朱音と美智
匠視点
「本当に頂いてもいいの……?」
「えぇ、勿論! 貰って下さると嬉しいわ」
部屋の片隅に置かれている段ボールの前にて、朱音と美智が話をしていた。
ここは父用の書庫で、主に仕事用だったり、学生時代に使用した私物の本が置かれている。
そのため、屋敷の書庫とは別。
部屋も施錠されているため、あの絵本を読みたければ父かスペアキーを持っている母に尋ねなければ、開けて貰えない。
だが、それを知られるのは嫌なので、五王の私立図書館へと向かう事に。
ちょうど生徒会の用事で学園へ向かわねばならなかったから、帰宅ルートに入っていたのだ。
――しかし、全く減らないもんだな。
と、ぼうっと眺めている段ボールの山。
それは言わずもがな、父が描いた絵本の返品。
それが五つ程ある。一体どれだけ刷ったというのだろうか?
商売の勝算を読む事に関しては並外れた能力があるのに、どうしてこれに関しては全く発揮しなかったのだろう。
未だに疑問に思えて仕方がない……
『ウサギの冒険』
父が描いたあの線がガタガタで色塗りも雑な自信作の絵本。
俺も美智も興味を引かれるものではなかったので、それを見たのは子供の頃に一度だけ。
けれどもなんだか無性に懐かしくなり、図書館へ向かえば朱音と遭遇した。
児童コーナーにて、母親に絵本を読んで貰っている二人の女の子を羨ましそうに眺めていた彼女。
けれども、その瞳はどこか諦めも含んでいるようだった。
まるで誰もいない世界に、たった一人だけ生きているような……
そんな雰囲気を醸し出していたので、つい声を掛けてしまった。
その時に朱音があのウサギの絵本を探していたという事を知る事に。
あの絵本を好き? あれを? と、最初は疑問に思ったが、それが縁となり現在に至る。
――……本当に好きなんだな。朱音は。
目の前にいる朱音を見ている俺の顔が自然と綻んでくる。
彼女は胸に貰った絵本を抱きかかえていた。
もう離さないというように大切にぎゅっと。
しかも、表情はどこかほっとしているようだ。
そんな様子なので、誰でも気づくだろう。あの絵本を朱音が好きだということを。
ただ、朱音の顔は緩んでいるけれども、困惑も交じっているのが気になる。
きっと気にしているのだろう。こちらとしては在庫が山ほどあるから、一冊でも引き取って貰えてありがたい。
それに何より作者である父が喜ぶだろう。
たった一人だけ。いや、たった一人でも自分の描いた作品を好んでいて、大切にしてくれていたのだから――
一応、本を朱音に渡すために持ち主である父にも確認する必要があった。
鍵を借り、部屋の中に入らねばならなかったし。
そのため、つい先ほど電話をかけたのだが、あの人ときたら狂喜乱舞っぷりがスマホ越しにも伝わってくる始末。
音割れを起こすぐらいにまで叫んで、今すぐに帰宅しそうな勢いだったので釘を刺して置いた。
それにテンションが上がりまくっていたから、きっと朱音にプレゼント攻撃するかもしれないと思いその件に関しても厳重注意。
ただただ願うのは、あの人が大人しく帰宅し、ちゃんと紳士的に挨拶をしてくれる事だ。
間違っても暴走なんてして欲しくない……
「お兄様っ! 何か袋を。このままでは持ち帰るのが大変ですわ」
「ん? あぁ、そうだな。今、持ってくる」
俺は美智に言われるがまま取りに向かおうとすれば、朱音に声をかけられてしまう。
「匠くん。私、このままでも……」
「気にするな。たかが紙袋取ってくるだけだ。手間なんてかからない」
「ごめんね」
眉を下げた朱音は、本当に申し訳なさそうに謝罪。
それに俺は胸を締め付けられると同時に、前もって用意しておけば良かったと後悔。
朱音とは数時間前に図書館で出会ったばかり。
そんな短時間の付き合いでもわかるぐらいに、彼女は自尊心が少し低いように感じる。
他人の視線が気になったり、自分を周りより下に評価していたり、必要以上に気を遣う。
心当たりはある。朱音との会話から推測するに、きっと朱音の両親と妹が原因だ。
――露木琴音。
俺と同じ六条院に通っている妹は、どうやら朱音の両親に溺愛されているらしい。
それとは対照的な朱音への接し方。
露木琴音の件は名前と多少の事柄は知っているが、あまり詳しくはわからない。
学年は俺より一つ下。美智と同じ高校一年生。
エスカレーターの六条院に外部からピアノの推薦枠で入学。
俺が知るのはこれぐらいだ。
「……あぁ、そうだ朱音。何か好きな食べ物とかあるか? 夕食に伝えておく」
「まぁ! お兄様ってば、それいい考えね! 料理長は腕がいいから、なんでも美味しいの。でも、好きなものはもっと美味しく感じるわ。 朱音さんは何が好き? 遠慮せず言って下さいね」
「……?」
俺達の問いにきょとんとしたかと思えば、朱音は小首を傾げた。
「私の好きな食べ物……? 私、今って何が好きなんだろう……そんな事を聞いてくれたのは、亡くなったおばあちゃんだけだったから……昔はプリンが好きだったけれども……」
その朱音の言葉に、美智の顔色が一瞬曇った。だが、すぐに表情を戻す。
俺もつい掌を握ってしまったが、なんとか表情筋は動かさずに済んだ。
「でしたら、探しましょうよ! 私も昔はどら焼きが好きでしたが、今は変わってしまいましたの」
「お前、一時期憑りつかれたかのように食ってたもんな。どら焼き」
「お兄様、煩いです! ねぇ、朱音さん。食べ物の好みは変わりますし、今好きな食べ物探しましょう。私、お勧めの甘味処がありますの。ですから、今度一緒に参りましょうね。すごく美味しいしですし、内装も可愛らしいのよ」
ふふっと笑いながら美智は朱音の瞳を見つめ、ゆっくりとそう言葉を紡ぐ。
それには俺も頷き同意。
「そうだな。一緒に行こう」
そう告げれば、
「え? お兄様は結構ですわ」
という、さっきの朱音に対しての優し気な口調とは全く違う、冷めた声が耳に届いた。しかも、手で追い払うような仕草付きで。
相変らず可愛げがない妹だ! どうしてこれが学園では、六条院の麗しき女王なんて呼ばれているんだ……理解できない。
「なんでだよっ!? なんで俺はのけ者なんだ!?」
「私は朱音さんとご一緒したいのであって、お兄様とはご遠慮させて頂きたいのですわ。それともなんですか? お兄様は私とお出かけしたいのかしら?」
「冗談だろ。なんでお前と外出したいんだよ…いつも荷物持ちさせるじゃないか。しかも、すぐ目を離すとどっか行くし」
というか、そもそも朱音は俺が最初に図書館で出会ったんだぞ?
それなのに、なんで美智がしゃしゃり出て来るんだ!?
美智が朱音の友達として仲が良くなってくれる事は、いい事なのかもしれない。
視野が広くなるだろうから、家中心の世界が外に向くかもしれないし。
けれども何故だ? ……この先、俺にとってはあまり良い予感がしないのは。