春ノ宮家の祖父
匠とは幼等部からの付き合いのため長く、数え切れないぐらいに訪れたことがある五王家。
馴染みのあるそこがどうしてだろう? 今はこんなにも恐ろしく感じてしまうのは――
あの後、国枝さんによって五王家へ連行され美智ちゃんの待つ部屋へと通された。
つい数刻前の制服姿の彼女とは違い彼女は着物を纏い、僕のテーブル越しに座っている。その少し斜めには国枝さんの姿が。
背筋を伸ばした凛とした美智ちゃんを前にし、僕はこれから閻魔大王の裁きを受けるかのような緊張感と不安に包まれていた。
「あ、あの……ミ、ミケを……」
ただでさえ張り詰めた空気なのに、美智ちゃんの飼い猫であるミケが僕の傍で「フシャー」と今にも飛び掛かりそうなレベルで威嚇中。
人に懐かないということは知っているし何度も会っているけど、こんなに歓迎されないパターンは初めてだ。
「ミケ、いらっしゃい。大丈夫よ。健斗様は女性にだらしないけど、私には手を出さないわ。何かしようものなら、即刻健斗様の腕を捻り上げ畳に伏せさせるから。それに国枝もいるもの」
前回美智ちゃんに腕を捻られ、壁に押し付けられたのを思い出し自分の体を抱きしめて震える。
そんな僕を見てミケは牙を剥きだしにして一吼えすると、トタトタと美智ちゃんの元へ向かった。そして、「にゃー」と愛らしい鳴き声を出し美智ちゃんにぐりぐりと顔を寄せて甘えだし初める。
全力疾走なんてしてないのに、心臓が早鐘だ。
「お、落ち着きたいからシロ呼んで貰ってもいい? ちょっと癒されたい」
「かまいませんが、癒されたいならミケがおりますわ」
「シロを…シロをお願いします……」
「わかりました。国枝。シロを呼んできて」
「はい」
控えていた国枝さんは了承すると、立ち上がった。
数分後、真っ白でふわふわの毛を靡かせ駆けてきたシロを見て僕は安堵の息を漏らす。
シロは漆黒の円らな瞳でじっと美智ちゃんを見れば、彼女が「健斗様がシロに用事があるそうよ?」と告げたんだけど、シロはこちらを一瞥しそのまま部屋を出ようとしてしまったので慌てて制止。
「ちょっと待って、シロ!!」
匠と付き合いが長いため、シロとの付き合いも長い。
そのため、人見知りなシロでも僕達の前にも顔を出す。
大抵、犬好きで犬を飼っている尊が中心になって遊んでいるので、僕はあまり遊ばない。だから、遊んでくれない相手と認識されているらしく立ち去ろうとしたのだろう。
「今度から遊んであげるから!! お願い傍にいて……」
これからこんな張りつめた空気の中にいるなんて思ったら泣きたくなったので、ちょっとだけ声が震えてしまった。
それがシロにも伝わったのか、「はふっ」と溜息のような声で鳴くと僕の傍に来て座ってくれた。
「匠と一緒でシロは優しいね」
手を伸ばしてシロを撫でれば、手入れの行き届いた綿毛のようなふわふわの毛に癒される。
外で遊んでいたのだろうか? ほんの少し暖かくお日様のにおいがした。
シロによって心がある程度落ち着いたので、撫でる手を止め美智ちゃんへと体の向きを変えると深く頭を下げた。
「ごめん」
「……思いの外早くお気づきになって驚きましたわ。正直、時間がかかると思っておりましたのに」
「じーちゃんに電話して話を聞いて貰ったんだ。僕はずっと甘えていた。さっきの露木さんの件もごめん。謝らなきゃって先走って……彼女は知らないのに。これから気をつける」
また自分のことばかり考えて匠を傷つける所だった。
今は国枝さんがあの時止めてくれて良かったって思う。
「どうやら本当に今回は理解されているようですね」
美智ちゃんがふぅっと深く息を吐きながらそう告げた時だった。
何やら廊下が騒がしくなったのは。
「お待ち下さい」「誰か旦那様と秋香様を」という人々の叫ぶような声に交じりながら、「いるのはわかっているんだ!」という怒号と乱雑に廊下を踏みしめる音が響いてきたので、この場にいる全員の顔色がさっと変わった。
「何かしら?」
美智ちゃんが立ち上がろうとすると、国枝さんが止めに入る。
「安全確認のため、美智様はお待ちになって下さい。今、見てまいります。健斗様も動かぬ……って、シロ!?」
「わふっ」
シロは弾んだ鳴き声を上げると、軽やかに廊下へと出ると「ワンワン!」と吼えている。
匠を見つけた時のように飛び跳ねているので、もしかして知り合いなのかもしれない。
こちらからは姿も見えないけど、嗅覚でわかるのだろうか?
「――まさか」
美智ちゃんが立ち上がると同時に、「羽里健斗!! 出て来い!!」という怒鳴り声が聞こえた。
「えっ、僕ぅ!?」
何の前触れもなく飛び出してきた自分の名に、僕は裏返った声を上げてしまう。
声の主がさっぱりわからない。
「この声、春ノ宮のお祖父様だわ」
「え、春ノ宮って……嘘でしょ……」
『春ノ宮家の女性には絶対に手を出すな』と親に耳にたこができるぐらいに聞かされている。
それは春ノ宮家が名家中の名家であり、うちの店のご贔屓さんだからという理由だけではない。
匠の祖父・春ノ宮貞治様が理由。
この時代に時代錯誤な男女交際禁止命令を発動し孫達に目を光らせているのが有名で、近づくものなら容赦なく圧をかけられてしまうのだ。
春ノ宮に目をつけられては堪ったもんじゃないので、各々自ら地獄に進むようなことはせず大人しくしている。たとえ、どんなに可愛い子だろうとも。
だから、匠もきっと黙っているはず。
――別に恋愛が悪いなんてことはないのに。
そうぼんやりと思えば、足音が近づきぴたりと止まったので弾かれたように顔を上げた。
「わふっ!!」
「シロ、待て。遊ぶのは後にしろ。今はどこぞの馬の骨を成敗するのが先だ。なんなら一緒に成敗するか? うちの孫に手を出した不届き者を」
現れた人物を見て「あっ……僕詰んだ」と思った。その人は着物姿の自分の祖父母達と似たような年代の男性の姿。
うちのじーちゃんもガタイが良いけど、匠のお祖父さんも同様に恰幅が良かった。
太い眉に竜のように鋭い眼光と不機嫌に曲がった唇、白髪が多めな前髪は撫でつけている。
まるで武士のように堂々としていて迫力が凄い。オーラなんて見えないけど、すごくひしひしと圧迫するものを感じてしまう。美智ちゃんの怖さが可愛いくらいに。
「おい、貴様」
地を這うような声に、ガタガタと歯が鳴ってしまう。
それでも否定しなきゃ! と、動きの鈍い唇を開いた。
「ち、違います!」
「羽里の者ではないのか」
「いえ、合っていますが違うんです。僕は美智ちゃんとはなんでもないんです。美智ちゃんと付き合ったら心臓が持ちません」
「当然だ。美智は可愛いからな」
「……」
そういう意味で心臓が持たないと言ったわけではないのだが。
「お祖父様、落ち着いて下さい。健斗様はお兄様のご友人ですわ。ほら、呉服屋の羽里の。私、着物を選ぶのを迷っていましてアドバイスをいただくために一緒に登校をしただけですわ。健斗様は生徒会役員ですので、お兄様同様忙しい身ですので」
「本当か?」
くわっと目をかっぴらかれ、僕は壊れた玩具のように何度も首を縦に動かす。
「では、なぜここにいる?」
「着物を選ぶのを手伝って頂いたお礼を」
「わしに隠れて付き合っているなんてことはないだろうな」
「えぇ、勿論ですわ」
「なら良い。学生の本文は勉学。恋愛なんて不要だ」
「不要ってことはないと思うのですが……」
黙っていればよかったのに、口から出てしまった言葉。
やばいと思った時にはもうとき既に遅し。匠のお爺さんは、般若のような顔を僕へと向けてしまっている。
「なんだと?」
「ど、どうして学生なら恋愛しちゃ駄目なんですか? 確かに勉強は大事です。でも、恋愛も大切だと思います。人を好きになるってよし好きになるぞ! と思ってできるんじゃなくて、いつの間にか自然にできることだし……それに大切な人のために強くなるってこともできると思うんです。僕は見る目がなかったけど、匠は違う。匠はちゃんと相手のことを想って守っている。それが悪いことなんて思えないです」
「なんだと匠が!? 付き合っている子がいるのか!」
「あっ……」
「匠はいるか!」
ぐるりと身を翻し室内を出ようとした匠のお祖父さんの腕を僕はすぐさま掴んだ。
またやってしまった……
「待って下さい! 匠はいま露木さんと映画デート中なので邪魔しちゃだめです」
「デ、デートだと……っ!? まさか、密室で二人きりではないだろうな」
「映画館ですから二人きりではないと思いますけど……」
「私は孫を信じている。初対面同様なのに頬に接吻なんてするような性格ではない。だが、あの男の血を引いているから心配なんだ」
「「え?」」
僕と美智ちゃんはお互い顔を見合わせて首を傾げる。
あの男というのは誰なのだろうか? 匠のお祖父さん? それと匠のお父さん?
「映画といったな……」
匠のお祖父さんは呟くと緩んだ僕の手を振り払い去っていく。
「健斗様」
美智ちゃんは一睨みするとすぐに「ミケ。健斗様を見張っていて」と残し後を追いかけていくので、僕も後を追おうとすれば、「フシャー」と威嚇したミケが近づいて来た。
廊下から漏れてくる太陽の光を背負い、毛を逆立たせライオンの如く獲物を追い詰めていくかのように。
「ご、ごめん、ミケ。悪い気はなかったんだ……だから、落ち着いて。怖い……」
そう叫んだ僕の声も虚しく、ミケとの距離は無情にも縮んでしまった。




