温室(後編)
美智さん達と別れたあと。
澄み渡る青空の下、匠君に案内されて私は校舎の外へと出ていた。
校内は六条院祭のため人の往来が激しかったけど、ここは人とすれ違うことはない。部員以外あまり通う人がいないのだろう。
辿り着いたのは丸い円形状の温室だった。
その入口前には、六条院の制服に身を包んだ女子生徒と男子生徒の姿があり、笑顔で出迎えてくれている。
「お待ちしておりました。五王様、露木様」
にっこりと微笑んだ少女は、匠君のクラスメイトである朱鷺川さんでその隣にいるのは彼女の婚約者である葉澤さんだ。
「ティーセットをご用意しておりますので、どうぞご自由に楽しんで下さいね。何かご用がございましたらなんなりとお申し付け下さい」
「悪いな、朱鷺川」
「いいえ、五王様の頼みですもの。では、私達は失礼いたしますわね。温室を楽しんで下さい」
「ありがとうございます」
「では!」と会釈をした二人は、手を繋ぎこちらに背を向けて去っていく。
「じゃあ、俺らも行こうか」
「うん」
温室の扉を匠君が開けてくれたので中へと足を踏み入れれば、外気と違ってほんの少しだけ暑いような気がした。
植物に囲まれているんだけど、真ん中付近に開け切った場所があり、アイアン製のテーブルセットが置かれている。その上にはクロスのかけられた籠とグラスが二つ、そして傍にはワゴンがありガラス製のまん丸いドリンクサーバーが二つ。
サーバーにはスライスされたレモンが入った紅茶っぽいものと、ハーブやフルーツ、フラワーが入った透き通るブルーのハーブティー。
「自然界の色か? というくらいに青いな。マロウブルーか?」
匠君は青い飲み物に興味津々のようで、じっと見ている。
「なんだろうね?」
首を傾げていると、視界の端にメッセージカードが置かれているのに気付く。
ワゴンに手を伸ばして手に取り確認すれば、お菓子やお茶の説明が記されていた。
「バタフライピーだって」
「たしかタイとかで飲まれているものだったな。レモンなどを入れると色が変わるはず」
「そうなの? レモン……あっ、あった」
テーブルの上にあった陶器製の入れ物を開ければ、中にレモンのスライスが入って入た。
ちょっとどんな味がするのか飲んでみたい。
「あのさ、朱音。とても大切な話があるんだけどいいか?」
急に声のトーンが変わってしまった匠君に、私はどきっと鼓動が大きく跳ねてしまう。ゆっくりと彼の方を見れば、真面目な表情をしていた。
突然のシリアスな空気に私は息を飲む。
「俺、朱音の王子になりたいんだ」
「王子……?」
王子という存在は私も理解しているけど、急に王子という言葉が出て来たのが謎過ぎて首を傾げる。
――もしかして講堂の話の続きかな?
あの時のことを私は思い返し始めた。
「朱音は王子と聞いて美智の方を見たけど、俺が朱音の王子になりたいんだ!」「確かに講堂では美智さんを見たけど、頭の中には匠君とシロちゃんのことも浮かんだよ」
「美智だけじゃなくシロも増えていたのか……確かに夏に大活躍だったけど……」
みんなには色々と助けて貰っている。私にとっては匠君も美智さんもシロちゃんも王子様みたいだって思っていた。
美智さんの方を見たのは、美智さんがいつもピンチの時に駆けつけてくれるからだ。
「朱音の王子は俺だけであって欲しいって思っている。真っ先に朱音の中で助けを求めてくれる存在になりたい」
匠君は私に向かって腕を伸ばすと、ぎゅっと私を抱きしめる。
あまりに突然の出来事に言葉も呼吸も止まりかけてしまう。
講堂前で抱きしめられた時と違い、今の匠君は真剣で凛々しい。
そのため心臓が早鐘だったけど、くっついたことで感じる匠君の心臓がもっと早かった。
「匠君……?」
「俺、男なんだよ、朱音。こんな風に朱音よりも体も大きいし力もある」
どちらの心臓の音なのだろうか。混じり合ってしまい、わからなくなってしまっている。お互いの存在しか感じず、周りの音が耳に入ってこなくなっていた。
――し、心臓が。
顔も体も熱い。きっとこれは温室のせいではないだろう。
「俺って我が儘だから朱音の一番でいたいんだ。朱音にとって頼れる存在でありたい。遠くにいても朱音に何かあったら駆けつけて守るよ。海外にいても絶対に! だから、俺の知らないところで泣いたり傷ついたりしないで欲しい。俺は自分のことよりも朱音のことが大切なんだ。頼りないかもしれないけれども」
ちょっと苦しいかなというくらいに抱きしめられているんだけど、私にとって匠君の言葉の方が苦しい。
匠君や美智さんと出会う前は、いつもぐっと堪えて痛みが過ぎるのを待っている状態だった。だって、助けてくれるお祖母ちゃんはもう居なくなっていたから。
でも、今の私には匠君達がいてくれるのはわかっている。
わかっているけど……
「匠君は頼りなくないよ。私、大好きなの」
私は匠君の背に手を回しぎゅっと抱きしめた。
「……え」
匠君はやや間を置くと、「す、すっ、好きっ!?」と叫んだ。
それに私は力強く頷いた。
「匠君や美智さんが大好き」
「あっ、やっぱりそっち……」
「本当にみんな大好き。でも、好きが大きくなっていく分、怖くなっていっちゃうの。いつもみんなに助けて貰ってばかりだから、呆れて離れてしまうんじゃないかって。私、お父さん達が言うように何もできないから……琴音と一緒の方が楽しいんじゃないかって今も時々過ぎるの」
頭の中に思い浮かぶのは、私を抜かした家族三人が笑っている映像だ。
期待しても無駄だってわかっていても、いつかきっと私もあの輪の中へという希望が捨てきれない。自分でも馬鹿だなって思う。
「そんなことないだろ!」
匠君の声が場に響き、映像がかき消されていく。
「朱音のご両親に言うべき言葉ではないかもしれないけど、見る目がないだけだ。勿体ない。朱音と一緒にいるのがどんなに幸せなのかわかってないのだから。俺は朱音と一緒にいてこんなにも満たされるのに」
「匠君……」
「俺はずっと朱音の傍にいるよ。呆れるわけない。むしろ、頼ってくれたって喜ばしいことだと思ってしまう。朱音にとって俺はそういう存在になれたって思うからさ」
匠君はそう言うとさらに強く抱きしめた。
「少しずつでいい。俺と一緒にやっていこう」
「一緒に……?」
「そう一緒。朱音と俺の二人で。ゆっくりでいいから甘えたり、頼ったりして。大丈夫だよ。俺は朱音がお婆ちゃんになっても隣にいるからさ」
「そんなにいてくれるの?」
「勿論。ずっといるよ」
匠君は笑いながら私の髪を梳くように撫でた。
それが心地よくて私は目を細めてしまう。まるで陽だまりが暖かくて落ち着く猫みたいに――
その時だった。「そっちは駄目だって! ロロン!! 頼む、今は駄目だってば!」という佐伯さんの叫び声が聞こえてきたのは。
「「えっ」」
二人でほぼ同時に右手に視線を向ければ、子犬が温室の壁を叩いている光景が広がっていた。
もこもことした毛をしている可愛らしい子犬はシベリアンハスキー。体の大きさから生後半年は経ってないくらいだろうか。
少し後方には、こちらに向かって走っている佐伯さんの姿があったので、私と匠君は二人で顔を見合わせすぐさまお互い体を離す。
やがて到着した佐伯さんは子犬をすぐさま抱きかかえたんだけど、匠君に向かって申し訳なさそうな表情をしていた。
「佐伯さん、犬飼っていたんだね」
「え? あぁ、そうなんだ。あの子犬は、尊の家で最近家族として迎えたハスキーのロロンだな。もう一匹ゴールデンレトリーバーの女の子で八歳のノノがいるよ」
「かわいいね。抱っこさせてくれるかな?」
「外行こうか」
「うん」
私と匠君は外に出て、佐伯さんと合流。現れた私達に、彼は「本当にごめんっ!」と第一声をかけてきた。
「ごめん、匠。邪魔しちゃって……」
「いや、大丈夫。それより、ロロン連れてきたのか?」
「父さん達が車に運んだ荷物の中に隠れていたみたいで、学校に着いたら車から逃げ出したんだ。首輪にGPSが付いたタグが付けているから、スマホで探していたんだけど素早くて。こら、落ち着け!」
佐伯さんの腕の中でロロンは脱出しようと暴れまくっている。
すごく元気があって可愛い。まだ小さいから何もかも新鮮に映っているから、色々なものに興味があるのかも。
「抱っこさせて貰っていい?」
「いいよ」
「ありがとう。ロロンかわいいね。男の子? 女の子?」
意外と重くて腕にずしっと来る重みだ。手を添えているから毛が当たっているんだけど、ふかふかとしている。
シロちゃんよりも短い毛だけど、もふもふしていた。
ロロンは一瞬きょとんとした様子をしていたが、すぐに慣れてしまったのか人見知りせず、私の頬を舐めたり制服を噛んでひっぱったりして遊んでいる。
「男の子だよ。元気過ぎて家でも暴れているんだ。ノノがいつも後を着いて見守ってくれている」
「ノノ、頭いいもんなー。そう言えば、尊。榊西祭には何時ころ行くんだ? あっちで会えるかなって思って聞こうと思っていたんだ」
「まだ決めてないよ。豊島が接客している時に行こうかなって思っている」
「接客していたら一緒に回れなくないか?」
「豊島とは回れないんだ。その……豊島、友達と約束しているようで……今日も男子校の学園祭に……先に誘ってくれた人が優先だから仕方ないよ」
佐伯さんはだんだんと声のトーンを落としていく。
「ごめん!」
「いや、いいんだ。豊島友達多いし、大勢で遊ぶ方が楽しいタイプだから。二人きりで遊びに行ったのは、匠から貰った水族館のチケット使った時かな」
「「えっ」」
チケットを匠君が渡したのは夏休み前だったので、私と匠君は声を上げてしまう。
「大丈夫。慣れているから。みんなとわいわい遊んでいる豊島も好きなんだけど、なかなか二人きりになるタイミングがないのが悩みなんだ。先週遊んだんだけど、中学の子達と大勢で遊園地だったし」
――豊島さん、彼氏欲しいとかよりも今は友達と遊ぶ方が楽しいってこの間言ってたっけ。
「あの……っ!」
がっくりと肩を落としている佐伯さんを見て、私はつい声をかけてしまう。
「こっ、今度良かったら四人で遊びに……」
佐伯さんが豊島さんのことを好きなのを知っているから、落ち込んでいる彼をを見て何かできればと思ったのだ。
その言葉には佐伯さんより先に匠君が反応した。
「えっ!? 四人って尊と豊島さんと朱音とロロンと!?」
「ロロン? えっと……匠君とだったんだけど、ごめんね。勝手に人数に入れちゃって……」
「違うんだ! まさか朱音からそういう類の発言があるとは思わなくて。行こう。なぁ、尊っ!」
「ありがとう、二人とも。是非」
佐伯さんに対して、ロロンが僕もというように「ワン!」とかわいく吼えた。