1.1 プロローグ ― Ist das groß Imperium heilig?
静寂なる書斎にて、タイプライターの乾いた音だけがリズミカルに鳴り響く。
筆者はこの〈大エルリッヒ帝国〉の英雄たる男であった。祖国を襲った大戦争の悪夢、其れを事細かに綴らんと、齢28の時、彼は一冊の本を書き上げたのだ。
其の本の題は、「男爵のノート」。
この本の筆者は、後に〈大エルリッヒ帝国〉陸軍参謀総長次官となる、「Ludwig Freiherr von Veldenstein(ルートヴィク・フォン・フェルデンシュタイン男爵)」であった。
自らが惨憺たる大戦争を生き延びるに至った経緯を描いた、一種の回想録である。
…しかし男爵は、其の本を書棚へと押し込んでしまった。
彼をそうさせたものが何たるか、今となっては誰も知るよしの無い事だが…。
『男爵のノート』
著、ルートヴィク・フォン=フェルデンシュタイン男爵。
大戦争に参加した全ての大エルリッヒ帝国軍将兵等に捧ぐ…。
秋陽が包む〈南エルリッヒ地方〉の朝方。頬を伝う涼風に一時の心地よさを覚えながら、先程購入したばかりの新聞を広げる。
隣国〈メリキエン=ゴールスカ二重帝国〉の駐在公使による失言が事細かに記されており、下部に小さく書かれていたラジオ放送の番組表や商店の広告と言った類は、遂に裏面へと移動してしまった。
裏面に至っても、移民の引き起こした犯罪行為等…国民の排他的感情を煽る記事が多い。先程言った商店の広告も士官候補生の募集要項に置き換わっていた。
…停留所で路面機関車を待つ傍ら、朝刊に目を通す一人の学生。彼の名は"ミヒャエル"と言う。今日の彼は何処か上機嫌で…何故なら今日は、彼の記念すべき18回の誕生日であるからだ。
その時、聴き慣れた音が耳に入った。路面機関車の警笛である。
クリーム色の車両が白煙を吹き上げながら、急勾配を登って来るのが見える。
路面機関車が到着すると、ポケットから3枚の10クプファーマルク硬貨(日本円にして約30円)を取り出し、足早に路面機関車へ乗車した。
…
…その日の午後。ミヒャエルは彼の友人達と共に、学校の講堂に居た。
彼の目線の先、鼻眼鏡を掛けた大男が映る。
大男の名は"ベルツ"。彼は〈南エルリッヒ王領軍〉の人事局長次官であり、戦意高揚と"士官候補生募集"の宣伝の為、ミヒャエルの通うギムナジウムに来校したのであった。
「〈王国〉は今、若い士官を求めている。
将来有望で頭が柔軟な諸君等である。
…私の様な老けたオッサンでは無い、君たちの様な若者を求めているのだ。」
学生等の口元に笑みが現れた。ミヒャエルも"その学生"の一人である。
ベルツは、この講堂内に漂う"堅苦しい雰囲気"を払拭しようと試みたのだ。
「特に、近頃の世界情勢を顧みれば、我等〈エルリッヒ人〉の優位性は明白たるものだ。特に君達は、之から世界随一の大学に通う事であろうギムナジウムの学生である。
大エルリッヒ帝国に存在する高等教育機関は82校。私が知る限りでは世界一だ。ギムナジウムはその三乗に及び、エルリッヒ人は世界で最も優れた教育を享受出来るのだ。
お隣の野蛮人を見給え!大学に相当する教育機関は存在せず、
未だに彼等が"パンテオン"と呼ぶ空想上の存在に心酔しておる!」
…此処でベルツは声のトーンを下げ「…そして何より恐るべき事は、旧都オストブルクに暮らす同胞達の存在である。」と、重大なる問題提起を行った。
「彼等が不法に有する〈旧都オストブルク〉!そのオストブルクに住むエルリッヒ人の同胞達は、有神論を唱える野蛮人に抑圧されている!之は外交的交渉で収まらぬ問題なのだ!」
ベルツは弁論台を幾度も叩き、「だからこそ王国は!若い指揮官を求むるのだ!」と吠えた。
「私は問わねばならない!君たちに問わねばならぬのだ!
之から国家の中枢を担うであろうギムナジウムの学生諸君にだ!
東方の蛮族"は主張している!
我等が"異端宗教"を崇拝していると…!
彼等の言う"正統なる宗教"、其れによる教化を心待ちにしていると!
かつて我等の脳を蝕んだ宗教を崇拝している主張しているのだ!」
大エルリッヒ帝国は、無神論をナショナル・アイデンティティとして定めていた。
曰く、「〈解明されるべき科学的空白〉を、宗教は埋めてしまう。
其れによって科学の進歩は遅れてしまうのだ。」と。
無神論者たる大エルリッヒ帝国に対し、メリキエン=ゴールスカ二重帝国は多神教の〈魔法教会〉を国教として定めている。
…即ち、両国の対立は必然たるものであった。
「私は問わねばならない!
之より国家の中枢を担うであろう!ギムナジウムの若者達に問わねばならない!」
ベルツは両手を振り上げ、次の様に言った。
「私は諸君らに問う!
"Ist das groß Imperium heilig?!(大帝國は果たして神聖なるものか?!)"」
閉塞的空間の中、雄弁を振るう大男に触発された生徒等は口々に「嘘っぱちだ!」と叫んだ。
「我々は暴虐無知なメリキエン=ゴールスカ政府を征伐する必要がある!
だからこそ!王国は天才的指揮官を求めるのである!
将来有望で若い!王国の天才指揮官!
即ち君達の事である!」
弁士が一歩下がると透かさず学校長が歩み出て、「ベルツ将軍閣下に大きな拍手を!」と言うと、直ぐに講堂は拍手喝采の渦に飲まれた。
それは正に、彼の演説が思春期の学生達に浸透した瞬間であった。
…
実の所、ミヒャエルに士官学校へ入ろう等と言う気は無かった。
彼は帝都にある文系大学を志望しており、何れは修史官となる事を夢見ていた。
700年に及ぶエルリッヒ史の大まかな流れは頭に入っているし、後は詳細を大学で学ぶのみである。
特に300年代中期のオカルティックな感じが好きだ。随分と非科学的な事が相次いだが―――「…ひぇっ!?」
突然、ミヒャエルは誰かに頭を抑え付けられた。
覚えず目を瞑ってしまったが、このイタズラの主を確かめようと振り返ると、そこには先程の"ベルツ"と言う軍人が自分の頭の上に手を伸ばしていて、その直ぐ後ろで学校長が少し驚いた様な顔をしてベルツを見ている。
ベルツが困惑するミヒャエルの肩を叩き、「まるで英雄じゃないか、君!"その傷"は決闘で付いたものかね?」と言った所で、ミヒャエルは自分が将官帽を被っている事に気付いた。
"その傷"とは恐らくミヒャエルの左頬に走る一筋の縫合跡であり、去年の夏に馬術クラブで活動中、馬から落ちた時の傷である。
どうも彼は縫合跡を決闘(決闘で負った傷は男らしさの象徴とされ、学校長の右頬にも一筋の傷が入っている。)で負った傷と勘違いしているらしく、彼は訂正しようとしたが、間髪入れずに学校長が、「えぇ。彼は去年の秋に上級生と決闘を挑みまして、相手は剣術クラブのエースだったのですが、接戦の末に引き分けまで持ち込みましたよ。」と先手を打って、ミヒャエルを追い込んでしまった。
「勇気があるじゃないか君!士官候補生としての素質は十分にある!
如何かね?我が王領軍に来ないか?」
「指揮官になれば将来安泰です、親御様も喜ばれますよ。」
王領、そしてこの〈大帝国〉内における貴族特権を持つ将官と学校長に挟まれ、彼はこの件について考えざるを得なくなった。最も、彼等による挟撃に対しては到底…太刀打ちは不可能である。
…そして、ミヒャエルがやっとの事で発した言葉は、「…考えさせて下さい…。」であった。