喪失
ピアノをやめることに成功した、次の日。
いつもの様に起きて、朝食を食べにダイニングに行く。
でも、朝食は用意されていなかった。
それどころか、母さんがいない。
いつも日曜日のこの時間には、朝の家事を終えてソファーでスマホをいじっていたのに。
嫌な予感が僕の胸に、黒い影を落とす。
まさかとは思いつつも不安になり、母さんの寝室に行く。
母さんはまだベッドの中に横たわっていた。
少しほっとする。
昨日の事もあり、自殺でも企てようとしたんじゃないかと思ったからだ。
「母さん、起きて。お腹空いたよ。朝ご飯はまだ?」
そう言って、体を揺する。
でも、なかなか起きない。
「母さん? 起きてよ!」
声を張り上げてみる。
「母さん!」
結局、怒鳴ってしまった。
でも……。
「か、母さん?」
起きない。
さっきの不安が、また過る。
助けを求めて、周りを見ると、睡眠薬の空き箱と、コップが、ベッドの周りに転がっていた。
う、う、嘘、だろ……!
と、取り敢えず救急車!
***
「残念ながら、既に……お亡くなりになっています」
やってきた救急隊員に告げられた、終わった命の宣告。
僕は自分の命と引き換えに母を失くした。
***
「……未来、大丈夫かい」
「……」
単身赴任をしていた為、あまり家に帰って来ていなかった父さんの問いにも答えられない。
唐突の事だったが、確かな事実として僕に襲いかかってきた、母の死。
何があったのか、よく分からずにその日を過ごした。後で思い返しても、何をしていたのか思い出せなかった。ナノハも、その夜は現れなかった。
次の日の夜。
「……ミライ、大丈夫?」
ナノハが部屋に現れ、心配そうに言った。
「昨日はどうして来てくれなかったの?」
僕は不満を口にした。
「そっとしておいた方がいいと思って」
まあ、そうかもしれない。でも、一人で淋しかったのも事実だ。
「ときには寂しさに震え、悩む事も大切なんだよ」
優しく諭される。
でも僕はこのとき、やり場の無い気持ちが重すぎて、疲れていた。
それを……ぶつけてしまった。
「偉そうに、言わないでくれっ……!」
ナノハが、目を見張ったのを見た。それでも、言葉は溢れ出る。
「ぼくがピアノをやめたらこうなる事が分かっていたんでしょ? そうじゃないにしても天使だから予想位出来たはずだっ! ねえ、どうして? 母さんは、ピアノを強要していた所以外は良い人だったんだ! 母親だったんだ! こうなる事は避けられなかったの?!」
「違うよ、ミライ……」
「違わない! 君は、知っていたんだろう? 分かっていて、黙っていて、人の気持ちより仕事を優先したんだ……っ」
ナノハは、はっきりと傷ついた顔をした。間違っている事位、分かっていた。
でも、ぼくは……。
背を向けた。
突如として襲って来た障害に。
そして、八つ当たりをした。
友達が出来ても、語彙がついても、ピアノをやめても、中身は全く成長していなかった。
ぼくは、最低だ。
でもそれを認めたくなくて……。
だめだ。これを言ったら取り返しがつかない。
直前の思いは掻き消された。
「君なんか、友達じゃない。もう、顔も見たくない」
という、他ならぬぼくの言葉によって。
ぼくは、救済者であり、協力者であり、そして唯一の友である、天使ナノハを拒絶し、失った。
ぼくは命と引き換えに、母親と友を失った。