プロローグ~影~
「最近また出たんだって?例の影みたいな奴」
買い物の休憩にと立ち寄った酒場でそんな話題で盛り上がる厳ついなりをしながら昼間から酒を食らう冒険者が居た。
その冒険者と店主によれば、辺境の村などで目撃、及び討伐報告のある影が、この街の周辺にも現れたのだという。どこから現れたのかもわからず、倒したところで魔石のような黒い石粒を落とすだけで消えてしまう何か。どこかの研究機関が調査をしているという噂もあるが定かではない。
目撃報告の殆どは人の形をしていたというものだが、中には獣のような姿をしていたという報告もある。報告に共通することと言えば、黒い靄のようなものを纏い、人も魔物も見境なく襲っているものの大した攻撃能力はない様でその悉くが返り討ちにあっている、という点か。
「森の探索も兼ねて、久しぶりに狩りにでも行きましょうか。……腕がなまっていなければいいんですけど。店長さん、御馳走さまです。お代、ここに置いておきますね」
残っていた果実水を、一息の飲み切るとテーブルに鉄貨数枚を置き、店を出る。買い物袋を提げ、向かうのは職場兼自宅のギルド支部。王都に比較的近いといっても強力な魔物が多いわけでも、珍しい特産品があるわけでもないこの街は、言ってしまえば寂れている。こうしてギルド支部長補佐兼受付の私が雑用の買い出しを任されているのも、人手が足りていないからだ。ここ数週間休みらしい休みがない。偶には周辺警戒という名のもとに、羽を伸ばすのも悪くはないだろう。久々にまともに体を動かせると思うとギルドへ向かう足取りも軽くなるというものだ。
「只今戻りましたー。あれ、支部長は?いつもならこの時間、書類仕事に飽きてこの辺りうろうろしてる頃じゃない?」
「さあ?そういえば今日は見てないわね。もしかして、支部長室で寝てるんじゃない?」
買い足した備品を棚に仕舞いながら同僚に声を掛けるとそんな声が帰ってくる。もしそうなら少しまずい。支部長が溜めた仕事はそのうち補佐である私に回ってくる。回ってきたらこの後の予定が滅茶苦茶に……。
「ちょっと様子見てくるわね。寝てたら引っ叩いてでも起こしてやるんだから……」
若干の苛立ちを隠しながらギルド二階の支部長室へ向かう。支部長がしっかりと机へ向かい仕事を進めていることを願いながら、返事を期待することなくドアを数度叩く。返事は無いだろうとそのまま間を空けずノブに手を掛けると、
「待ってたよ、ちょっと君に話があったんだ。驚いてないで、早く入って」
予想に反してはっきりとした言葉が返ってきた。その内心驚きつつも声に促されるまま室内に入り、声の主、支部長の前へと向かう。
「珍しいですね、飽きずにキチンと仕事してるなんて……。まさか私に押し付けようって腹じゃないですよね?大体貴方はいつもいつも……」
「こちらの話は少し急を要する。その話はまた今度ゆっくり聞くよ」
今までも話があると呼び出されては仕事を押し付けられたことは一度や二度ではない。ひとまず牽制とばかりに語気を強めながら言うと、何やら申し訳なさそうに私の言葉を遮る支部長。何時になく真剣な支部長の顔に、ぐっと言葉が詰まる。口を噤む私に軽く頷き掛けると支部長は話を進める。
「君も何度か報告書を読んだとは思うが、例の影がこの街のすぐ近くに出現したらしい。なんでもこれまでの個体より大きな人型だそうだ。攻撃能力があまり無いという情報はあるものの奴らについてはわからないことだらけだ。最善を期したい。そこで君、この支部随一の実力者であり私の補佐たる君に、これの討伐を依頼したい。私が出ると、被害が大きくなりかねないから、頼めるね?」
支部長が出ると被害が大きくなる、というのは分かる。実力の安定しない冒険者に任せて被害が大きくなることを考慮しての判断だろうことも、分かる。だが影程度なら安心して任せられる職員は私以外にもそれなりには居る。と、返事を渋っていた私は、続く支部長の言葉に踵を返し武具庫へと足を向け事となる。
「ああ、勿論それなりに手当は出すから安心してね」
それから半刻も経たないうちに私は愛用の弓と短剣、革鎧で武装し、報告のあった森へと向かっていた。まだ日も高く、普段は明るいはずの森の中がどんよりと薄暗い。不気味な感覚を覚えながらも森を進む。当初の目的に加え臨時収入まであるのだ。そういえば、この弓も随分と使い込んでいた。この仕事が片付いたら買い替えてしまおうか、と思考を巡らせている最中、私はソレを見つけた。
背丈は今までの報告と大差は無い。しかしその背中が異様に膨れている。そして片方の腕にはなにか、武器のようなものを……、と観察していると違和感に気付く。今までの報告では影は人も動物も、魔物さえ見境なく襲っているという話だったが、この影はどうやら違うらしい。先程から影の近くを角兎が飛び回っても襲おうとしない。どころか、まるで物音に怯えているような……。逡巡した後魔物に善はない、ただ生き物を傷つけることしかできない、という父の言葉が脳裏を過る。
音を立てないように移動し、弓矢で狙いを付ける。影は頭を攻撃すればたちまち霧散し消えるらしい。一撃で仕留めるために思い切り弓を引き絞る。それがいけなかったのだろう、狙いを定め放つと同時に、使い古した弓がばきりと音を立てて折れた。幸い矢は真っ直ぐに影の頭目掛けて飛んでいったものの、音に驚いたように影が顔をこちらに向けると、矢がこめかみを掠めて奥の木へ突き刺さった。
その時、私は信じがたいものを目にした。矢が影の頭の脇を通り過ぎる瞬間、ほんの一瞬、瞳が見えた。矢が影を覆う黒い霧を散らし、人間の瞳を垣間見せたのだ。
暫しの静寂。もし、私の考えが正しいなら。私は折れた弓を、影を刺激しないようにゆっくりと地面に下ろす。
「大丈夫。私はもう貴方を攻撃しない。急に射って、ごめんなさい」
一言一言、語りかけるように影に言う。もし、報告通りの影なら脇目も振らず襲ってくるだろう。それでも、この影は襲ってこないだろうと、確信めいたものが私にはあった。
ゆっくりと、黒い霧が晴れていく。影が解け、空気に溶けていく。
それが、私とトールとの出会いだった。
もっとアウトプットをスムーズに出来るようになりたい…