前編
あなたは恋をしたことがあるだろうか。
一瞬で世界が塗り替えられ、培ってきた価値観は覆り、人生が大きく変わってしまうような恋を。
これは、そんな恋の物語である。
学園の校舎を一人の少女が歩いていた。
水色の髪のおさげに眼鏡の奥に光る青緑色の瞳はいかにも真面目そうであると同時に、どこか垢抜けない印象を周囲に与える。
その印象に違わず彼女、ソフィア・リーデンは田舎から上京してきた学生であり、授業態度は真面目、成績は学年でもトップクラス。教員からの覚えはいいが、大人しくて内気な性格から親しい友人はいない少女であった。
今は放課後、学習室で自習を行っていたのだが、日も暮れてきたので帰るところである。
授業が終わってから時間が経っている為に、校舎にはほとんど人の気配がなく、静かなものだ。
そこを歩いていくソフィアの脳裏には今日の授業と明日の授業の予定が並び、下宿先に戻ってからどんな予習を行うべきかを考えていた。
つまり、注意が散漫としていて前をよく見ていなかったのだ。
「きゃあ!」
「おっと」
廊下の角を曲がろうとしたところ、その先に人がいてぶつかってしまう。その衝撃で尻もちをつきそうになるソフィアだったが、その直前に腕を掴まれ体勢を支えられる。
「大丈夫?」
「あ、ありがとうございます」
顔を上げると、そこにいたのは同じクラスのロラン・ハミュッシュだった。
茶色の髪と紫色の瞳を持ち、整った顔には人好きするような爽やかな笑顔が浮かんでいる。
「あの、ごめんなさい。前、よく見てなくって」
「ああ、気にしないで。それより怪我がなくてよかったよ」
にこりと微笑む彼にソフィアは眩しさを感じた。
そういえばこんな風に同級生と話すのはどれくらいぶりだろう。
「俺は先生から頼まれごとをして、気づいたらこんな時間になってたんだ。ソフィアさんはどうして?」
「え、名前……」
彼が自分の名前を覚えていることに驚きを隠せない。
「ん? そりゃ同級生だし、知ってるよ」
彼はそういうが、ソフィアは自分の影が薄い存在だと理解している。多分、クラスの半分ぐらいの人間は自分の存在自体、忘れているのではないだろうか。
それに比べ、ロランのことを知らない人は学年でもいないはずだ。
財閥の息子でありながらそれを笠に着ることなく、誰にでも平等に接し、明るくて優しく、文武両道でクラスの中心的人物。勉強しか取り柄のないソフィアとは大違いである。
(そんな彼が自分みたいな人間を気にかけてくれるだなんて……)
ソフィアの胸が震えた。
気にかけると言っても名前を覚えていただけである。だがそんなこと、今の彼女は気づかない。
「私はその、勉強をしてて」
「へえ、君はいつも成績がいいけれど、そういう努力を怠らないからこそ結果が出せるんだね。すごいな」
「あ、ありがとう……」
そんな風に褒められるとは思わず、照れてしまう。
(けど、いつも成績がいいって……そんなに私のことを見ててくれてるの?)
彼女の中で思い込みが加速する。
しかし、そんなこと知るはずもないロランは「それじゃあ、また明日」と言って背中を向けてしまう。
引き止めようとしたソフィアだったが、言葉が出ることはなく、黙って彼を見送ることしか出来なかった。
ロランともっと話したかった、と落ち込みながらもソフィアは下宿先に帰る。
そこはお世辞にも綺麗とは言えず、見た目からして老朽化が進んでいる建物であった。中も見た目と同様、あちこちガタが来ていて、歩けば床が軋み、隙間風があちらこちらから入り込んでしまう。
しかし、大家さんがとても良い人で家賃がとても安い為、ソフィアはここを気に入っていた。
「ただいま戻りました」
「ああ、おかえりなさい、ソフィアさん」
ソフィアを出迎えたのは大家である老女。息子夫婦と離れて暮らしているらしい彼女はソフィアにいろいろと親切にしてくれている。
「夕飯はまだですから、もう少し待っててくださいね」
「はい、ありがとうございます」
部屋に戻ったソフィアはそのまま机に向かう。
昨日までだったら迷わず教科書を開いていたが、今の彼女の頭にはロランのことしかなかった。
「……ロラン君」
まるで熱に浮かされたように彼の名を呼ぶ。
入学して同じクラスになって、早半年。その間、二人は挨拶程度しか交わしていない。
けれど、ソフィアは彼に好意を抱いていた。ソフィアだけではない。学年、殆どの女子が彼のことが好きだと思う。
それぐらい彼は魅力的な人物だ。
恋人になろうとは思っていない。なれるとも思えない。
それでも、例え彼との距離が縮まなくても、遠くから眺めていられれば、それだけでいい。そう思っていたのに。
ソフィアは未使用のノートを取り出すと、今日あった出来事を書き込んでいく。
(ロラン君が私を気にかけてくれた。私に優しくしてくれた。あんなに素敵な笑顔を見せてくれた。ああ、今日はなんていい日なの……!)
ただ、ぶつかって拍子に倒れそうになったのを支えられ、名前を呼ばれただけ。それだけなのにソフィアの中では、まるでとんでもない大きな出来事であるかのように膨らんでいく。
「ああ、ロラン君……」
書き終えたノートをソフィアは恍惚とした眼差しで見つめる。
明日も彼と話せるだろうか。どうしたら接触できるだろうか。
もう遠くから見るだけでは満足できない。もっと彼に近づきたい。もっと彼を知りたい。もっと、もっと、もっと、もっと。
暴走していく思考は、まるで坂から転げ落ちる石のように、歯止めが効かない。そんな彼女を止める人もいない。
だから彼女は止まらない。




