後編
なんだかよくわからないが、ソフィアは好きな相手にお菓子を作ることになり、大慌てで準備にとりかかった。
何せ、下宿先にはお菓子作りの道具と材料がない。
なるべく安い物を貯めていたお小遣いから切り崩して購入し、少しでも美味しいと思ってもらえるように練習を重ねる。
ブランクもあって、最初は失敗もしたが、徐々に勘を取り戻したのか、それなりに美味しく出来始めた。
しかし、それでもソフィアはまだロランに渡せなていない。
「……不味くはないんだけど」
焼き上げたクッキーをかじりながらソフィアは唸る。
そう、不味くはない。見た目もそこそこ綺麗にできている。
しかし、では人に出せる程の物かというと、判断に迷ってしまう。
それも渡す相手は、好きな男性。
どうせなら美味しいと思われたい。あわよくば、もう一度食べたいと、そう思って欲しかった。
だが、そう思うと自分の作ったお菓子はとてもではないがそのレベルに達していない。
(……やっぱり、お店で買うほうが美味しいなぁ)
素人の付け焼き刃がプロに叶うはずもないが、このままではいつまで経ってもロランにお菓子を渡せない。
いつまでにという期限はないが、だからって長い間待たせれば約束を反故にされたと思われかねないし、何より印象が悪くなる。
それは嫌だ。
ではどうしよう。味はこのままで早くロランに渡すか、もう少し向上を目指すか。
ソフィアにはどちらも選べなかった。だから、馬鹿な物に手を出した。
「……これ、本当に効くかな?」
彼女が持っているのは媚薬。なんでも意中の相手の口に入れれば、どんな相手も自分を好きになるらしい。ちなみに、大通りから外れた小さくて怪しげな商店で購入した。
どう考えても偽物であるが、混迷しているソフィアの思考回路は「もしかしたら本物かもしれない」なんて一縷の望みをかけて使用することを決断したのだ。
とはいえ、味見もせずロランに渡すことは出来ない。
試しにクッキー一枚に媚薬を少しかけて、口に入れてみる。
「……ごほっ」
そしてすぐに吐き出す。
なんということだ、それまで普通に食べられた物が、一瞬で人の食べ物ではなくなってしまった。
「…………はあ」
ソフィアはため息をついて、媚薬を謳った液体を流しに捨てる。
「……どうしよう」
そうしてまた頭を抱えた。問題は振出しに戻ってしまい、どうすれあいいのか途方に暮れる。
そんな時、大家さんが現れた。
「ソフィアさん、少しよろしいですか?」
「あ、ごめんなさい。すぐに片づけますね」
台所を使うのだろうと思ったソフィアが片づけようとすると、大家は「違うのです」と止める。
「実は、今後のことでお話が……」
「? はい」
そうして聞かされた話に、彼女は言葉をなくした。
ここで突然だが、ソフィアの過去についてお話ししよう。
彼女の実父は幼い頃に亡くなり、長い間、母子二人で暮らしていた。仕事に忙しい母はあまり彼女に構ってくれなかったが、それでも親子関係は悪くなかった。少なくとも、ソフィアはそう認識している。
やがて母親は仕事で知り合った男性と再婚したのだが、この時すでにソフィアは10歳。突然現れた男性を家族として無条件に受け入れることは難しい歳になっていた。
相手も最初はソフィアと仲良くなろうとしたが、いつまでも懐かないソフィアに嫌気がさしたのかあまり関りを持たなくなった。義父と一緒にいても息苦しさしか感じなかったソフィアには、むしろありがたいと思ったことを今でも覚えている。
そのうち、二人の間に子供が出来た。
初めて出来た妹の存在に、ソフィアは純粋に喜んだ。そして、すすんで世話をしようとしたのだが、それを義父は嫌がった。
赤ん坊を抱きあげれば、それをすぐ奪い、泣けばソフィアのせいだと怒鳴り、彼女が赤ん坊と同じ部屋にいるだけで顔を顰めるようになった。
だが、ソフィアにとってもっと辛かったことは、母もそれに同調するようになったことだ。
思えば、彼女も大変だったのだろう。自分と夫との冷え切った仲に心労を募らせ、赤ん坊の世話までしなくてはいけない。そんな状況を打破出来ない自分の無力さに打ちのめされたのかもしれない。
けれど結局、彼女は自分の娘を切り捨てることを選んだということに、違いはない。
守られるべき家庭の中で、自分の居場所を失ってしまったソフィアの苦しみは相当の物であった。
出来る限り外で過ごし、家の中では部屋に閉じこもるという生活を送るようになるのも当然だろう。
暴言も暴力もなかったが、愛されることも守られることもなく、自分は歓迎されない存在だと思い知らされる日々。
だから逃げ出そうと思った。
15歳になったソフィアは勇気を出して、遠くにある学校に入学したいと告げた。
両親は怒った。
学校に行くことは許しても、一人暮らしをしたいと言う彼女を我儘だと罵った。
彼らの認識では、ソフィアは家事の手伝いもせず、部屋に閉じこもってばかりで自分のしたいことだけして、さらにお金まで要求する自己中心的な娘となっていたのだ。
今まで面倒を見てきたのにそれを仇で返そうとする恩知らずな少女に彼らは言う。
お金は出す。しかし、もう二度と顔を見せるな、と。
こうして彼女は帰れる家を失ったのだ。
(……どうしよう)
学校の中庭にあるベンチに腰掛けて、ソフィアはぼんやりと空を見上げる。
空には透き通るような青が広がっているのに、彼女の胸にある不安は消えない。
そんなものだから、近づいてくる人影に気づかなかった。
「ソフィアさん? 大丈夫?」
「あ、ロラン君……」
ソフィアは慌てて鞄に入れていたクッキーを取り出すとそれを彼に渡す。
「こ、これ、よかったら」
「ああ、ありがとう。作ってくれたんだね」
「口に合うかどうか、わからないけど」
「いや、すごく美味しそうだよ。大事に食べるから」
ロランの言葉に、ソフィアはこの日初めて笑みを浮かべた。曇り切った胸が少しだけ暖かくなる。
「ところで、さっきすごく深刻そうな顔をしてたけど、何かあったの?」
「え、えっと……その……」
自分の悩みを聞かせていいものか迷ったソフィアだが、ずっと一人で考えて気が滅入っており、少しでも誰かに聞いてもらいたいと思い、口を開く。
「実は私、下宿してるんだけど、そこの大家さんが息子さんたちと暮らすんで、下宿を止めるって言って、それでどうしようかなって」
大家さん曰く、息子は遠くの町で暮らしていて以前から一緒に暮らそうと話していたのだが、なかなかお金が貯まらず実現しなかったらしい。しかし最近、大口の仕事が入り一気に目標金額に達成。
それで、こっちに来て一緒に暮らそうと言ってくれたそうだ。
これだけならソフィアも祝福しただろう。だが、それに伴い、下宿を止めてしまうのであれば話は別だ。
幸い、あと半年の猶予はあり、今すぐどうこうなる問題ではないが、それでもソフィアには途方に暮れてしまう。
「あそこの大家さん、高齢だからね。君のご両親はなんて?」
「その、私、あまり親とうまくいってなくて……」
こんな時、親に相談できれば一番いいのだろうが、生憎彼女にはそれが出来なかった。
泣きついても話を聞いてもらえるかもわからないし、もし、力を貸してもらえたとしても、何を言われるかわからない。
新しい下宿先を探したとして、今お世話になっている場所ぐらい安いところは見つからないだろう。
学費は成績優秀者として特別に半分免除されている状態なので、バイトも限られる。
「……もしかしたら……学校を辞めるかも」
そんな絶対に避けたいが、一番現実味のある未来に彼女は頭を悩ませていた。だから、一瞬浮かんだ違和感に気づくことが出来なかった。
「あ、ごめんね。こんな話をされても困るよね。忘れて」
妄想の中で、彼女は何度もロランにこの話をして、その度に彼は優しく慰め、元気づけてくれた。自分が力になると、絶対に助けてみせると、そう約束してくれた。
だがこれは所詮、ソフィアの妄想の中の話だ。
優しい言葉をかけてくれるかもしれないが、しかし何かしてくれることはないだろう。
当然だ。二人はただの同級生で、ロランにはソフィアを助ける理由がない。
夢から覚めるような気持ちとはこのことを言うのだろう。今までずっと、正気を失ったふりをしていたけれども、それももうお終いである。
「話を聞いてくれてありがとう。それじゃあ、さようなら」
涙が出てこないうちに彼の前から去ろうと立ち上がったソフィアだが、その手をロランが掴む。
「待って欲しい」
「え?」
「もしよければ、俺が力を貸すよ」
その言葉にソフィアは、自分がとうとう妄想と現実の区別がつかなくなったのかと思った。
「……ここ、本当にいいの?」
ソフィアが案内されたのはロランの家が所有している家屋。一階には商店が入っているのだが、二階は居住空間が広がっていた。
中古のようで、あちこちに人が使っていた痕跡はあるがそれでも十分綺麗だし、生活するのに何の支障もない。
驚くことに、ロランはここを今の下宿先と同じ値段で貸してくれるというのだ。
「普通に貸し出したら、もっとするでしょう?」
「大丈夫だよ。前は店の人が暮らしていたみたいだけど、今は通いだし、使わないと悪くなっちゃうから」
「で、でも……なんだか、申し訳ないな」
「困ったときはお互い様だよ。でも気になるなら……そうだな。少し仕事を手伝ってもらえるかな」
「仕事って下のお店?」
「うん。勿論、勉強に支障が出ないように調整するから、安心して」
ロランの言葉にソフィアは引っ掛かりを覚える。
そういえば、下の店は海外から仕入れた品物を売っていた。ロランの家は貿易もしていたはずだ。
「もしかして、お店もロラン君の家がやってるの?」
「んーちょっと違うな。この物件も、下の店も、一応俺がオーナーってことになってるんだ」
「え?」
「だから、俺がオーナーなんだよ」
「えぇ!?」
聞き間違いかと思った言葉をもう一度聞かされ、ソフィアは驚きを隠せない。
「ろ、ロラン君が!?」
「うん、うちの親がなかなか厳しくてさ、昔から仕事の勉強させられて、最近になって今度は自分の力だけで商売しろって言われちゃったんだ」
「そうだったんだ……」
自分と同い年でそんなことまでしてるとは、財閥の御曹司も大変のようだ。
「あ、そうだ。俺の住んでる家がこの近くにあって、窓から見えるんだよ」
「へえ、そうなの」
「うん。ほら、あれ」
ロランの指にはそう遠くない場所の一戸建てを示した。あそこがロランの家らしい。
「わぁ、本当だ。結構近いね」
「そうだね。ところでここ、住んで見る気になってくれた?」
「え、う、うーんと」
「何か不満点があった?」
「な、無いよ!」
そう、不満などない。ただ、自分に都合が良過ぎて気後れしてしまっただけだ。
しかし現実問題としてここを断ればソフィアには他に行く当てがない。
「えっと、それじゃあ、よろしくお願いします」
「うん、こっちこそよろしくね」
こうしてソフィアはロランのお世話になることになった。
「ふう……こんなものかな?」
荷物がある程度整理できたので、ソフィアは大きく息を吐いてベッドに腰掛ける。それから、新しく自分が住むことになった部屋を見渡す。
(なんだか、未だに信じられない……)
ちょっと前まで、自分とロランの間には何もなかったはずなのに、いつの間にか彼の好意で部屋を貸してもらえることになるだなんて。
今まで散々自分に都合のいい妄想を繰り返してきたけれど、これは紛れもない現実である。
ソフィアはノートを取り出すと、今日の出来事を誇張なく、なるべく正確に書きこんでいく。
そしてそれを、今まで書いてきた妄想と一緒に読んでみると、違和感なく溶け込んでしまう。
(こうしてみると、本当に私の妄想の一部みたい……)
正直、自分は夢を見ていて、これは空想の産物であると言われた方が納得がいくレベルだ。
(でも、それはさすがに嫌かなぁ)
カーテンの隙間からそっと外を伺えば、ロランの家が見える。
明かりが灯っているのを見るに、まだ彼も起きているのだろう。
(ロラン君、今どんなことしてるのかな……?)
本でも読んでいるのか、仕事しているのか、もしかしたら寝る準備をしているのかもしれない。
そんな情景を思い浮かべながら、ソフィアはノートを抱きしめる。
今でも十分に恵まれているし、このまま満足するべきなのだろうけれど、ソフィアは貪欲なので、もっとさっきを夢想してしまう。
もし、この先もずっと、彼の傍にいられたら、なんて。
「でも、夢をみるのは、自由だよね……」
そうぽつりとつぶやいて、ソフィアは寝る支度に入った。