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中編

 ロランは人気者だ。

 今も授業が終わった教室で友人達に囲まれ、楽しげに話している。

 ソフィアも彼の傍に行って話がしたいが、自分からあの輪に入る勇気なんてなかった。僅か数メートルの距離が、どうしようもないほど遠い。

 少し前までだったらそれで諦めがついたのだが、今の彼女は昨日の出来事が忘れられず、未練がましい眼差しを止められずにいた。

(ロラン君……)

 自分もあそこにいる人たちみたいに、彼と過ごせたらどんなにいいか。

 彼が自分に話しかけて、笑いかけて、それで手をつないだりして、一緒に街を歩いて、お茶を飲んだり、買い物をしたりする。

 そんな妄想を頭の中で繰り広げていると、ロランが「あ」と呟いたのが聞こえた。

「どうしたよ?」

「いやこのペン先、壊れちゃったみたいなんだ」

「あ、本当だ。直せそうにないし、捨てるしかないね」

「あーあ、気に入ってたんだけどなあ、これ」

 友人達とそんな会話をしながら、ロランはごみ箱にペンを捨てて、また友人達と楽しく喋り始める。

 それはよくある日常的な出来事であり、当然ながら教室にいる誰も気にも留めなかった。ただ一人、ソフィアを除いて。


 やがてロランや他の生徒達は帰宅し、教室にはソフィアしか残っていない。

 周囲に人影がいないことを確認すると、彼女はごみ箱に近づく。そこにはロランが捨てたペンが転がっている。

 それを、ソフィアはじぃっと見つめた。

(いや、駄目よ、そんなこと……)

 頭ではわかっているのに、その目はペンから離れられない。

 もう一度、周りを見渡す。誰もいない。

「………………」

 ソフィアはごみ箱に手を伸ばすと壊れたペンを掴み、そっとそれを自分の鞄に入れた。




 下宿先に戻るとソフィアは大家さんへの挨拶もそこそこに、すぐ部屋に入って鍵を締める。

 そして鞄の中に入れた壊れたペンを、机の上に取り出す。

 やってしまったという気持ちと、やってやったという気持ち、その両方がソフィアの中でせめぎ合う。

(大丈夫、バレてない。誰にも見られてないんだから、誰も気づくはずがない)

 不安と興奮が彼女の頭をぐるぐる回り、そんな自分を落ち着かせるために深呼吸を何度か繰り返す。

 ようやく一息つけたソフィアは改めて自分が持ってきた物を見つめた。

(これが、ロラン君が使っていたペン……)

 試しに使ってみるが、壊れているのだから当然使い物にならない。

 だが、ソフィアをペンを捨てる気にはならず、まるで宝物を隠すかのように机の奥に入れた。

 ロランが使っていた物が入っている、それだけでボロの机が宝箱に思えてくるのだから不思議だ。

「ああ、そうだ。こっちにも書いておこう」

 引き出しからノートを取り出す。それは昨日のロランとの出会いを書き記した物だ。

 昨日と同様に今日の出来事を書こうとしたソフィアだったが、ペン先がノートに触れる直前、その手はぴたりと止まる。

「…………」

 少し悩んだ後、ゆっくりとペンを動かす。

 しかし、現実ではソフィアはロランと話せていないのに、書かれた内容では仲良くお喋りをしたことになっていた。

 ただの妄想である。だがそれでも、こうだったらいいのにという願望が止められなかったのだ。

 すると、どうだろう。ただの文字にしたためただけなのに、ありもしない妄想が少し現実味を帯びたような気になる。

「ふふ……ふふふ……」

 ソフィアの肩は小さく揺れた。

 その眼差しは夢でも見ているようだ。




 この日から、彼と共に過ごしたという妄想をノートに書くのがソフィアの日課になっている。

 あのぶつかった日以来、ほとんどまともに話していないくせに、ノートの中ではデートに出かけたり、一緒に勉強したり、家のことを相談にのってくれたり、順調に仲を深めていることになったいた。

 自分に都合のいい妄想だという自覚はある。決して褒められるような物じゃないことも、他者から見れば気持ち悪がられるであろうことも理解している。

 だが、止められなかった。

 だって、これのおかげで毎日が楽しいのだ。

 今までは、友達と遊ぶわけでもない、何かやりがいを持っていたり夢を抱いていたわけでもない、自分はこれからどうなるのだろうかという漫然とした不安を抱いたまま味気ない日々を送っていただけ。

 それが、ロランのことを思うだけで胸がいっぱいになり、世界が輝いて見える。

 今日はロランとどこへ行こう、何をしよう、どんなことを話そう。

 そんなことを思い描くだけで、幸福感が胸を満たすのだ。

(確かに、私のしてることはおかしいかもしれないけど、でも、別に誰かを傷つけてるわけじゃないし、騙してるわけでもない。自分のノートに好きなことを書いているだけ……そう、それだけだわ。自分の妄想の中でぐらい、好きにしたって別にいいよね)

 そんな言い訳を繰り返して、もう止めよう囁く理性を無視した。




 そんなある日のこと、ソフィアは町に出ていた。

 別に何か用事があるわけじゃない。強いて言えば、妄想の為だろうか。

 最初から全部頭の中だけで思い浮かべるよりも、こんな風に実際の風景を見ながらの方がより鮮明になるというものだ。

(あのお店可愛いな。ロラン君と入ってみたい……あそこのカフェのケーキ美味しそう。ロラン君と半分ことかしたいな……こういう人通りの多いところで手をつなごうって言ったら、ロラン君はつないでくれるかな? それとも嫌がるかな?)

 そんなことを考えながら歩いていくと、人ごみの中に頭の中で散々思い浮かべた人物を見つけた。

(え、噓、ロラン君!? 本物?)

 思わず声をかけそうになって思いとどまる。どんなに妄想を重ねようとも、結局のところ彼と自分は、ろくに話したことのない同級生でしかないのだから。

 しかし、このまま見送るのはあまりにも惜しい。

(……少しだけ、ちょっとだけ、追いかけてみよう)

 せめて彼がどこに行こうとしているのか、それだけでも知りたかった。

 一定の距離を保ちつつ、ソフィアはロランの後をつける。

 罪の意識はなかった。彼女の中には、思い人のことを少しでも知ることが出来るかもしれないという興奮しかなく、自分の行為が相手に知られた場合、非難される可能性もあるということまで頭が回っていないのだ。

 けれど、この無自覚のつきまといはすぐに終わった。

「あれ? ソフィアさん?」

 十分もしないうちに、ロランがソフィアに気づいたのだ。

「偶然だね、こんなところで会うなんて」

「え、ええ……そうね」

 せっかく本物のロランが目の前にいるというのに、口から出るのはたどたどしい言葉だけ。妄想の中でいくらたくさん話せたとしても、現実ではこんなものである。

「どど、どうしてこんなところに?」

「ちょっと家の用事があってね」

「そうなんだ……」

 もっといろんなことを話したいと思うのだが、会話の広げ方がわからず、言葉が続かない。

(ど、どうしよう、何か、何かないかな、何か……)

「ろ、ロラン君は、料理ってする?」

 焦ったソフィアの口から出たのはそんな言葉だった。

 もっといい話題なら他にもあっただろうに、正直、自分でもどうしてこれを選んだのかはわからない。

 けれどそんなソフィアの焦りとは裏腹に、ロランは「そうだなぁ」と考えて込んだ。

「サンドイッチぐらいなら作れるけど、本格的なのは全く。ソフィアさんは?」

「あ、えっと、簡単なお菓子なら、作れるかな」

「へえ、そりゃすごいね。例えば、クッキーとか?」

「うん、でも、そんな美味しくは出来ないよ、あくまで作れるってだけで」

 料理というものはどんなに下手くそでも、ちゃんと分量を量り、手順を間違えなければ、それなりに食べられるものが出来るとソフィアは考えている。

 ソフィアの作ったお菓子も、不味くはないが、店に売られている物には遠く及ばない。

 けれど、それでもとロランは言う。

「俺から見れば、作れるってだけですごいよ。一度、食べてみたいなあ」

「じゃ、じゃあ、作ろうか?」

 反射的に答える。彼の言葉がお世辞かもしれない、だなんて考える余地すらなかった。

 図々しいと思われたらどうしようと内心頭を抱えたが、ロランは嬉しそうな笑みを浮かべて見せる。

「え、本当に? いいの?」

「う、うん」

「嬉しいなあ。楽しみにしてるよ」

「でも、あの、本当に、それほど美味しくないよ?」

 自分から言い出したくせに、食べてもらえる流れになった途端、尻込みしてしまう。食べてもらえるのは嬉しいが、それ以上に不味いと思われるのが嫌なのだ。

「そんなに気を負わなくて大丈夫だよ……あ、でもやっぱり作るの大変だよね。ごめん、図々しかったかな」

「え、そ、そんなことないよ! 大丈夫だから!」

 しおらしいロランの態度にソフィアはつい、そう答えてしまう。

「本当に?」

「う、うんっ」

「そっか、それはよかった。楽しみにしているね」

「あ……」

「それじゃあ、また!」

 しまったと思った時にはもう遅く、ロランは別れの言葉と共に去って行く。

 小さくなっていくロランの姿を呆然と見送るソフィアだったが、おもむろに自分の頬をつねる。

「……痛い」

 どうやら、ロランと会って喋っただけでなく、お菓子を作って渡す約束までしてしまったのは夢ではないらしい。

「え、本当に?」

 思わず呟いてしまった言葉に、返ってくる声はなかった。


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