外れた仮面
――早く来すぎちゃった。
いつもよりも塾に三十分も早く到着してしまい、私は手持ち無沙汰のためスマホをいじりながらロビーのソファに座っていた。
授業開始まで余裕があるため自販機で飲み物を購入したり、ソファに座って団欒をしている生徒達の姿がちらほらいる。
昨日、佐藤さんに小梁さんの件を聞き、私は直接本人に伺うことに。そう決断したのにちょっと怖い……相手が何を考えているかわからないから。
昔はおばあちゃんに頼っていたけど、今は星となって見守ってくれている。だから、自分の事は自分で解決しなければならない。誰も頼る人がいなく、ずっとそうやって生きてきたのだ。
でも、今はそれも変わってきている――
『何かあったら真っ先に俺の名前を呼んでくれ。お化け屋敷で俺に頼ってくれたように。朱音のためなら、俺は進んで騒動にも巻き込まれるよ』
そう言ってくれる匠が傍にいる。
匠君はとても頼りになるし優しい。きっと今回の件も話したら力になってくれる。
だから尚更駄目なのだ。
五王の大切な跡取りでもある彼に何かあったら、私はどう責任を取っていいかわからない。
名のある財閥の御曹司と平凡な私。秤にかけるまでもない選択肢だ。
「……わかっているのに」
匠君に甘えて頼ってしまいたい。
彼の事を考えていたせいか、無意識にスマホを操作していたらしく、ふと手元を見れば通話画面になってしまっていた。
「えっ、え?」
慌ててスマホを耳に当てれば、『朱音?』と匠君の声が耳朶に聞こえてしまい、固い決意がどんどん溶けていく。優しい声音にこれから小梁さんに確かめるのが不安だということも全て包み隠さず言いたくなってしまう。
『珍しいというか、初めてじゃないか? 朱音から電話してくれるなんて』
「あ、あのね、匠君。私、実は……」
裏がった声。続く言葉がなかなか出ない。どうしても自分でブレーキをかけてしまい、最後の最後で躊躇ってしまう。
『もしかして何かあったのか……? 朱音、ちゃんと言ってくれ』
「露木さん?」
左手からかけられた声に、私はびくりと体を大きく動いてしまった。
弾かれたように顔をそちらへと向ければ、小梁さんが立っていたので自然と肢体が強張っていく。
「もしかしてその電話、あの五王の御曹司かな?」
そう尋ねて来た小梁さんの瞳が冴え冴えとしていて、言い知れぬ恐怖を抱いた私は、匠君を巻き込んでは駄目だと「ごめん、授業の準備があるから!」と咄嗟に電話を切ってしまった。
「邪魔しちゃったかな?」
「……小梁さんに聞きたい事があるの。いい?」
「いいよ、まだ授業開始まで時間あるし。着いてきて」
にっこりと微笑んで身を翻した小梁さんに対し、私は警戒しながら立ち上がると彼の後を追った。
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小梁さんに連れていかれたのは空き教室。室内には机などは一切ないため、いつも使っている教室と広さが同じぐらいなんだけど広々としていた。
私と小梁さん以外居ないけど、決して人気のない所ではなく廊下に面したすりガラスの窓からは人の通りが窺える。
「その様子だともしかして気づいちゃったんだね」
「小梁さん、琴音の事が好きだから私に近づいたの?」
「そうだよ」
きっぱりと言い切った台詞に、私は「そう」とだけ告げた。
「露木さんと仲良くなれば、必然的に琴音ちゃんとも仲良くなれるって思ったから。ねぇ、あの御曹司って僕と同じ狙い? って、露木さんにはわかんないかー。琴音ちゃんに腕組まれて家に招かれたりしてムカつくんだよね」
「匠君は違うよ」
「へー。あの御曹司を信じているんだ。まぁ、いいや。僕にとってはどうでもいいし。それよりさ、知ったからには勿論協力してくれるよね。琴音ちゃんとのことを」
「え」
どうして協力するという流れになってしまったのかわからず、私は間の抜けた声を出してしまう。
「とりあえず、琴音ちゃんの番号教えて? あっ、あと写真も欲しいなぁ。スマホに入って入るでしょ?」
そう言って小梁さんは手を差し出してきた。
どうやらスマホを出せという事らしい。
「人の番号を勝手に教えられないよ。それに琴音の写真なんて一枚も入ってないし」
「普通姉妹なら一緒に写真ぐらい撮るでしょ?」
「ないよ。うち、そんなに仲良くないから」
小梁さんは一体どんな姉妹仲を想像しているのだろう。うちはそんなに仲が良い方ではなく、むしろ悪いほうなのに。
琴音を見て来たのに、わからないのだろうか? それとも私と琴音は傍から見たら仲が良い姉妹にに見えるのだろうか?
「残念。露木さんが僕に協力してくれるなら、価値がある子だから良好な関係を築けたのになぁー。協力してくれないなら――」
そう言って私へと伸ばされた手から逃れるように後ろへと退く。
心臓がバクバクとする中で見つめた顔は、能面のようだった。
「待って! 本当にうちは姉妹仲が良くないの」
「琴音ちゃんに僕は相応しくないと思っている?」
「私、そんなこと言ってない……」
ふとここで小梁さんは人の話を聞かない人だったと思い出す。
どう伝えれば理解して貰えるかわからず頭の中が真っ白になりかけていると、突然ガラガラと音を立てながら教室のドアが開かれ廊下の光が室内に零れてきた。
「人の話し声が聞こえてくると思えば、小梁君と露木さん。二人とも一体何をしているの? 鍵はかかってないけど、空き教室は立ち入り禁止よ」
室内へと足を進めた女性は、そう告げながらこちらを見詰めている。
年齢は十代後半から二十代前半だろうか。ワイシャツにカーディガンを羽織り、ひざ下のプリーツスカートという恰好をしたその人は肩から鞄を下げていた。
彼女はここの塾でバイトしている大学生だ。講師の手伝いをして授業にも参加しているため、私達とも顔なじみとなっている。
「すみません、先生。ちょっと露木さんに相談ごとがあって」
「小梁君と露木さんなら教室を荒らしたりしないと思うけど、先生達に見つかったら怒られちゃうから退出した方がいいわよ?」
「はい。今すぐに」
小梁さんはそう口にすると私の方へと顔を向けてきた。
「じゃあ、行こうか?」
「わ、私、自販機寄って行くから」
用事もなかったがこのまま小梁さんと教室に行くのは多々不都合があるので、私はそう小梁さんに告げる。そして先生に会釈をし、そのまま先生の横にある開けられた扉から逃げるように飛び出した。
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「諦めてくれたのかなぁ……」
私がぽつりと零した言葉は、天を覆っている黒のヴェールが聞いてくれていた。
等間隔で足元を照らしてくれている街灯に導かれるように、私は塾から家へと帰宅するために歩いていた。
あれから小梁さんが何かを言ってくるような事はなく、そのまま本日の授業が終わったのでちょっと拍子抜け。絶対に何か言われると思ったんだけど。
――これで終わりならそれにこしたことはないよね。家に入ったらお風呂に入って夏休みの宿題をして……え?
帰宅した時のことを考えていると、ふと雑音が気になった。
塾が終わった今の時間帯は、犬の散歩や帰宅した人と時々すれ違う程度なので、往来が多いわけではない。だからつい気配や物音に敏感になってしまう。
――人?
私の足音に交じり、後方から誰かの足音が交じり聞こえてきたのだ。
もしかしたら後方にたまたま同じ方向の人がいるのかもしれない。そう思って早鐘になってしまっている心臓を押さえ振り返れば誰もいなかった。
「気のせい? でも、確かに……」
身体が戦慄き始め、私は鞄に付いている匠君のお父さんに貰った防犯ブザーへと手を伸ばすと握り締める。
――誰か……!
頭を掠めたのは匠君の姿。
そのため、私は肩から下げていたトートバッグに手を伸ばしスマホを取れば、衣の擦れる音と共に人影が飛び出してくるのを視界の端に捉えた。
それが見知った人物だったので、私は目を大きく見開いてしまう。
「小梁さん!?」
驚きの声を上げると同時に、私が手にしているスマホへと小梁さんが腕を伸ばしてしまったので、それを取られそうになり反射的に身を翻し後退った。
「待って。話を聞いて! お願いだから。私と琴音は本当に仲が良くないの! だから、スマホなんて取っても……」
「露木さんが悪いんだよ。協力してくれないから」
呟かれた冷たい声に、私は首を横に振る。
違うと否定しなければいけないのに、侵食していく恐怖にガチガチと歯が鳴るぐらいまで戦慄き、上手く言葉が出て来ない。逃げなきゃ……そう思うのに、足が地面に縫い付けられたかのように動く気配がない。
その時だった。
犬の吠える声と共にカンカンという金属を引きずるような音が近づいてくるのが聞こえてきたのは。
視線を自宅がある側の道へと向ければ、街灯に照らされ何か黒い影がこちらに向かってくるのが見て取れる。
段々とはっきりとしてきたそのシルエットは、私が待ち受けにしている可愛いふわふわの生き物だった。
「シロちゃん……!?」
シロちゃんはリードを引きずりながら真っ直ぐこちらに向かってくると、私と小梁さんの間に割って入り態勢を低くし唸った。今まで聞いた事のないシロちゃんの声音で、私は目を大きく見開く。
可愛いシロちゃんがまるで狼のように凛々しく見える。
「……なんで、犬が」
突然現れたシロちゃんの出現に、小梁さんが動揺し少しずつ後退り始める。
シロちゃんは大型犬の上に、歯をむき出しにして唸っているので小梁さんも怯んだのだのかもしれない。
――どうしてシロちゃんが!?
そう思っていると、「朱音! シロ!」という叫び声が木霊した。