16、信じたい言葉
「は? それってどういう」
柊君の言葉を男は飲み込めていないようだった。
その一瞬で、俺はシミュレーションした。
柊君の口を塞ぎ、今の言葉をかき消すあらゆるルートを考えた。
が、ダメだ。
俺の嘘は微妙かつ繊細なバランスの上でなんとか成り立っている。これ以上は無理だと判断した。
なので俺は口を開かず、そこにあった椅子を手に取り振り下ろした。
ゴッ、という音。男が受け身も取らずに床に転がる。
「えっ……」
柊が目を見開いてこちらを見ている。
今にも泣きそうな顔だった。ふざけるな。泣きたいのはこっちだ。
「おえっ……お前本当、うえっ……いい加減にしてくれよ」
目眩がする。
床に転がった男に背を向けるようにしながら俺は座り込んだ。
「俺、血ぃダメなんだよ。とにかく、もう二度とこんなことは――」
「全部バラします」
「……は?」
吐き気が引っ込む。
見上げると、柊の冷ややかな目がそこにあった。
「あなたについていってもヒーローになんてなれない」
吐き気の代わりにため息を飲み込む。
クソ、面倒くさいことになった。また丸め込み直さなくては。
頭を回しながら唇を舐めた、そのときだった。
血がダメなんて甘いこと言ってる場合じゃなかったんだ。
俺はヤツに確実にとどめを刺すべきだった。
しかしもう遅い。頭から血を流した男が、ゆらりと立ち上がってこう言った。
「さっきの話、本当なんだな」
俺は咄嗟に血のついた椅子へ手を伸ばす。
が、それを掴むことはできなかった。
「騙しやがって!」
俺がさっきこの男に一撃食らわせることができたのは、不意打ちだったからだ。
真正面からではまるで歯が立たない。
見えない力に押しつぶされ、俺は地面に叩きつけられた。
「ま、まって。なにか行き違いがあるようで」
魔法ってのは本当に便利だ。
口が閉じる。のり付けされたように動かない。
視界の端に黒いものが入り込んだ。
死神かと思ったが少し違う。悪魔だ。
「一番の武器が塞がれちゃったね。でも右手は空いてる」
文字通り悪魔の囁きだ。
その先は確実に破滅へと続いている。
しかし目の前に迫った死はなんて恐ろしいのだろう。これから逃れるためならなんだって差し出してしまいそうだ。
気付くとペンが握られていた。ご丁寧に契約書まで添えられている。
数秒あればサインできる。
というか、契約しなければ死ぬ。もう詰みだ。
ペンを動かす手が震える。息が詰まるようだ。寒気がする。これが悪魔と契約するということなのか。
いや、違った。
赤いラインが床を走る。見る見る間に複雑な文様を描き、俺たちを取り囲む。
魔法のことなんか分からない。しかしこれは俺が知っている数少ない魔法。
「しまっ――」
男の体を灰色の毛皮が包み、みるみる縮んでいく。
やがて小汚いドブネズミへ姿を変えた男を、その少女は嫌悪することなく抱え上げる。
「し、白雪さん!?」
嬉々として声を上げる柊には目もくれず、彼女はこちらを覗き込んだ。
「どうしたんですか、先生?」
男の攻撃は止んだ。体にのしかかる力は無くなったが、しかし動くことができない。
凄まじい重圧を感じる。
助かった、なんて暢気にいってはいられない。
「先生があの程度の魔法使いに引けを取るなんて」
「いや、犯人が思ったよりもやるヤツで――」
「そんなはずない!」
白雪の手の中でネズミが「ヂュウ!」と声を上げた。
「こんな大した魔法も使えない、くだらない魔法使いなんかに先生が押されるなんてありえません。いくらろくに魔法が使えない人質がいたからって!」
その剣幕に柊が怯んだのが分かった。
しかし彼は正義感を振り絞り果敢に口を開く。
「違うんだよ、白雪さん。こいつは――」
「うるさい」
「えっ」
柊が分かりやすく狼狽えている。せっかく絞り出した正義感が行き場を失ってしまった。
白雪はさらに彼へ詰め寄る。
「いや……そうか。あなたが先生の足を引っ張ったのね」
「は!? いや、そんな――」
白雪は柊から言い訳の機会だけでなく言葉そのものをも奪う気なのかもしれない。
柊の頬をガッと掴む。瞬間、ふさふさした茶色い毛が彼の体を覆い始めた。
このままでは柊君がまた小動物になってしまう。
「待て!」
しかし白雪は大きな目をギョロリと動かし、低い声で言う。
「先生は寝ててください」
恐怖にも色々あるが、これはもっとも原始的なもの。捕食者と相対した時のそれだ。
口はカラカラで、手は震えている。
俺は元来臆病だ。だから嘘ばかり吐いているし、自分が矢面になるようなことはしたくない。
が、今は仕方がない。
「寝ててって言ってるでしょう!」
白雪の言葉を無視する。
腹をくくり、ゆっくりと立ち上がった。
「体調が悪いんでしょう。じゃなきゃありえない。私の好きな先生はそんなんじゃない!」
ヒステリックな声が脳天を突くようだ。
力では当然叶わない。半端な言葉じゃ彼女の怒りを消火することもできないだろう。
だから俺は手の震えを気合いで止めた。背筋を伸ばし、自信にあふれた顔を作る。
白雪の小さな肩に手を置いて。
「君になら俺たちの秘密を教えられる」
「……秘密?」
「な、なに言ってるんですか。そそ、そんっ、そんなのあるわけ」
口を出したのは柊だ。
目が泳ぎまくっている。そのまま眼窩を飛び出して行ってしまいそうだ。
無理もない。
白雪は尊敬する“神通先生”のみっともない姿をよほど見たくなかったのだろう。だからヒステリーを起こして柊に当たっているのだ。ここで真実を――つまり人間であることを告げれば、まず間違いなく俺たちは人の姿を保ってはいられない。
そんな状況で、まさか俺が本当のことを言うとでも思っているのか?
「良いんです柊様。もう隠してはおけません」
「柊……さま?」
白雪がわずかに怪訝な顔をしたのが分かった。
が、それ以上に柊が怪訝な顔をしている。なにか言いたそうにしているのを制止するように声を上げた。
「柊様は凄まじい魔力を持っている、魔法界の宝なんだ」
「は!? せ、せんせ――」
なにか言いかける柊の言葉を遮るように、俺はヤツの肩に腕を回す。ついでにこっそり脇腹に一発食らわせた。
「万に一つでも彼を傷つければ取り返しが付かない! だから迂闊なことができなかったんだ」
白雪はまだ状況を飲み込めていないようだ。
しかし、少なくとも呪いをかける気は失せたらしい。
毛皮の引っ込んだ柊の引きつった顔をまじまじ眺めている。
「でも、柊君はロクな魔法が使えないんじゃ……」
「隠しているだけだ。彼の力は争いの火種にもなる。現に、今回の事件の犯人も柊様の能力を狙っていた」
「ッ……そんな!」
白雪が柊へ向ける視線の種類が変わったのが分かった。
心からの同情と、そして強者への畏怖の目。
そんなものを向けられるのは初めてだったのだろう。柊も、もう口を挟もうとはしない。
平時だったら信じられないような大嘘だ。
しかし立てこもり事件というこの異常な状況下において、教師という自分より上の立場の人間の嘘を見抜くのは難しい。
相手が白雪だったのも幸いだった。この学校に来てまだ日が浅く、柊のこともよく知らない。
そしてなにより、彼女は思い込みが激しい。
「だからこのことは君と先生だけの秘密だ。良いね?」
「ど、どうしてそんな大事なことを私に……?」
「決まってる」
俺は白雪の肩にそっと手を置く。
「君を信頼しているからだよ」
ありえないような嘘だとしても、人は信じたい言葉を信じるものだ。