爆発
次の日、学校から帰って、宿題を終わらせ、ピアノの練習の時間になる直前に、母さんに言った。
「ピアノをやめたい」
「はいはい、そのうちね」
いつものように、そう言う。
はじめのうちは信じていたけれど、信じることは出来ないし、『そのうち』を待つわけにはいかない。
「今すぐやめたい」
「だから、そのうち」
「だから、い・ま・す・ぐ・やめたい」
今度は『今すぐ』を強調する。
「しつこいわね」
「しつこくて悪かったね。でも、やめたい」
「だめ」
「なんで」
「キリが悪いでしょう。せめて今の曲を終わらせてからにしなさい」
「やめるんだから、関係無い」
「関係あるわ。気持ちが悪いでしょう? 未来も」
決めつけないでほしい。
さらに言い返す。
「全然。曲に愛着があるわけでもないし、気持ち悪くもなんともない」
「いい加減にしなさい」
母さんの声のトーンが一オクターヴ低くなる。
まずい、爆発する。
でも、ここでやめたらぼくは死に、理不尽な死を迎える子供が救われる可能性が低くなる。
「嫌だ!」
はっきり、否定する。でも、
「どうしてよ! 今までずっと続けてきたじゃない! アップライトピアノも、無理して高いのを買ったのよ! 未来、あんたお金払える? 払えないでしょ! あんたの為に買ったのに、今更やめるって言うの! 何があっても絶対にやめさせないから」
母さんは言い切って、玄関に行く。
「どこに行くの? 話はまだ終わってないよ!」
そう言うけれど、止まらない。
「終わったわ。ピアノは、やめさせない。私、今日はお母さんの所に泊まるから。晩御飯は、抜きよ。それじゃあね」
そう言って、バタン! と大きな音を立ててドアを閉める。
だめだ。
母さんは、すごく怒ったとき、ぼくのおばあちゃんの家に泊まる。
夕飯も抜かされ、冷蔵庫の食べ物を食べることも許されず、ぼくは空腹になり反省する。
いや、反省していた。
今回は、絶対に、反省なんかしない。するものか!
決意した、そのとき。
「あー……やっぱ駄目だったか」
残念そうな声が聞こえた。
天使、ナノハだ。
「うん、駄目だった。でもこんな簡単にやめさせてもらえてたら、逆にびっくりだよ。次の作戦を考えなきゃ」
「そうだね」
真剣な顔をして、二人で頷き、作戦を立て始める。
「勝手にピアノ教室に電話をいれてやめさせてもらうのは?」
「電話番号を知らないのと、親の同意が無いとやめさせてもらえないから、駄目」
でも、これ以外に思い付かないや……。
「諦めるな! 諦めたら……何が終わるんだっけ?」
「試合。ぼくの場合、人生」
「ああ、それか」
そうして、沈黙が訪れる。
『シーン』なんて音が本当に聞こえてきそうだ。なんて思ったところで、ナノハが口を開く。
「いっそのことボイコットしちゃえば?」
ボイコットって?
「ピアノに行かないの。それならピアノの先生からお母さんに連絡されて、怒られるかもしれないけど『やめたいって何度も言ったのにやめさせてくれない方が悪い』って言いきれば良いし」
「おおー! 名案だね! じゃあ、取り敢えず、明日から『ピアノをやめたい』って納得させなくても良いから、何度も繰り返そうかな」
多分、その度にご飯を抜かされるけれど。
そこに思い当たった瞬間、お腹の虫が鳴った。
「お腹、すいてるの?」
「そりゃそうだよ。でも、平気」
死ぬ事に比べればね。
「……リビングに戻ろう。立ちっぱなしだと疲れるでしょ」
「あ、確かに言われてみれば」
ぼくらはずっと玄関にいた。
「ね、一回座ってさ。ご飯も食べよう」
「無理だよ」
「無理じゃない。ミライ、今食べたいものはある?」
だしぬけに聞かれる。
いきなり言われてもなあ。
うーん……無い。
「えー。じゃあ、適当に作るね」
作るって言われても、材料が無いよ。
勝手に使って減らしたら怒られるし。
「大丈夫。材料は冷蔵庫にあるものを増やせば良いから」
増やすって言っても、あるだけしかないし、お小遣いも出してもらってないから買いにもいけないよ。
「だから、増やすの。わたしは天使だから、ちょっと情報操作すればその通りになるの」
「情報操作?」
「そう。一回冷蔵庫の中身を確認してみて」
言われた通り、見てみる。
「数覚えた? じゃあ、行くよ。冷蔵庫の中身の情報をこうやって取り出して……」
言いながら、かざした手を横に動かす。
動かした所から紙が現れ、金色の記号が流れるように書かれていく。
「で、情報を書きかえる」
どこからか出した、菜の花色をした軸の万年筆で、幾つかの記号に☓をつけ、その隣に新しく記号を書きいれる。
「すると、そのとおりになるんだよ」
もう一度冷蔵庫を見る。
そこには、幾つかの材料が、一単位ずつ増えていた。
「うわ、すっごい……!」
「でしょ! じゃ、増えてる分の材料で料理するから、待ってて」
「え、ぼくがやるよ。自分で食べるものだし」
「だめ。ミライ、自分が思っているより疲れてるよ。だから、休んでいて」
「……分かった。じゃあ、お願いします」
***
「出来たよ! ダイニングに来て」
「早っ!」
ぼくが『お願いします』と言ってから、十分とたっていない。
「天使だからね」
「答えになってないよ」
「さっきみたいに情報操作したの。たとえば、水の情報の温度を百度に変えたら、たちどころに沸騰するとかね。ただ、料理には順番があるから、少し時間がかかったけれど」
これで『時間がかかった』方なのか。
感心しながらダイニングに行く。
「メニューは、鶏肉のソテーレモン風味と、アボカドディップサラダ、自家製のパン、デザートはミルクシャーベットだよ!」
豪勢だなあ! 物凄く、食欲をそそる見た目と匂い。
「ディナーだからね! これからも夕飯抜きになったら作ってあげるから、今日は特別に豪華にしてみたんだ~。本当は牛肉のステーキにしようと思ったんだけど、冷蔵庫に無かったから鶏肉のソテーになっちゃった」
「十分豪華だよ! いつもは……というか、今までに一度も豪華な料理なんか食べた事無かったから……。凄く嬉しいよ! お腹空いたし、早く食べよう!」
お腹の虫は、さっきよりも活発に行動している。
「そうだね。わたしは食べられないから、ミライ、食べていいよ」
今気がついた。
料理はたしかに、一人分しかない。
「どうして食べられないの?」
「食べ物を、体に取り込むことが出来ないの。この世界で使える実体が無いからね」
「そうなんだ……。あれ、じゃあどうして料理出来たの? 味も知らないと味付けできないじゃん」
「実体は、天界にちゃんと存在しているし、この世界の食べ物の再現は天界でならいくらでも出来るから、食べたこと自体はあるんだ」
「へえ! 天界って凄い所なんだね! ぼくも死んだら行けるかな?」
「魂が綺麗だったら、天使が迎えに来てくれるはずだよ。でも普通の人間はなかなかそうはなれないから、輪廻転生の輪に一度戻って生まれ変わる人がほとんどだね」
「そっか……死んで天界に行けばまたナノハと会えると思ったんだけどね」
残念だなあ。
「どっちにしろ忘れてるよ」
まあ、そうっちゃそうなんだけどね。
「ねえ、早く食べてよ! 冷めちゃうよ」
あ、ほんとだ。話がずれてたね。
「じゃあ、いただきます!」
食べやすいようにカットされた鶏肉を口に運ぶ。
「どう、どう?」
ナノハが感想を聞く。
「すっごい、美味しいよ! さっぱりしてて食べやすい」
「レモンの力だね。他のは?」
アボカドディップサラダなるものを食べる。
これは、アボカドという野菜をポテトサラダの様に潰して、ツナと玉ねぎと合わせ、ポン酢やマヨネーズなどで味つけたものだそうだ。
これもまた、美味しい!
アボカドは食べた事あったけれど、感触が腐っているみたいで好きじゃなかったんだ。だけど潰してあるから気にならない。
「でっしょー! パンも作ったんだよ」
パンは、白パンだ。なんかおしゃれ。
でも味の濃いソテーに合っている。
全部食べ終わると、お皿が使う前のように一瞬で綺麗になった。
「これも情報操作?」
「そう!」
菜の花色の万年筆を、くるくる指先で回しながら言う。
「じゃあ、次はデザートのミルクシャーベットね!」
透明な器に盛られたミルクシャーベットは、ふんわりと優しい甘さで、口直しにはもってこい。
「ごちそうさまでした! 美味しかった!」
そう言って気が付いた。
こんなにご飯を美味しいと感じながら食べたのは、ピアノを嫌だと感じる前以来だ。
「どうしてピアノが嫌になってから美味しくなくなっちゃったの?」
「なんでだろう……」
充実していなかったからかな?
ま、いいや。今日は美味しいご飯を食べられたから。
「よかった、喜んでもらえて。明日から作戦その二、決行開始だから、今日はもう寝ましょう」
「わかった。お休み」
「お休み!」