六条院の麗しき女王様
「お兄様、よろしいでしょうか?」
自室にて。
宿題をしていたら、美智の声が障子越しに聞こえてきたので俺は振り返った。
廊下を照らしている灯により、灰色のシルエットが浮かんでいる。
――また辞書か?
美智は電子辞書も持っているが紙派らしく、学校に置き忘れてきてしまった時には俺の部屋に借りにくる。
以前、俺が不在の時に辞書を借りに来てポエムを見つけたという過去があり、それ以来は勝手に入ることはしないようだ。
基本的に俺は学校でも家でも電子辞書派。
だが、電子辞書が使えない場合などの時のために紙の辞書も部屋に置いてある。
「入っていいぞ」
声をかければ、ゆっくりと障子が開かれた。
「お話がありますの。お時間大丈夫ですか? 少々長くなるかもしれません」
「話? 構わないぞ。適当に座っていてくれ」
俺はそう告げると、今まで使っていた学習机の上に置かれた教科書類をさっと片付けた。
そして椅子から立ち上がると、美智と向かい合うように座った。
「話って、もしかして健斗のことか?」
「えぇ」
なんとなく予想が出来ていた。
美智にとって朱音は大切な友達だ。昼間の件は美智にとっても見逃すべき状況ではなかったのだろう。
寺で反省してきたかと思えば、バージョンアップした健斗が周りを顧みず大はしゃぎ。
何も思わないわけがない――
「明日から周りが少し騒がしくなるかもしれません」
「騒がしく?」
「えぇ。健斗様をこのまま放っておくわけには参りません。ですので、ちょっと考えていることがあります。羽里家には隼斗様経由で伝えて頂いて許可を得ていますわ。勿論、五王の方にも」
「危ない事とかじゃないだろうな?」
「ご安心を。私には何もダメージはありませんわ。うまく立ち回りますので」
――『私には』か……。それは健斗にはあるということなんだろうな。
「何をするつもりだ?」
「それは明日のお楽しみですわ」
美智は不敵な笑みを浮かべた。
「悪いな。本来なら健斗の友人であり、会長職の俺がやらなきゃならないことだ」
「いいえ、今回の件は私だから出来る事があります。これで懲りて下さればよろしいのですが……あの方、変な方向に前向きですものね。今を楽しむということは決して悪いことではありません。ただ、あの方は極端なんです。ちょっと周りを見る事も大事なことですわ」
頬に手を当てた美智は深い溜息を吐き出す。
確かに美智の言うとおり、今を楽しむということは悪いことではない。
今に重点をおかず、過去や未来に囚われ今の瞬間を楽しめない時もあるからだ。
「私、一つだけ気がかりなことがありますの」
「なんだ?」
「しばらく健斗様に時間を割いてしまうことになるので、朱音さんや棗達と遊ぶ時間が減ってしまうことですわ。棗達には事情を話す予定ですが、朱音さんにはお伝えできませんし」
「そうだよな……」
「ですから、健斗様の件が片付いたら朱音さんといっぱい遊びますわ。それこそお兄様が入る隙なんてないぐらいに!」
「やめろ。入る隙は作ってくれ。シロにも抜かれそうなんだよ」
夏休みの間で朱音との距離は縮まったが、それは俺だけじゃない。
物凄い勢いで距離感を無くしているシロもそうだ。
朱音のことを物陰から隠れて見ていたのが嘘のように、今では朱音と仲が良い。
彼女が遊びに来ると玄関まで迎えに行き、俺が朱音を送る時も必ず着いて来るくらいに。
「お兄様、今がチャンス。頑張り時ですわ」
「どういうことだ?」
「朱音さんが恋愛に少し前向きになったのです。この間、朱音さんと買い物に行った時に偶然、豪さんとお会いしましたの」
「豪と?」
「えぇ。すぐにあちらも用事があったのでお別れをし、私と朱音さんは甘味処へ行きました。その時にあんみつを食べながらおしゃべりをしていたら、朱音さんからどのような人がタイプかと尋ねられまして」
朱音は豪が美智のことを好きなのを知っているからそれで気になったのかもしれない。
豪もわざわざ朱音に挨拶に来たしな。
「お答えした後に、私も朱音さんに聞いてみたのですわ」
「朱音はなんて?」
「タイプは良くわからないけど、好きになるなら私やお兄様のような人が良いとおっしゃっていましたわ」
「お、俺と!?」
「勝手にねつ造しないで下さい。私やお兄様のようなですわ! よ・う・な!」
これはかなりの進歩だと思う。
恋愛とは無縁と言っていた朱音が、少しずつ前向きになっている。以前の彼女なら、決して言わなかったであろう。
実際この耳で聞いてみたかったのが悔やまれるが、俺にもチャンスが到来!
「ですから、健斗様のことはこちらに任せて頑張って下さいね。ようなが取れるように祈っていますわ」
美智はそう俺に言うと柔らかく微笑んだ。
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美智に朱音が恋愛に少し前向きになっていると教えて貰ったが、朱音との仲を深めることだけ考えるわけにはいかない。
俺は美智の兄だし、健斗の友人なので美智がやろうとしている事も気がかりだからだ。
――美智は一体何をするつもりなのだろうか?
翌朝。学校へと向かった俺は、ぼんやりと健斗と美智のことを考えていた。
健斗のクラスに顔を出そうかな? と思いながら、昇降口で靴を履き替えていると何やら騒がしい事に気づく。
「なんだ……?」
すぐ傍にあるホール付近が音の発生源のようで、色々な声が混じり合っていた。悲鳴のようなものから、怒号のようなものまで。
もしかしてトラブルかもしれない。会長なので、揉め事なら対処しなければならないため向かうことに。
足早に進めていけば、ホールには人の垣根が出来ていた。学年も学科も関係なく、何かを囲むように人々は俺に背を向け何かを見ていた。身長が高い俺でも、こんなに多い人数では中心人物を確認できないので壁のようになっている生徒達に声を掛けた。
「悪いが通してくれ」
「五王様!」
「会長!」
声と共にさーっと人が十戒を彷彿させるかのように避けてくれたため、視界がはっきりとした。
「ん? あれは美智と健斗じゃないか」
扇子を広げて優美に微笑んでいる美智と、眉をハの字にし困惑していることを前面に押し出している健斗。
双方の姿が対照的だ。
二人の前には男子生徒が二人に女子生徒が三人立っていて、その双眸は漏れなく健斗へと向けられていた。
何故か、刺すように鋭い瞳で。
彼らは美智の信奉者達の中でもリーダー格の人達として有名で数多い信奉者達をまとめ統括している者達だ。
ここでも家柄が関係あるため、リーダー格となっている彼らは全員名家の出身者である。
「匠君」
「ん?」
声をかけられたのでそちらを見れば、隼斗と臣、それから尊の姿があった。
「隼斗達じゃないか! 一体何があったんだ?」
「美智ちゃんから聞いてない?」
その言葉に、俺は昨日の件が頭に過ぎった。
「聞いているけど何をするかまでは聞いていないんだよ。みんな聞いているのか?」
「俺達は隼斗にちょっとだけ」
「大丈夫なのか? 危ない事はしないとは言っていたが」
「やっぱり心配?」
「それは妹だからな」
「美智ちゃんと匠君も二人共、優しいよね。お互いを気にかけている。それなのに僕達は……」
隼斗は瞼を伏せて首を左右に振った。
「隼斗……」
きっと隼斗も色々と思う所があるのだろう。
隼斗は羽里は健斗が継ぐべきで自分はサポートすると決めているようで、将来のために店の手伝いをしている。
「匠。状況を説明しますか?」
「あぁ、頼む」
副会長である臣が何もせずただ傍観しているということは、差し当たって放置で構わないということなのは察せる。
責任感がある臣が職務放棄なんてするわけがないからだ。
「ご覧のとおり、美智ちゃんと健斗が一緒に登校してきただけです。……まぁ、その登校自体が六条院では激震ものなのですけどね。六条院の麗しき女王と女性問題で評判の良くない健斗。これを美智ちゃんのファンが良く思うわけがありません。ただでさえ、夏休み前の騒動で美智ちゃんの腕を掴んで美智ちゃんファンを敵に回していましたから」
「あー、そういうことか」
夏休み前の騒動により、健斗は美智の信奉者を完全に敵に回している。
信奉者にとって美智は高嶺の花。
夏休み前の騒動で人前で美智を糾弾した上に触れたせいでもともと燻っていた火種。
それに美智が健斗と一緒に登校という火薬を投入した結果、美智の信奉者は爆発し完全に健斗を害だと判断し怒りの矛先を健斗へと向けた。
これが臣なら全く逆の反応だっただろう……信頼関係って大事だ。
――美智にとって健斗は隣に立つには相応しくないと思っているんだろうな。健斗、人の婚約者にも手を出して同性からの評判も悪かったし。
「清らかな美智ちゃんに、チャラい健斗。そりゃあ、美智ちゃんファンキレるよね。美智ちゃんって生粋のお嬢様だから男性と二人になる場面なんてなかったのに、二人きりで登校してきちゃったんだから」
尊は憐れみを含んだ瞳で健斗を見つめている。
「兄さんの毒牙に美智ちゃんが狙われていると美智ちゃんのファンに判断された。そして朝から囲まれ大騒ぎ。まだ登校して無い生徒もいるからこれからもっと大事になるだろうね」
「しかし、美智ちゃんはおもしろい方向から攻めてきましたね。確かにこれなら健斗の周りに女子生徒が集まらなくなります。揉めごとを避けるために健斗を避けるでしょう。美智ちゃんには親友の才賀さんもいる。そうなれば女子の派閥の三分の二を敵に回すことになりますから――」
臣はクスクスと笑いながら、健斗へと視線を向けた。
「美智様、発言することをお許し下さい。どうして羽里様なんかとご登校を?」
美智達の前にいた男子生徒が口を開く。
すると、すかさず健斗から「なんかって酷くないっ!?」という抗議の声があげられたのだが、美智達を囲んでいた生徒達から鋭い視線が飛んできたので健斗はすぐさま口を結んだ。
「それは健斗様に聞いて下さいませ」
「意味深に言わないで! みんな誤解しちゃうじゃんか。朝、美智ちゃんが押しかけて来ただけなのに!!」
健斗がそう叫べば、周辺がざわつく。
「美智様に迎えに来させただと……?」
「誰も頼んでないってば~。もぉ、ちょっと落ち着いてって。みんな怖いよー。だから、美人な子って苦手なんだよね。僕はふんわりとして可愛い女の子が好きなの。あっ、君みたいな子すごくタイプーっ! そんなに眉を吊り上げて目を細めないで。せっかく可愛い顔なのに勿体ないよ。ねぇ、今度一緒に遊ばない?」
あろうことか健斗は、目の前にいた美智信奉者の一人である女子生徒に向かって微笑み口説き始めてしまった。
女子生徒は胸元まで伸びた長い髪を二つに分けて結び、毛先を緩く巻いている。
ちょっと丸みを帯びた輪郭に大きな瞳と小さめの血色の良い唇。スカートからのびている鹿のように細く長い足で、身長も健斗が好むちょうどよさ。
――相変わらず自分好みの女の子には弱いんだよな。空気なんて関係ないというメンタル凄い。
「兄さんってさ、ほんと女の子大好きだよね。この状況でもそこしか見てないなんて」
「健斗好みだもんなぁ」
モデル系ではなくアイドル系。健斗が好むタイプと真逆に位置しているのが美智だ。
「美智様。羽里様は美智様の隣に立てるような人間ではありません。夏休み前に美智様の腕を掴みました。健斗様は婚約者がいるのに構わず手を出すゲスい男なんです。美智様に相応しくありませんわ」
「ゲ、ゲスいって……」
衝撃的すぎたのか、健斗は肩を落とし瞳に涙を浮かべている。
自分の好みの子に今まで浴びせられたことのないような台詞を言われたせいだろう。
「なんで朝からこんな叩かれなきゃならないのっ!? 婚約者がいるっていっても、彼女達だって僕の方が好きだって言ってくれたんだよ? それに、婚約者と居てもつまらないから僕と遊ぶ方が楽しいし僕の方が好きだからって。ほら、僕は全然悪くないじゃん」
叫ぶようにしれっと余計な事を告げてしまった健斗のせいでホールの空気が殺伐とし始めてしまった。




