悟り開くまで帰って来ないで下さいね
匠視点
「匠君、ごめん……兄さんが馬鹿な事を……露木さんにも迷惑を…この場に彼女がいなくてよかった。居たら絶対に傷つけていたから……」
隼斗はそう口にすると、深々と頭を下げる。
そして、ゆっくりと上体を起こすと健斗の方へと鋭い視線を向けた。
「兄さん、今すぐ謝罪して。馬鹿だ馬鹿だと思っていたけれども、本当にどうしようもないんだね」
「酷っ。どうしてみんな僕の事を馬鹿って言うわけっ!?」
「本当の事だよ。人前で美智ちゃんに苦言って。しかも、完全なる濡れ衣。五王家敵に回してどうするの? 羽里家の事はちゃんと考えているわけ?」
「今、家とか関係ないじゃん」
「あるよ。兄さんは羽里の人間で跡取りなんだから。もう兄さん夏休みじゃなくて今すぐお爺様のお寺に行きなって」
「え? なんで急に四国のじーちゃんの話がっ!?」
「兄さんには黙っていたけど、兄さんの素行をみんなで話し合っていたんだ。それで家族会議で兄さんは夏休み期間中、ずっとお爺様の寺に行くことが決定したんだよ」
「勝手に決めないでよー。僕、夏休みは女の子達と予定組んであるから無理! 別荘行く約束したし。それに四国のじーちゃんマジで怖いから僕が苦手だって隼斗も知っているじゃん」
「約束? そんなの勿論キャンセル。修行頑張ってね。あっ、スマホ没収だよ。大丈夫。黒電話あるから」
「スマホ没収っ!?」
「当然。終業式後の予定だったけれども今すぐ行きなよ。大丈夫。寄付金いっぱい積んでいるから、ある程度融通聞くって。テストもあっちで受けられるんじゃない? あっ、それにお爺様もそろそろ屋敷に到着しているから」
「もう来ているのっ!?」
「こっちで会合があるから今日からうちに滞在して、終業式が終わった兄さんと一緒に四国に戻る予定になっていたんだ」
「嘘でしょ……」
顔を青ざめた健斗は、視線を彷徨わせると足を踏み出した。
その方向は教室のある方向ではなく、昇降口の方。
あっ、逃げるな。これと思ったと同時に、物凄い勢いで健斗がホワイトボードの方へと引き寄せられた。
たかと思えば、ガタンという大きな音が場に浸透しホワイトボードが戦慄く。
「は?」
一瞬何が起こったのかわからなかった。
それは俺以外も同様だったらしい。皆、呆気に取られたような表情でホワイトボード側へと視線を固定させている。
それもそうだろう。そこにあったのは、刑事ドラマのワンシーンのようなもの。
左手で犯人の肩を壁に押し付けるようにし、もう片方の手で犯人の腕を捻り揚げているような図で美智が逃げようとした健斗を捕まえていたのだ。
「美智様素敵!」
「カッコイイ!」
などという、男女問わないギャラリーの黄色い歓声が場を包み込んだ。
だが、兄である俺は違った。
「みっ、み、美智…っ!?」
思いもよらなかった妹の行動に、動揺を隠しきれず。
日常的にあまり思い出す事が無かったが、美智は古武術や長刀などの武芸を習得している。
勿論、華道や茶道、日本舞踊なども指南を受けているが……
それは春ノ宮の祖父のせいで。
自分の娘――母の件があり、箱入り娘として可愛く守り育てるだけでは駄目だと痛感。
そのため、溺愛する孫娘の害虫駆除を行うだけではなく、武術を学ばせ自分の身を自分で守らせつつ、害虫駆除も己で出来るようにということらしい。
祖母の実家が古武術の道場を開いているので、物心つく頃から俺も美智も強制的に通わされていた。
まさか、それがここでそれが発揮されるとは……
「逃がしませんわ。朱音さんへの謝罪がまだです。私は頭がふわふわの健斗様に何を言われても構いませんし気にもとめません。ですが、朱音さん――私の友人に対しての無礼な発言は許しませんわよ」
「ちょっ、痛いって! 美智ちゃん!」
「さっさとお寺で修行して来たらどうですか? あぁ、悟り開くまで帰って来ないで下さいね。勿論。剃髪は必須でお願い致しますわ。なんでしたら、私が今この場で剃って差し上げましょう。誰かカミソリかバリカン持って来なさい! 今すぐよ!」
そう美智が怒鳴るように叫べば、「はいっ!」という声が複数届く。
どうやらそれはギャラリーと化している生徒達の群れだった。
「持って来なくていいからっ! やめてよ! 髪は男の命なんだよっ!? それに、今度カラーをアプリコットアッシュにしてパーマやめてアシンメトリーにしようと思っているのにっ! 夏だからもっと弾けなきゃ! 女の子達と別荘行くし、海も行くんだよ? 隼斗ーっ! 何とかしてよ!」
「兄さん。自分のしでかした事をわかっているの? 五王家に喧嘩売ったんだよ? 羽里家が謝罪しなきゃならないぐらいのレベルの事をしたというのに髪型の話って……」
隼斗が心底うんざりした声でそう零した時だった。
「これは一体どういう事なのですか?」
という、声が飛んできたのは。
そちらの方へ顔を向ければ、息を切らせながら佇んでいるスーツ姿の男性が。
それは俺の担任だった。背後には他にも数名の先生がこちらに駆けてくるのが見受けられる。どの先生たちも浮かべているのは困惑気味な表情。
「なんで先生が……!」
尊の呟きに臣が「誰か呼びに行ったのでしょうね」と忌々しそうに即答すると、唇を噛みしめだした。
その通りだろう。職員室はすぐそこの階段を上った先にあり、比較的近場。
そのため、すぐにかけつけられるだろうから。
「僕から事情をちゃんと説明します。決して大事にはさせません」
「いいよ、処罰は受けるから」
俺は全てを受け入れ、瞳を閉じるとゆっくり息を吐く。
頭の中に浮かんできたのは、五王家や家族に迷惑をかけた事ではなく朱音の事だった。
俺のせいで傷つけてしまったかもしれない。彼女がこの場にいなくて本当に良かった……
「匠が受ける処罰なんてありません! そもそも悪いのは健斗ですよ。僕達もちゃんと説明しますので安心して下さい」
「そうだよ、これは羽里家の問題。匠君のせいじゃないよ。兄さんが悪いんだ。兄さんが馬鹿だから。兄さんのせいだよ! どうするつもり? 匠君の経歴に傷ついたら!」
「あぁ、露木さんの事をあんな風に言われたら匠が怒るのも当然。健斗が悪い。俺も先生にちゃんと言うよ」
「えぇ、そうですわ。全て健斗様の責任。処罰を受けるなら健斗様のみ。剃髪して滝修行し精神鍛えてくればいいのに」
「いいよ、みんなまで巻き込むわけにはいかない。それに殴ろうとしたのは事実だ」
殴ろうとしたのは感情的だったと思う。
けれども許せなかったんだ。健斗の事が。
朱音の事を歪んで間違った見方をされ、自分の事を悪く言われた以上に腹立たしかった。
「確かに殴ろうとしました。ですが未遂です。それに、僕が友達を守る事は自由。匠に止める権利はありません」
「あぁ、そうだ。気にすんなって。俺も友達は守るよ」
その言葉と共に、ポンと右肩に何か乗った。
それは尊の手。二、三回宥めるように軽く叩かれたかと思えば、すぐに離れていく。
「尊……」
尊は俺の方へ視線を向けると安心させるかのように微笑んだ。
かと思えば、すっとその表情を消し、健斗の前へと向かい「そして悪い事をしたら戒めるのも友達だ」と告げる。
「でもさ……!」
「兄さん。みんなはまだ兄さんの事を見捨てないでくれているんだよ? 少し落ち着いて話を聞きなって」
その隼斗の台詞と共に、辿り着いた先生によって健斗の拘束は解かれた。