は生き抜いてきた。
しかし、花京家に入るということは、「自分という存在」を捨てるということだった。
「役目」を果たしたら、もうこの世には不要になる。
それが、雅仁の考えだった。
「……あなたは、それでいいのですか。」
昨夜、健丞はそう問うた。
雅仁は、ただ微笑んだ。
「私の生は、もうとっくに終わっている。最後の義務を果たすだけだ。」
そして、静かに言った。
「お前は、私を見届けてくれるか?」
健丞の答えは、決まっていた。
「……殿。」
牛車の中、彼は雅仁を見つめる。
「私は、あなたを見届けます。そして…共に逝きましょう。」
雅仁は、穏やかに目を閉じる。
「……ありがとう。」
それは、感謝の言葉のようでいて、
どこか、まるで子供の頃のような、甘えた声音だった。
健丞は、強く抱きしめる。
「……あなたを、独りにはしません。」
牛車は、静かに進む。
二人の運命を、静かに運んでいく。
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花京本邸の門が静かに開かれた。
白泉雅仁は、もはやここにいない。
彼は 「花京雅仁」となるために、この門をくぐる。
そこには、新たな「父」――花京信忠が待っていた。
「……よく来たな。」
その声音は、優しさを装いながらも、どこか獲物を絡め取るような響きを帯びていた。
信忠は、ゆっくりと手を伸ばす。
雅仁の手を取る、その指先は、父が息子を迎えるものではなかった。
それは、まるで――
男が、女を迎え入れるかのような手つきだった。
「……。」
雅仁は、何も言わない。
ただ、静かにその手を受ける。
信忠の指が、雅仁の細い手を絡め取る。
そのまま、腰へと回される手。
まるで「所有を示す印」であるかのような動作。
その場には、まだ幼い 5歳の忠敬もいた。
ゆくゆくは雅仁の養子となる、その子の前でも、信忠の態度は変わらなかった。
「……この手を、珠御前として見ているのか。」
それとも――
「雅仁として見ているのか。」
どちらにせよ、花京信忠の目に映るのは「息子」ではなかった。
雅仁は、すでに「息子」ではない。
彼は、「側室」なのだ。
健丞が、後ろで拳を握る気配が伝わってくる。
しかし、雅仁は何も言わなかった。
言葉を紡げば、全てが崩れる気がした。
だから、ただ、
静かに、静かに、
自らを絡め取る「花京の檻」へと足を踏み入れる。
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禁中、朝奏の間。
そこに、白泉政宏の姿があった。
彼は 今関白として、堂々とその座についていた。
しかし、視線の先には、かつての弟――
花京雅仁の姿があった。
彼は、朝奏に加わる殿上人であることに変わりはない。
だが、必ず前関白の花京信忠とともに禁中へ上がっていた。
それは、明らかに不自然だった。
「……。」
政宏は、ふと拳を握った。
「これが、代償か……。」
彼は、自分が何を犠牲にして関白の座にいるのかを知った。
いや――
知っていた。
だが、見たくはなかった。
白泉政宏の傍らには、岩倉具視がいた。
彼もまた、何も言えなかった。
「……かつての白泉雅仁は、もういない。」
あれほどの知性、あれほどの才気。
かつて学問所を設立し、朝廷の改革を夢見た彼の姿は、もうどこにもない。
そこにいるのは――
ただの、美しき人形。
花京雅仁。
それが、かつて「白泉雅仁」と呼ばれた男の今の姿だった。
禁中を出る牛車の中――
花京信忠の手が、雅仁の膝に触れる。
そして、それがゆっくりと滑り、衣の上から優しく撫でる。
「……。」
雅仁は、何も言わなかった。
ただ、黙って、それを受け止める。
まるで、それが当然であるかのように。
まるで、何も感じていないかのように。
花京信忠の愛撫は、禁中を出る牛車の中で始まり、そして――
花京雅仁は、ただ黙って、それに従うだけだった。
---
健丞にとって、それは地獄のような日々だった。
日夜を問わず、屋敷に響く雅仁の嬌声。
花京信忠の手によって壊されていく姿を、見続けなければならなかった。
かつての主。
かつての知性と気品を備えた雅仁。
だが、今はもう――
「……。」
健丞は、何も言えなかった。
言葉を発せば、自らの心が壊れる気がした。
ただ、見届けることが彼の役目だった。
雅仁が、自らの終わりに向かうその瞬間まで。
そして、その日々にも――
終わりが来る。
---
春が近づき、梅の花が咲き始めた。
その日、雅仁は花京家の正式な後継者となることが宣言された。
新たな名は――
「忠雅」
花京忠雅。
白泉雅仁は、ついに完全に消えた。
この日、忠敬との親子お披露目が行われた。
宴席が開かれ、賓客たちは笑い、祝福の声が響く。
しかし――
その全ては、終焉への幕開けに過ぎなかった。
夜が更け、静寂が広がる頃。
梅の木の下。
そこに、忠雅の姿があった。
彼は、ゆっくりと小刀を抜いた。
「……これで、終わる。」
彼の瞳には、何の迷いもなかった。
もう、役目は果たした。
もう、生きる理由はない。
あの夜、誓ったとおり。
「健丞……。」
主の名を呼ぶと、健丞がそっと歩み寄る。
「……殿。」
「いや、もう……私は殿ではない。」
「ならば――雅仁様。」
「……最後の頼みだ。」
雅仁――いや、忠雅は微かに微笑んだ。
「私の最期を、見届けてくれ。」
健丞は、深く頷いた。
そして、忠雅は――
小刀を、自らの首へと滑らせる。
静かに、静かに。
白い肌が、赤に染まる。
紅梅の花びらが、風に舞った。
夜の闇に、忠雅は崩れ落ちる。
その瞬間、健丞もまた、刀を抜いた。
「――主の後を、追うのみ。」
切腹。
血が広がる。
忠雅のそばに、静かに倒れる。
梅の花が、二人の遺体を覆うように舞い散る。
朝になり、それを見つけたのは――
香散見丸だった。
彼は、梅の名前を持つ者。
「……まるで、心中物のようだ。」
静かに、そう呟く。
だが、これは現実。
二人は、本当に死んだのだ。
白泉雅仁は、花京忠雅となり、そして散った。
赤松健丞は、彼を見届け、共に逝った。
風が吹き、梅の花が舞う。
彼らの死を、静かに悼むように――。
---
[エピローグ]
――この花の存在は、歴史には残っていない。
花京家は、その後、この養子縁組も、忠雅という存在すら、家系図から消してしまった。
白泉家もまた、花京家に養子に出した時点で、雅仁という存在を消している。
だから――
この人は、歴史の中に存在しない。
しかし、それでも私は、この記録を残す。
かつて、香散見丸と呼ばれた私が。
「京洛の花」――
ほんの僅かの間、
この世に、誰よりも美しく咲いたこの人の存在を、
私は、決して忘れることはできない。
忠雅様。
――いいえ、雅仁様。
あなたは、確かに存在した。
あなたは、この国の未来のために、己のすべてを捧げた。
その証は、誰も語らぬかもしれない。
しかし、私は知っている。
だから、私はここに記す。
――あなたは、この国を救ったのだから。
この翌年、ペルリが来航し、
朝廷と幕府の関係が大きく動いた。
関白家と岩倉具視を結びつけ、学習院と蘭学を繋いだ。
それが、この国の命運を変えた。
だからこそ、
私は、ここに記すのだ。
京洛の花として、儚く、しかし確かに咲いたこの人のことを。
歴史の中に名を残さずとも、
あなたがいたという事実を――
ここに、刻みつけるために。
――香散見丸、回顧録より。
【終わり】