僕が描くことをやめた理由を、君はまだ知らない。
小さい頃から、絵を描くことが好きだった。
いや、好きなんてものじゃない。僕にとって、絵を描くことは日常の一部で、半ば本能的で生理的な欲求だった。
お昼になればご飯を食べたくなるように。夜になれば眠りたくなるように。きれいなもの、つまらないもの、珍しいもの、ありふれたもの。心惹かれたものなら時と場所に関係なく、なんでも描きたくなった。
家の中では絵の具セットを手放さず、お出掛けする時も色鉛筆とスケッチブックを必ず持ち歩いた。生まれて初めて連れて行ってもらった遊園地では、アトラクションを横目に茂みに落ちていたハンバーガーの包み紙を描いていた。
「晃一、どうせ描くなら、ジェットコースターとか描いたらどうだ? それかメリーゴーランドとか」
「ううん、これがいい」
「そうか……ところで、なんで包み紙の隙間に恐竜の化石が描かれてるんだ?」
「……この方が、おもしろいから?」
「まあ、面白いけど……」
「あなた、きっとこうちゃんには、私達とは違う世界が見えているのよ。ん~誰に似たのかしらね?」
そんな、描くことに憑りつかれていたと言っても過言ではない僕を、両親は温かく見守ってくれた。
「よく描けたわね~。こうちゃん天才かも。あ、この写真SNSに上げてもいい? ママ友さん達に自慢しちゃお」
ある日、お母さんがそんな軽い気持ちでSNSに上げた僕の絵は、どこをどうしてそこまで届いたのか、アメリカのとある世界的ミュージシャンの目に留まった。
『Amazing! I would pay $10,000 for this painting!!』
そんな文言と一緒に引用されたお母さんの投稿は瞬く間に世界中に拡散され、僕の絵は一躍世界の注目の的になった。
当時の僕には1万ドルと言われてもピンと来なかったが、「大体100万円くらいよ」とお母さんに言われれば、それが大金だということは分かった。
(変わった人がいるなぁ)
どこか他人事のように、そんな風に思った。でも、すぐに他人事ではいられなくなった。
よく分からないアメリカ人の、ただのジョークだと思っていたのに……例のミュージシャンから、「今度出すCDのジャケットを描いて欲しい」という英語の依頼がDMで飛んできたのだ。
「どどどどうしよう。え、どうすればいいの? 詐欺? お、お父さ~ん!」
お母さんはすっかりあたふたしてしまっていたが、僕は事の重大さがよく分からず……
「曲を聴いて絵を描くの? 面白そう!」
ただ、音楽を聴いてそのイメージを絵にするという新しい試みに、純粋に心惹かれた。そんな僕を見て、両親もだいぶ迷ったようだが、最終的に依頼を受けることにした。
送られてきた曲も当然全編英語で、まだ8歳だった僕には内容は全く分からなかったけど……なぜか、強烈に心惹かれたのは覚えてる。そして、頭の中に広がったイメージを、学校の絵の具セットで思うままに描き殴ったことも。
人生初のキャンバスに、自分の中のイメージと湧き上がる衝動を叩きつけたような絵。それを、依頼主のミュージシャンはすごく気に入ったらしく、なんとわざわざ日本まで絵を取りに来た。それが7年だか8年だかぶりの来日とかで、どこで嗅ぎつけたのかメディアが食いついて……僕がそのミュージシャンに絵を渡した瞬間の写真は、「8歳の天才少年画家現る!!」とかいうセンセーショナルな文言と共に、大々的に報道された。
「アハハ……8歳で、お父さんより有名になっちゃったな……」
「それよりお父さん、このお金どうしよう……こうちゃんの個展でも開く?」
「いや、落ち着け。う~ん……まあ、晃一が成人してから……いや、社会人になってから渡せばいいんじゃないか?」
一躍時の人になってしまった僕だけれど、生活自体は特にそれからも変わることはなかった。きっとそれは両親が、変わらないように守ってくれていたのだろうけど。いや、両親だけじゃない。
「ねぇねぇ貫田くん! サインしてくれない?」
「おっ、今度は何描いてるんだよ貫田ぁ」
ニュースになってからというもの、学校に行くと知らない生徒にいっぱい声を掛けられるようになった。けれど、その度に僕を守ってくれる親友がいた。
「オラオラお前ら、コウのげーじゅつのジャマすんな~」
シュン。僕の幼馴染みで親友。
シュンは、自分は全然絵に興味はないのに、絵ばかり描いて浮いてた僕のそばにいてくれた。僕が有名になってしまってからも態度を変えず、興味本位で近寄ってくる同級生から守ってくれた。
「お~い、コウ! いつまで描いてんだよ~。次、移動教室だぞ」
「あ、うん。今行く!」
一人でいるとすぐに道からずれてしまう僕を、いつだってシュンが導いてくれた。
シュンに導かれ、両親に守られていたから、僕は心のままに絵を描くことが出来た。
(さぁ、次は何を描こう)
もっと、いろんなものが描きたい。もっと、いろんなものを見たい。今までに見たことがないものが、僕がまだ描いたことのないものが、この世には溢れている。
僕は、これからもずっと…………
ずっと、絵を描き続けるのだと。
疑いもしなかった。
あの日までは。
夕暮れの通学路。車のエンジン音。鈍い衝突音と、激しい衝撃音。
毎日そうしているように、その日もシュンと一緒に下校している最中のことだった。
一台の青い車が……歩道を歩く僕の目の前に、猛スピードで突っ込んできた。
いつものように、僕の前を歩いていたシュンは。
突っ込んできた車に撥ね飛ばされ、ゴツッという重い音を立てて僕のすぐ真横に落下した。
アスファルトの上に横たわる、不自然に折れ曲がったシュンの体。
その下からじわじわと、赤黒い、血が……
(あ────)
それからのことは、記憶が穴抜けのように断片的だ。
救急車、病院、家、お葬式。
断片的なシーンが、ぽつぽつと頭の中に残っている。そしてそれらには共通して、強烈な後悔と罪悪感が付きまとっていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
両親も、シュンの両親も、ずっと謝り続けている僕を心配して「あなたは悪くない」と何度も言ってくれた。
けれど、僕は知っている。僕だけが、知っている。
シュンが死んだのは、僕のせいだということを。
そして……シュンを喪ったその日を最後に、僕は絵を描くことをやめた。
◇
「お~い貫田ぁ、こっち終わったぞ~……って、お前掃除やらずに何やってんだよ」
「あっ、ごめん。アリ見てた……」
「はぁ~? お前、小学生じゃないんだからよ……」
「ごめんごめん、掃除はちゃんとやったから」
呆れと苛立ちが入り混じった表情で「お前気付いたらボーッとしてるのなんなの?」とぼやくクラスメートに謝りながら、僕は箒とチリトリを持ってそちらに向かう。
あの事故から6年が経って、僕は高校1年生になっていた。元は天才少年なんて呼ばれてても、絵を描くことをやめた今では普通の高校生だ。周りの生徒も、僕がかつて天才少年画家なんて呼ばれていたことなど誰も知らない。
「今日どこ行く~?」
「カラオケでいんじゃね?」
「おっ、いいね~」
楽しげに話し合うクラスメートを横目に、僕は1人で教室を出る。
シュンを喪って以来、友達と呼べる相手は出来なかったけれど、かと言って特にいじめられているわけでもない。どこにでもいる、少しぼっち気味の地味な男子高校生。それが、今の僕だった。
「ただいま」
地味な男子高校生らしく、僕は帰宅部で趣味らしい趣味もないので、特に寄り道をすることもなく真っ直ぐ家に帰る。
「おかえりなさい、こうちゃん」
「うん」
お母さんにあいさつをし、洗面所で手洗いうがいをすると、2階にある自室へと向かう。あの日以来、すっかり絵を描かなくなってしまった僕を、一時期両親はひどく心配した。
……いや、正確には絵を描かなくなったことではなく、そうなるほどにあの事故が……そしてシュンの死が、僕にとってショックだったということを心配したのだろう。その証拠に、両親は決して、僕に無理に絵を描かせようとはしなかった。
『お母さんは、こうちゃんが元気でいることが一番大事よ?』
『ああ、もちろんだ。絵は、また描きたくなったら描けばいい』
両親は、我が子が天才少年からどこにでもいる平凡な少年になってしまっても、全然気にしていない様子だった。そのおかげで、僕もあの事故のショックを乗り越え、こうして何気ない平穏な日々を送れている。
……いや、送れていた。この日までは。
ピンポ~ン♪
玄関のチャイムが鳴る音。それから少ししてお母さんが玄関に向かう物音がして、何やら少女のものらしき高い声が漏れ聞こえてきた。
「ん……?」
学校の女生徒が来たのだろうか。だが、僕には全く心当たりがない。大体同性の友達すらいないのに、異性の友達なんているはずもなく。学校に何か大事な忘れ物をした覚えもないし、そもそも僕の家の住所を知ってる生徒自体がいないはずで。
(う~ん?)
部屋着に着替えながら首を傾げていると、少女の声が家の中に移動して、程なくお母さんの呼ぶ声が聞こえてきた。
『こうちゃ~ん、お客さんよ~』
「?? うん、分かった~」
いよいよ困惑しながら、僕は急いで着替えを終えると、階下に向かう。そうしてリビングに繋がる扉を開け、食卓に座る人物を見て思わず目を見開いた。
まず目に入ったのは、肩までのゆるくカールの掛かったツインテールにされた、鮮やかな金髪。肌は大理石のようにきめ細かく真っ白で、長い睫毛に縁取られた瞳は快晴の夏空を思わせる水色。その瞳が真っ直ぐにこちらを向いて、僕は思わず言葉を失った。
(わ────)
吸い込まれそうな瞳。畏れすら感じるほどに美しく整った容姿。間違いなく、僕が今まで出会った中で一番美しい人間だった。
その桜色の唇がゆっくりと開き、歯切れのよい澄んだ声が響く。
「あなたが、貫田晃一くん?」
「え、あ、はい」
どう考えても初対面な少女に名前を呼ばれ、少し戸惑う。少女は席を立ち、そんな僕に数歩近付くと、自身の胸に手を当てて言った。
「はじめまして、私はセーラ・レイエス・常和。栢堂女学園の一年生よ」
告げられたのは、この辺りで有名な女子高の名前。言われてみれば、その上品なワンピースタイプの制服には見覚えがある。だが、それよりも……
(脚、長っがいなぁ)
僕は、間近に見る彼女の造形美に驚いていた。
顔は小さく背は高く、中でも脚の脚の長さは際立っていて、腰の位置が驚くほど高い。胸も大きく……すごく大きく、その完成された美貌も相まって、言われなければ同級生とは気付かないだろう。
(すごい……)
思わず胸中で感嘆の声を漏らしてしまうが、続く彼女の言葉でハッと我に返った。
「あなたにはこう言った方が分かりやすいかしら。7年前にあなたの絵を買った、エベレット・レイエスの娘よ」
それは、あまり人の名前を覚えない僕でも、しっかりと記憶している名前だった。
7年前に対面した、人懐こく陽気だったアメリカ人のおじさんの顔が脳裏に浮かび……
「ん? 娘?」
思わず、そんな疑問が口から漏れてしまった。なぜなら、あの超有名歌手のおじさんは、当時既に50代後半だったはずで……対して目の前の少女は、本人曰く僕と同級生ということで。
(娘というより、孫の年齢では?)
そんな僕の考えを読んだのか、少女はその秀麗な眉をピクリと動かすと、肩を竦めて言った。
「私のママ、パパの4人目の奥さんだから」
「あ……なるほど」
どうやらあのアメリカのスターは、ずいぶんと恋多き人生を送っているらしい。
なんだか初対面の相手のちょっと複雑な家庭が垣間見えてしまい、僕は少し気まずい思いで俯く。
しかし、目の前の少女は「ま、そんなことは置いておいて」とだけ言って話を流すと、真剣な瞳で僕を見つめた。
「単刀直入に言うわ。今日は、あなたにお願いがあってやって来たの」
「お願い?」
そう言われて、真っ先に思い浮かんだのは彼女の父親。あの、僕の絵をいたく気に入ってくれていたアメリカのスター。
(あの人が、また僕に何か依頼を……? でも、なんでわざわざ娘さんが……?)
そんな風に考える僕だったが、次に彼女の口から語られたのは、全く予想外のお願いだった。
「あなたには、私のデビューシングルのジャケットを描いて欲しいの」
「……はい?」
◇
「あの日パパが持ってきたあなたの絵を見て、衝撃を受けたわ。そしてそれを描いたのが私と同い年の男の子だって聞いて、驚愕した。私と同い年で、こんなにも心揺さぶる作品を生み出せる人がいるなんて、って」
「はぁ……」
対面の席で熱っぽく語る少女──常和さんの言葉を、僕は半ば呆然と聞いていた。
心揺さぶる作品……そう言われても、僕にはさっぱりピンと来ない。
たしかに、彼女の父親は僕の絵を絶賛してくれたし、メディアでも天才少年と祭り上げられた。
でも、いい絵かどうかなんて個人の好みによるところが大きいし、絵の価値なんて誰かが高値を付けた瞬間に高くなるものだ。
事実を見誤ってはいけない。僕の絵を評価したのは、両親を除けばエベレット・レイエスというただ1人の人間だけ。その彼がたまたま世界的に有名なアーティストだったから、メディアはそれに追随した。実際にすごい絵かどうかはさておいて、話題性があったから飛びついた。ただそれだけのこと。
(別に絵のプロのお墨付きをもらったわけじゃないし、そもそも僕の絵は独学だしなぁ。実際、シュンには『よく分かんね』って言われてたし、学校の先生には『またおかしな絵を描いて』って怒られてたし……それで心揺さぶるとか言われても、何が何やら)
目の前の少女は、本当に僕の絵の話をしているのだろうか。あるいはこれは、盛大なドッキリか何かなのではないか。
そんな僕の内心を余所に、常和さんの熱い語りは続く。
「一時期は、私も絵を描こうとしたのよ? でも、まず線を真っ直ぐ描けないし、円なんて尚更だし……それに、そもそも私絵が好きじゃないって気付いて、やめちゃった。でも歌声には自信があったから、歌で人々を感動させようと思ったの」
「そうなんだ」
初めて見た時は、その隙の無い美貌からどこか冷たい印象を受けたが……思ったより、情熱的な人なのかもしれない。
今ひとつ現実感を持てず、どこか他人事のようにそんなことを考えながら、僕は相槌を打つ。
「それで、ずっとネット上に曲を上げてたんだけど、この前音楽会社から声が掛かって……まだ発表前だから名前は言えないんだけど、かなり大手の会社よ? それで、デビュー曲の準備をすることになって、ふとジャケットのことを考えたらあなたの絵が思い浮かんで、『あれだ!』って思って……でも、名前と小さい頃の顔しか分からなかったから捜すのにすごく苦労して、結局……」
そこまで言って、常和さんはハッとした表情を浮かべると、何かを誤魔化すように軽く咳払い。そして、少し気まずそうに表情を改めると、ピンと背筋を伸ばして言った。
「と、そういうわけで……あなたには、私のデビューシングルのジャケットを描いて欲しいの。曲はこれから作るから、今すぐってわけではないのだけど」
「はぁ」
結局、どうやって見付け出したんだろうか。すごく気になったが、常和さんはその疑問を差し挟む隙を与えまいとするかのように畳み掛ける。
「もちろん、報酬は払うわ。1枚いくらじゃなく、印税で払おうじゃない」
「印税」
なんだか、すごく夢のある単語が聞こえた。
(つまり、彼女の曲が売れる度に僕にもチャリンチャリンお金が入るってこと? すげー、夢の印税生活じゃん)
話がデカい上にうま過ぎて、いよいよ現実感がなくなってきた。
「詳しい条件は音楽会社とかとも相談する必要があるけど……まず、あなたの気持ちが聞きたいの」
「へっ」
絶世の美少女に、どこか緊張した面持ちで「気持ちが聞きたい」とか言われて、僕は現実に引き戻される。
「どう? 私のために、絵を描いてくれる?」
「……」
無意識に、ピクリと右手が反応した。が、その直後にズクンとした痛みと共に、脳裏にあの日の光景がフラッシュバックする。
ギュッと目をつむり、今なお鮮明に思い出せる歪んだシュンの姿と、胸の中で渦巻く強烈な後悔を抑え込む。
そうして、僕は目を開くとはっきり言った。
「ごめん、僕はもう、絵を描くことをやめたんだ」
「……へ?」
間の抜けた表情を浮かべる常和さんを見て、僕はぼんやりと「思ったより表情豊かな人だなぁ」と考えていた。
◇
「私、諦めないから! あなたが描く気になるまで、何度だってお願いに来るわ!」
なぜ描くことをやめたのかという詰問をのらりくらりと躱し続けた結果、彼女はキッと僕を睨みながら、そう宣言して席を立った。どうやら、寮の門限があるらしい。
「本日は突然お訪ねしてしまって、申し訳ございませんでした」
「いえいえ、手土産まで頂いてしまって……気にせずに、またいつでも来てくださいね?」
「ありがとうございます」
先程とは打って変わって、お母さんに礼儀正しくお辞儀をしながら帰って行く常和さん。
「……全寮制のお嬢様学校って、大変そうだなぁ」
その背を見送り、この期に及んで他人事のようにそう呟く。が、そんな僕の現実逃避を咎めるように、彼女は翌日も家にやって来た。
「とにかく、私の曲を聴いて! ほらこれ!」
「分かったよ……えっと、時は去る……?」
「あ、それはアーティスト名」
「え、これ名前なの?」
差し出されたスマホに映っているのは有名な動画投稿サイトなのだが、その動画のアイコンを見れば、時計を抱えたクマのぬいぐるみのイラストが載っている。どうやら、これがネット上での常和さんのアバターらしい。
「……先に種明かしをしておくけど、本名をもじっただけよ。サルは、セーラの愛称ね」
「ああ、常和サルで、時は去る……」
「これも先に言っておくけど、日本ではその愛称で呼ばせてないし、呼ばせないわよ。動物の猿みたいだし……呼ぶならサリーで」
「いや、呼ばないけど……」
「あ、そ。まあとにかく、聴いてみて」
「うん……」
正直、聴いたら断りにくくなる気がして、あまり気乗りはしなかった。けれど彼女の勢いに圧され、僕はやむなく差し出されたスマホを受け取ると、曲を再生した。
「ッ!」
最初のワンフレーズで、ガッと心を掴まれた。
どこまでも澄み切っているのに、不思議と力強い耳に残る歌声。低音も高音も、変調の激しい部分も、危なげなく歌いこなす確かな歌唱力。メロディーはポップでキャッチ―ながら、歌詞は日常のささやかな幸せをテーマにした等身大の歌詞で、スッと胸に入り込む。
(うわぁ……)
僕の中で、イメージが広がっていく。7年前と同じ……いや、それ以上に心惹かれる感覚。知らず、何かを求めるように、右手の指を擦り合わせていた。
「どう?」
「……すごく、いい曲だと思う」
「んっ、そう? ありがとう」
素直に褒められるとは思っていなかったのか、少し驚いた様子を見せてから、常和さんは笑った。
実際、すごくいい曲だと思う。再生数も素人の曲とは思えないほど伸びているし、コメント欄も曲を絶賛するコメントで溢れ返っている。
(いや、そんな他人の評価とかは関係なく……)
僕の直感が……本能が、認めていた。叫んでいた。
「どう? 描きたくなった?」
が、この問い掛けには、頷くことは出来なかった。
「……言ったでしょ? 僕はもう絵はやめたんだって」
あえて素っ気なく言ってスマホを返すと、常和さんは不満そうにむっと眉根を寄せて……
「なら、この曲は!?」
「えっ」
全然挫けなかった。
そうして結局、彼女がこれまでネット上で発表した十一曲全てを聴かされてしまった。
「で、どう?」
「いや、だから──」
「そう、分かったわ」
皆まで言わせずに頷く彼女に、僕はようやく観念したかと思ったのだが……
「あなたが描きたくなるようなデビュー曲を、作ればいいってことね!」
「……本当に挫けないね」
「それじゃ、そろそろ門限だから今日のところは帰るわ」
「あ、うん」
引き際鮮やかにリビングを出て行く彼女を、僕は半ば呆気にとられた形で見送り……
「ん? 今日のところは?」
その去り際の言葉が、意識に引っ掛かった。
(まさか、明日も来る気なのか……?)
……結論から言うと、そのまさかだった。本人曰く、
「あなたが絵を描きたくなるような歌を作るためには、あなたを知る必要があるわ」
だ、そうだ。
そしてその言葉通り、それから彼女は毎日のように家を訪ねてくるようになった。
「あの、こちら駅前の有名なプリンで……」
「あらあら、本当にいいのよ? 毎回手土産を用意していたら大変でしょう?」
女同士だからなのか、あるいは中学入学以来友達を家に連れて来たことなんてない僕を、訪ねてくれる同年代の人間が嬉しかったのか……お母さんは常和さんをすっかり気に入ってしまったらしく、1週間も経つ頃には完全に常和さんの味方になって、勝手に僕の部屋に上げるようにまでなった。
もちろん僕にだって、女子を部屋に上げることに対する、年相応の羞恥心や抵抗感はあったし、毎日のように絵を描くようプレッシャーを掛けられることへの、煩わしさや鬱陶しさもあった。
けれど、常和さんは宣言通り僕を知るためか、世間話や雑談をメインにするようになっていて、その嫌な気持ちも徐々に薄れていった。……微妙に、外堀を埋められている気がしないでもなかったけれど。
「……この漫画、読んでもいい?」
「え、いいけど……って、なんで24巻から?」
「漫画アプリで無料で読めるのが23巻までだったのよ」
「あぁ……」
「クレジットカードがないから電子書籍は買いにくいし、うちの寮はゲームや漫画の持ち込み禁止だから、続きが読みたくても読めないのよね」
「え、今の時代ゲームや漫画禁止の寮とかあるの?」
「数年前まではスマホの使用も禁止だったみたいよ? 流石にいろいろと支障をきたすってことで、そこは緩和されたらしいけど」
「へぇ~また前時代的な……ん? 歌手としてデビューするのは学校的にOKなの?」
「……」
「常和さん?」
そんなこんなで、少しずつ交流を深め……3週間が経過した頃には、一緒に試験勉強をするくらいには仲良くなっていた。
けれど、常和さんが曲作りのことを忘れているかといえば、全くそんなことはなく。
「あ、いいメロディー浮かんだ」
何気ない日常の中、彼女はふとした拍子に歌詞やメロディーを思い付き、スマホにメモをする。その時と場所を問わない様はかつての僕自身を彷彿とさせて、僕は思わず問い掛けてしまった。
「そんなに、歌を作るのって楽しい?」
もちろんだと、そんな返答が来るだろうと思っていたが……彼女の返答は予想外のものだった。
「楽しいとか楽しくないとかじゃないわ。そうせずにはいられないだけ」
予想外で、それでいてすごく納得できるものだった。
「私は、日常の中で出会った喜びや感動を、余さず歌にしたい。ただ日記をつけるだけじゃ、出来事を記録することは出来ても、心の動きや、感情の色は表現できないでしょ? だから、歌にするの。何年先に聴いても、その時の感情を色鮮やかに思い出せるように」
「……」
「あなたは、どうなの?」
「え?」
「あなたは、どうして絵を描いていたの?」
どうして? 考えたこともなかった。
(あぁ、でも……)
きっと、そうなのだろう。そう考え、僕は素直に言った。
「常和さんと同じだよ。描かずにはいられなかったんだ」
「……なら、どうしてやめてしまったの?」
その問いを投げられるのは、なんだか久しぶりな気がした。
「理由は同じだよ、描くのをやめたから、やめたんだ」
「なに、それ」
はぐらかされたと思ったのか、常和さんは不満そうな顔をする。そして、ふと何かに気付いた顔をして、
「でも、今のフレーズはちょっといいわね。メモっておくわ」
そう言ってスマホを操作する常和さんに、僕は曖昧に笑った。 けれど、胸の奥では。
(そうせずにはいられない、か……)
彼女の言葉に、姿に。ずっと眠らせていた何かが、強く鼓動するのを感じていた。
◇
それからも、平日休日問わず、部屋で一緒に勉強をしたり、合間で雑談をしたり一緒にゲームをしたり。やっぱり時々常和さんが曲を作ったり。
(なんか、もう完全に友達だなぁ……まさか、小学校以来の友達がこんな形で出来るとは)
一緒にパーティーゲームをしながら、しみじみとそんなことを考える。
「あぁっ! CPUに抜かれた!」
「あ、ホントだ。いつの間に」
「このっ、×ね! ×ね!」
「常和さんって、ゲームの最中急に口悪くなるよね……」
とても、ネット上で歌姫とか言われているとは思えない汚い言葉を叫ぶ常和さん。初めて会った時の、凛と隙のないお嬢様然とした姿はどこへやら。
こうして仲良くなってみれば、常和さんは割と表情豊かで親しみやすい、普通の女の子だった。
(それに、このグイグイ来られるんだけど嫌じゃない感じ、シュンを思い出すんだよな……)
すっかり常和さんを気に入っているお母さんの様子も見ると、あるいは常和さんは人たらしの才能があるのかもしれない。
こんな若干社会不適合気味な僕でも仲良くなれるんだから、さぞ学校でも友達が多いのだろう……と思ったが、それがそうでもないのだとか。
なんでも、同学年のボス的な女子生徒に目を付けられ、学校では孤立しているのだそうだ。もっとも、陰湿ないじめや嫌がらせを受けているかと言えばそうではなく。そういったものを正面から叩き潰し、ボス女子に堂々「気に入らないんなら、正面から一対一でやりなさいよ」と啖呵を切った結果、周囲から畏怖の目で見られた上での孤立らしい。
「寮の相部屋の子もなんやかんや理由を付けて出て行ったおかげで、1人で作曲活動に集中できるんだから別にいいけどね」
そう言って鼻を鳴らす彼女はすごくかっこよくて、彼女を遠巻きにする同級生たちの気持ちが少し分かってしまった。
(もともと気が強そうだとは思ってたけど、実際は気が強いというより男前なんだよなぁ)
何しろ、ネット上で顔含む自身のプロフィールを一切明かしていないのも、「容姿や親のことを武器にしたくない」という信念からだそう。それで、実際にCDデビューまで漕ぎつけているんだからすごいとしか言いようがない。
そんなわけで、この頃には最初の常和さんのお願いも半ば忘れ、普通に友好を育んでいたのだが……1学期の期末試験も終わり、2人でささやかな打ち上げをしていた時に、ふと常和さんが言った。
「……曲がね、出来たの」
「曲……って、デビューシングルの?」
一拍置いてそう問うと、常和さんは少し伏し目がちに頷く。
「それは……おめでとう」
らしくもなく、どこか迷いを抱えた様子の彼女にそう祝福すると、常和さんはチラリと僕を見てから躊躇いがちに言った。
「私……聞いたの。その、あなたのお母さんに」
「……何を?」
薄々察しながらも問うと、常和さんはますます言いにくそうにしながら続けた。
「あなたが……絵を描くのをやめたのは、大切なお友達が、事故で亡くなったのが原因だって」
「……」
覚悟はしていた。だが、他人の口からそのことに言及されるとやはり強い後悔と罪悪感が蘇ってきて、僕はきゅっと唇を引き結んだ。
「私も……同じ、創作者の1人として、創作においてメンタルの影響が大きいことは、理解してるつもり。だから、あなたが事故のショックで絵を描けなくなったっていうのも、無理もないことだと思う」
実のところ常和さんの言葉は、微妙に的を外れていた。僕が絵を描かなくなったことに関して、シュンが目の前で事故死したことは、間接的な原因ではあれど直接的な原因ではない。
しかし、それは僕以外の誰も……両親やシュンの家族ですらも知らないこと。僕自身、誰にも伝える気はないこと。
だから、僕はただ黙って常和さんの話に耳を傾けた。
「そんなことは知らずに、あなたに無遠慮に絵を描くように求めて……私、すごく無神経なことをしてたと思う。知らなかったとはいえ……本当にごめんなさい」
心底申し訳なさそうに、常和さんは深々と頭を下げる。それに対して、僕は言葉に迷い、視線を彷徨わせながら考え考え言った。
「それは……謝ってもらえたなら、もういいよ。それだけ、僕の絵を気に入ってくれてたってことだと、思うし?」
なんとも歯切れが悪い言い方をする僕に、常和さんは頭を上げると、少し陰のある笑みを浮かべて言った。
「私のパパとママね。離婚してるの。私が2歳の時に」
「え──」
「それから、私はママと日本で暮らしてたんだけど……そのせいで、英語があまり分からなくて。月に1回パパと会う時も、どう接すればいいか分からなかったの」
それは、初めて聞く常和さんの生い立ち。当時を懐かしむように、常和さんはスッと視線を上に向けて語る。
「でもね……パパがあなたの絵を持って家にやって来た時、初めてパパと気持ちが通じ合った気がしたの。言葉が上手く伝わらなくても……感動を共有することで、人と人は繋がれるんだって思った。それがすごく嬉しくて、もっとパパとお話がしたくて……それで、歌を始めたの」
そこで常和さんは真っ直ぐに僕を見つめると、ハッとするほどに綺麗な笑みを浮かべた。
「だから、あなたは私の恩人なの。あなたの絵に、私は救われた。夢をもらった。だから……私の大事なデビューシングルのジャケットは、どうしてもあなたに描いて欲しかったの」
そこまで言ってから、常和さんはふっと目を伏せる。
「でも、これは私の勝手な都合よね。ごめんなさい、あなたにプレッシャーを掛けるつもりはなかったの」
「いや、そんな……」
曖昧な言葉しか返せない僕を見て、常和さんは切なげに眉を下げると、鞄から1本のUSBメモリを取り出し、テーブルに置いた。
「これ、出来た曲……よかったら聴いてみて。もう、絵のことはいいから……ただ、あなたに聴いて欲しい」
「……ありがとう」
「ううん、私、もう帰るね?」
「あ、送るよ」
「いいの、大丈夫。それじゃあ」
それだけ告げると 常和さんは足早に部屋を出て行った。
「……」
なんとなく。本当になんとなく、常和さんはもうこの家には来ない気がした。
何かを断ち切るように閉じたドアと、残されたUSBメモリを順に見つめ、僕は先程の常和さんの話を反芻する。
(僕の絵が……誰かの救いになってたのか)
初めて会った日、常和さんの熱い語りを聞いた時には、全然実感が持てなかった。けれど、具体的なエピソードを聞いて……ようやくその事実が、脳に染み込んできていた。
(僕の絵に、そんな力が……?)
ずっと、ただ描きたいから描いていただけだった。初めて依頼を受けて描いた時も、別に依頼人のためとか、報酬のためとか、そんな考えは全くなくて。
ただ己の本能に、衝動に従って描いていただけ。
褒められたいとか、評価されたいとかいう意識すらなかったから、周りからどんな賛辞を受けてもどこか他人事だった。どこまでも自分のために描いていたから、自分の都合で勝手にやめることが出来た。
(でも、今は……)
初めて、誰かのために描きたいと感じていた。
僕のことを恩人だと言ってくれた、あの友人のために。絵を、描きたい。
「……」
心臓の鼓動が高鳴る。右手の指が、何かを求めるように擦り合わされる。
「とりあえず、聴いてみるだけだから……」
誰にともなく言い訳をしながら、僕はパソコンを立ち上げると、常和さんが置いていったUSBメモリを読み込んだ。
表示された音楽ファイルをダブルクリックし、再生する。タイトルは『あなたを知って』。
──────♪
「……!」
それは、とても綺麗な曲だった。
誰かとひたむきに心を通じ合わせようとする思いが、素直な歌詞と、明るく優しいメロディーに乗って伝わってくる。
「……あぁ」
思わず、感嘆の息が漏れた。
頭の中に、彼女と過ごした短いながらも濃密な時間が蘇ってくる。
そして──僕の中で、ずっと眠らせていたものが弾けた。
机の引き出しの奥からスケッチブックを、ベッドの下から絵の具セットを引っ張り出す。
階下へ水を汲みに行くのももどかしく、鞄の中から水筒を取り出すと、残っていた水を筆洗器へ入れる。
絵筆を握る。右手にビリビリと電撃が走った心地がした。全身を高揚感が包み、自然と口元が笑みを形作るのが分かる。
「……待たせてごめん」
そう呟いて、僕はスケッチブックの上に筆を走らせた。
◇
手が、自分の手じゃないみたいだ。
頭で考えるより先に、手が動く。
ずっと檻に繋がれていた獣が、野に放たれたかのように。
僕の右手は、白い紙の上を縦横無尽に駆け回る。僕はその上に跨り、どこまでも自由な世界に歓声を上げる。
「ハッ、アハハッ!」
そうして、どんどんと出来上がっていく絵をどこか遠くから俯瞰しながら……僕は頭の片隅で、あの日のことを思い出していた。
あの日。
夕暮れの通学路。車のエンジン音。鈍い衝突音と、激しい衝撃音。
車に撥ね飛ばされてグシャリと落下した、不自然に折れ曲がったシュンの体。
その下からじわじわと、赤黒い血が、広がって……
(あ────描きたいな)
真っ先に思ったのが、それだった。
血溜まりに沈む親友への心配でも、色濃く匂う死の気配に対する恐怖でもなく。僕は、どこまでも純粋に。糸の切れた人形のように奇妙に歪んだ親友を、絵に描きたいと思った。
だから……死に瀕した親友の姿に、心を奪われていたから。助けを呼ぶのが、遅れた。
僕がもう少し早く、大声で助けを呼んでいれば、シュンは助かったかもしれない。僕のこの異常な……忌むべき衝動が、シュンを殺した。あぁでも、僕は本当にどうしようもない人間だ。
そこまで分かっていて……自分がシュンを見殺しにしたのだと、分かっていてなお。未だにこの胸に渦巻く後悔は……あの時、シュンを描かなかったことに対する後悔なのだから。
(なんで、描かなかったんだろう。あんなもの、二度と見られないだろうに)
描くべきだった。いや、描かなければならなかったんだ。
周りの目なんて気にせず、ランドセルの中から色鉛筆とスケッチブックを取り出して。己の心に、衝動に、正直に従うべきだった。
でも、そうしなかったから……だから僕は、絵を描くことをやめた。自分の心を、絵描きとしての本能を、裏切ったから。あんな貴重なものを描き逃したのに、他のものを描いても仕方ないと思ったから。
絵を描くことをやめ、自分の異常性を徹底的に隠し、普通の人間になろうとした。
もう、僕を正しい道に導いてくれるシュンはいないから。
自分の足で、みんなと同じ道を歩こうと……そう思った。
(けど、もういい)
もう、無理だ。
僕はもう、みんなと同じ道には戻れない。
だって、こんなにも楽しい。こんなにも心躍っている。この衝動を、僕はもう抑えられない。抑えようとも、思わない。
(なんで今まで、我慢してたんだろう)
結局のところ、僕はこういう生き物なのに。
こんな僕を、両親は一度だって否定しなかったのに。
友人未満の周囲の人間の視線を気にして、普通の人間の振りをして……まったく、馬鹿みたいだ。僕が普通でも異常でも、誰も気に留めやしないのに。むしろ、新しく出来たたった1人の友人は、僕の絵を求めてくれて……いや、それも違う。そんなことはどうでもいい。
結局、僕は免罪符を求めていただけだ。この衝動を解き放つ言い訳が欲しくて、そこにたまたま“友人からのお願い”という理由が転がっていただけ。その証拠に、今僕は純粋に自分のために絵を描いている。
「ア、ハッ、アハハッ!」
自分の描きたいという衝動を、思う存分紙に叩きつける。
僕の中の漠然としたイメージが、形になっていく。輪郭を形成し、色が付き、僕の内に広がる世界が、紙の上に現出する。
「……出来た」
衝動のままに走らせていた手を止め、完成した絵を眺める。その出来栄えに、深く満足して……その絵を引っ張ってスケッチブックから外すと、テーブルの上に放った。
まだ足りない。こんなものじゃ、まだまだ物足りない。
この6年間で描きたいものが山のように溜まっているんだ。今はとにかく、それらを片っ端から描かないと気が済まない。
(さぁ、次は何を描こう)
己の衝動に身を任せて、思うままに絵を描き散らす。僕の頭の中からは、新しい友人のことなどすっかり消え去っていた。
◇
「──んぁ」
狂熱が去って、ふと目を覚ますと日曜日の夕方だった。
「……痛てて」
どうやら、カーペットの上で寝ていた……というか、気絶していたらしい。
「うっわぁ」
改めて室内を見回し、僕は自分で引いてしまった。
文字通り、あちこちに描き散らされた絵、絵、絵。
どうにも記憶が曖昧だが、金曜日の放課後からずっと描き続けていたらしい。
数回トイレに行った時以外、部屋を出た覚えがないのだが、お腹は空いていないので食事はしたらしい。よくよく思い返せば、お母さんがご飯を持って来てくれてた気がする。その時、お父さんと一緒に何かを言っていたようにも思うが、そこはよく覚えていない。
「……描いたなぁ」
部屋に散らばる種々雑多な絵を見回し、その統一性のなさに自分で苦笑する。
ある絵はお祭りの花火。ある絵は虫の死骸を運ぶアリ。ある絵は珍しいジュースのボトル。ある絵は壊れた洗濯ばさみ。どれも記憶がおぼろげなのもあって、随所に金継ぎのように別の絵が交じっている。
「……ん?」
そこでふと、テーブルの上にあるずいぶんと抽象的な絵が目に入り、僕はその絵がなんなのか本気で悩んだ。
「う〜ん?」
そうして10秒近く経ってから、ようやく1人の少女の顔が頭に浮かぶ。
「あ……そうだった」
自分が再び絵を描くきっかけとなった少女のことを2日ぶりに思い出し、僕はスマホを手に取った。どう伝えるべきか少し迷い、結局「絵、描いたよ」とだけ打って送信する。
数秒で既読が付き、「今から行っていい?」という返信が来たので、「うん」とだけ返した。そして、自分の服装を見下ろして気付く。
「あ、お風呂入らないと……」
◇
「……」
「……」
あれから、急いでシャワーを浴びて着替えて、部屋の中に散らばった絵を片付けてザッと掃除をして。なんとかお迎えの態勢を取り繕ったところで、ちょうど常和さんがやって来た。
いつものようにテーブルを挟んで座り、絵を確認する常和さんを少し緊張しながら見守る。
「……すごい」
どれくらい経ったのか、常和さんがぽつりと漏らした。
そして、絵から僕へと視線を移し、華やいだ笑みを浮かべる。
「本当に、ありがとう……やっぱり、あなたは天才だわ」
その笑顔を見て、僕は心から思った。
(ああ、描いてよかった)
けれど、常和さんはすぐにふっと表情を陰らせてしまう。
「でも……よかったの? その、トラウマみたいな……」
気遣わしげにそう問う常和さんに、僕は一瞬なんのことか考えてから、薄く笑って言う。
「大丈夫、ようやく気付いたんだ……結局僕も、描かずにはいられない人間なんだって」
「……そう」
納得したように言いながらも、常和さんは僕の真意を窺うように見てくる。しかしやがて嘘は吐いていないと判断したのか、それとも深入りはしないことに決めたのか、一度深く頷くと表情を改めた。
「それで、その……」
なんだか恥ずかしそうに、視線を逸らしながら常和さんは言う。
「依頼は、これで完了なんだけど……明日からも、また来てもいい? その、報酬の話とかもしないといけないし」
最初の頃の強引さはどこへやら、ずいぶんとしおらしい態度を取る常和さんだったけれど、僕の返答は決まっていた。
「もちろん。僕も会いたい」
「えっ、そ、そう? じゃあ、また来るわね?」
嬉しそうに、それでいてやっぱり恥ずかしそうにそう言うと、常和さんはまた目を逸らす。
「あ……と、これはその、まだ決まったことじゃないんだけど……」
「?」
「デビューってなると、やっぱり学校に隠し通すわけにはいかないし……もしかしたら、夏休み明けくらいに転校することになるかもしれなくて……だから、そのぅ」
ごにょごにょとそこまで言ってから、常和さんは耐えかねたかのようにバッと立ち上がった。
「やっぱりなんでもない! それじゃあ、今日はもう帰るから! 本当にありがとう!」
「え、もう? というか、絵は持って帰らないの?」
「また額縁持って来るからその時に! それじゃ!」
そう言い放って慌ただしくドアへと向かうと、ドアノブに手を掛けたところで少し動きを止め。
「それじゃ……また」
ちょっとだけ振り向いて小さく言い残し、常和さんは部屋を出て行った。
速足で階段を下りていく足音を聞きながら、僕はなんだったのかと疑問に思い……
「まぁいいか、どうでも。それより描こう」
すぐにそう思い直すと、一度しまったスケッチブックと絵の具セットを再度取り出す。描くのは、先程見た常和さんの笑顔。実物がないので、記憶が鮮やかな内に描かなくては。
『やっぱり、あなたは天才だわ』
ふと、その笑顔と共に彼女が言った言葉を思い出す。思い出して、僕は皮肉っぽく呟いた。
「ただの狂人だよ、僕は」
そして、衝動のままに絵筆を走らせた。
僕が描くことをやめた理由を、君はまだ知らない。