変化
次の日、起きたら母さんはまだ帰っておらず、朝ごはんも用意されていなかった。
登校する時間になっても帰って来ないので、仕方なく鍵を自分でかけて家を出た。
学校での日常は、家でのぼくの『非日常』とは遥か遠く掛け離れた『日常』で、同じ日、同じ週、否、同じ人生とは思えない程。
同じ人生でありながら、正反対な出来事。
それはかえって、より非現実的な方に現実感を与え、ぼくは今日の日常を、ふわふわとぼんやり過ごした。
「未来、お前最近おかしいぞ。体調でも悪いのか? 無理すんなよ」
とでも言われそうだが、心配してくれるだけの友達は、学校にはいない。
そんな風に、毒にも薬にもならない事を考えながらぼくは家路につく。
家のドアを開けようとするが、開かない。鍵がかかっている。
母さん、まだ帰っていないのだろうか?
鍵を開け、一応「ただいま」と声を掛けながら家に入る。
「おかえりー!」
ぼくに声を掛けるのは、ナノハ。
「母さん、一度も帰って来なかったの?」
「うん。信じられない。仕事があるわけでもないのに、子供を一日ほったらかしにするなんて」
ナノハが憤慨する。
彼女が『喜怒哀楽』の『怒』の感情を表すのを、ぼくは初めて見た。
「ぼくを反省させたいんだよ。こんな風にしつこく自分の意見を言ったのは初めてだったから、戸惑ってるってのもあるんじゃないかな」
これまでこんなに長い時間、帰って来なかったのは初めてだ。
「人間って、自分勝手な所もあったんだっけ。最近ミライとばかり過ごしてたから、忘れてたよ」
怒りを声に滲ませながら、ナノハは低い声で虚空を――もとい、ここにはいない母さんを、睨む。
「……ん? ミライ、ボギャブラリー増えたね?」
ぼ、ぼぎゃらばりー?
「ボ・ギャ・ブ・ラ・リ・ー。語彙力。」
ご、ごいりょく?
……御威力?
「言葉をどれだけ身につけていられているかってこと」
言われてみれば、知ってはいるけど使わない言葉を、最近はよく使うかも。
「因みに、漢字はこう」
ナノハはどこからか紙を取り出し、菜の花色の万年筆で漢字を書いてくれる。
「……難しい漢字だね」
「漢検一級だって」
「漢検なんて知ってるんだ」
「まあね」
得意そうに言う。
「もう、ミライと話していると怒りとか、負の感情なんてどっか行っちゃうよ」
今度は、ふにゃりと力の抜けた顔で笑う。
「んーお母さんが帰って来ないとなると、今日はあまり考える事無いね。何しようか」
「天界の話を聞かせてくれない?」
「そんなこと言われても、つまんないよ。そこにいる者達が好きなように過ごす事が出来る位。天使も、仕事をしたくない者はしなくて良いし」
「うわ、まさに天国だね」
「天国だもん」
「そういえば、どうして天国とか地獄の話とかってこの世に知られているの?」
「もともと、『初世界』っていう世界があってね。そこに住むエネルギー生命体の創造エネルギーが他の『異世界』を作りだしているの」
言葉が難しすぎて分かんないよ!
「想像の世界が、本当になったものがたくさんあるってこと」
ああ、なるほど。
「難しいなあ。それが、どう関係するの?」
「つまり、もともと一つの世界から生まれたものだから、記憶を受け継いでいるの。まあ、所々に小さな差異はあるけどね」
難し過ぎて頭が混乱するよ。
「死んだら全て知ることができるよ。どうせまた生まれ変わるけれど。そういう風に初世界が設定したの」
ゲームみたいだね。プレイヤーのいない。
「あ、それに近いかも。あとは、小説とか、漫画とか」
へえ。
「天界も初世界が生みだしたんだよ。地獄もね」
んー、なんか小説みたいな話だね。
「そんなものだよ。事実は小説より奇なりってよく言うしね」
ふーん、そんな言い回しがあったんだ。
ぼくのナノハに関する記憶が消えたら、この知識も知らなかった事になるのかな?
「ううん。わたしがいなかった事になるだけで、知識とか、得たものはそのままだよ」
そっか。
「よし、じゃあ今日もご飯作りますか!」
***
今日は、ぼくも作るよ。やること無いし。
そう言おうと思ったけれど、足手纏いになりそうなので、やめた。
「その気持ちだけで十分だよ。――ってこういうときに使うんだよね」
ナノハが、にっこりと笑う。
「はい、出来たよー!」
早!
今日は五分足らずだ。
メニューは、鮭、お麩の味噌汁、白米、ほうれん草のおひたし。
ナノハ曰く、「これぞ和食!」
今日のご飯も、美味しくいただきました!
「良かった~!」
その、いつもの花が咲いた様な笑顔を見てぼくはこう思った。
別にお母さんが帰って来なくても良いかも。ピアノも弾かなくて済むし、ご飯は美味しいし、友達と一緒にいられるし。
「そうかもね。この方がミライにとっても良いかも。疲れが取れるもの」
それにナノハの記憶が消されないで済むしね。
「でも、この先親がいなければ出来ない事は沢山あるから、そういうわけにはいかないんだよ……」
「ああ、そうだったね……未来のことも考えなくちゃならないんだった。人生って面倒くさいねー」
「投げやりにならないの! やりたい事とか無いの?」
言われてみれば、無いな……。
「無い、の……?」
うん、無い。
「趣味とかは? 興味のある事は?」
「趣味は、ピアノに邪魔されて出来ない。興味のある事も、世界に触れられるだけの時間が無いから無い」
「……そんなに!? お母さんはどうしてそれほどまでにミライにピアノを強要するの?!」
「そういえば、聞いたこと無かったなあ……どうしてだろう?」
考えてみても、分からない。
まあ、聞かなきゃ分からない事を考えてても埒が明かないし、今日はやること無いし、もうそろそろお風呂に入って寝ようかな。
「そうだね。疲れを取るのに、睡眠は効果的だしね。じゃ、おやすみなさ~い!」
同意したナノハは、この前と同じようにすっと見えなくなった。
何も大きな事は起きませんでしたが、未来が少し成長した話でした。