魔法のスープ~『セカキス』企画参加作品~
彼が私にとってどれほど大切な存在だったか…。
彼以外の男の人なんか、私には考えられない…。
最終電車で帰宅すると、彼がキッチンから顔を出した。真っ白なエプロンが妙に似合っている。リストラで職を無くした彼が家事を行うようになって三カ月。今では私より料理の腕前をあげたのではないか。
「うまくいったの?」
「まあまあかな」
「だと思った。今、スープを温めているから…」
「ごめん…。済ませて来たの」
「そう。じゃあ、明日の朝に食べて行くといいよ…」
彼の声がゆっくりとフェードアウトして行く。とにかく疲れた。少しでも早くベッドに潜り込みたい。寝室で服を着替えて私は浴室へ直行した。ぬるめのお湯でシャワーを浴びて、キッチンへ向かうと彼が料理を片付けていた。
大事なプレゼンだった。この日のために何日も残業して、帰りはいつも終電だった。その度に彼は食事の支度をして待っていてくれた。私にはそれが重荷だった。
確かに、彼が職を失ってからは私の稼ぎが二人の生活を支えている。それなりに蓄えはあった。けれど、それは何かあった時のために手をつけないでいた。彼がそう提案したのだ。今にして思えば、彼はその時から自分の運命を感じていたのかもしれない。
今日、そのプレゼンはうまくいった。上司がご褒美だと言って食事をご馳走してくれた。お酒も飲んだ。それからホテルで上司に抱かれた。そんな私に彼は精いっぱい尽くしてくれる。苛立ちと後ろめたさで、いつの頃か私は彼の顔をまともに見ることさえできなくなっていた。
「ちょっと体調が良くないから、病院に行ってくる」
珍しく朝寝坊をした彼がぼそっと呟いた。その日、仕事を終えて帰宅すると、部屋に彼の姿はなかった。携帯電話に着信があったのを思い出して留守電のメッセージを聞いた。
『恵理、ごめんね。なんか、入院しなくちゃならなくなったんだ。でも、大したことはないと思うから心配しないで…』
私は冷蔵庫から缶ビールを取り出してプルトップをこじ開けた。それから上司に電話を掛けた。
「主人が入院したの。明日、病院に寄ってから出社します」
ビールを一気に飲み干して浴室へ向かった。
そして、彼がこの部屋に帰って来ることはなかった。
彼の居ない部屋がこんなにも冷たくて寂しい場所なのだと初めて知った。一人で居ることに耐えられなくて、私は温もりを求めて夜の街を彷徨った。朝まで酒を飲んで色んな男に体を預けた。けれど、私の心が満たされることはなかった。
仕事は辞めた。上司がしつこく言い寄って来たけれど、元々愛情など、かけらも無い相手だった。
「奥さんに言うわよ」
その一言で上司は電話もよこさなくなった。
「ひどい顔だね」
初めて入った店で隣に座った男に言われた。私は席を立ってトイレに行った。鏡を見ると確かにひどい顔だった。席に戻るとその男はもう居なかった。その代わり、私の席に温かいスープが置かれていた。
「お隣に居たお客様からです」
マスターがそう言った。一口すすった。懐かしい味がした。
「こんなメニューあったのね」
「いえ、私はあの方に言われた通りに作っただけです。お客様がお疲れのようだからと」
私はすぐに店を出た。けれど、その人はもうどこにも見当たらなかった。
次の日も私はその店に行った。けれどあの人は来なかった。二日、三日私はその店に通った。四日目に店へ行くとあの時と同じ席にあの人がいた。
「やあ、今日はいくらかましな顔をしているね」
「余計なお世話よ」
「そんなことはないさ。好きな人が疲れていたら心配になる」
「一度しか会っていないのに好きだなんて見え透いた口説き文句ね」
「確かに僕とは一度しか会っていないけれど、あのスープは君に欠かせないものなのではないのかな?」
「えっ!あなた、いったい、何者なの?」
「僕が何者なのかということより、僕の心臓は君のことを覚えているみたいだ」
「心臓?」
「半年ほど前に僕は事故にあった。心臓が破裂して絶命寸前だった。助かるためには即心臓移植をするしかなかった。けれど、運よくその日に亡くなった方の心臓が適合した。今、僕の体にはその人の心臓が…」
「ウソ…。そんなのウソよ!彼のことをどこで調べたの?私を騙してどうするつもり?」
「ここで初めて君に会ったのは本当に偶然だったと思う。その時、不思議なことに、この人にはスープを飲ませてあげなくちゃって思ったんだ。僕はマスターに頼んでスープを作ってもらった。知っているはずのないレシピが勝手に口から出てくる。僕は怖くなって店を出た…」
その人はそれからしばらく何もしゃべらなくなった。
「あなたが事故にあったのはいつ?」
「3月7日」
彼が亡くなった日だった。
彼は入院した時に臓器の提供を願い出ていたと知った。主治医の話を聞いて私は驚いた。そして胸が熱くなった。
「ご主人は魂が亡くなっても自分の一部が生き続けていけるのだとしたら、また奥さんに会えるかもしれないからって笑っていましたよ。あいにく、移植されたのがどこの誰なのかは教えるわけにはいきませんけどね。ご主人の心臓は今もどこかで確かに生き続けています」
私はあの店に来た。あの人はそこに居た。
「この前は驚かせてしまってごめん」
「私の方こそ動転してしまって…」
「この前の話はすべて忘れて下さい」
「そんなの無理よ。忘れられるわけがないじゃない」
「あなたが忘れられないのは亡くなった方の想い出でしょう?それがどんな人だったのかは僕には判りません。ただ、これからの想い出を僕と一緒に作ってみませんか?初めて出会ったあの日、僕はあなたに一目惚れしました。それは心臓も何も関係が無い。僕の純粋な気持ちだと僕は思っている」
「少し時間を頂けますか?」
「いつまでも待ってる」
そろそろ彼が帰ってくる。私はスープを温め始める。玄関のドアが開く音。
「ただいま」
「お帰り。ちょうどスープが温まったわ」
「いつもありがとう。君のスープは疲れを癒す魔法のスープだよ」
そう言って彼は背中越しに私を抱きしめる。
「もう…」
振り向いた私に彼がそっと唇を重ねる…。