手作りお弁当
匠君達と遊園地に行った次の日――月曜の朝。
私室にて制服に着替え軽く身支度を済ませた私は、可愛い雪色のクマが付けられた通学鞄を肩に提げると、お弁当を作るために一階のキッチンへと向かう事に。
廊下へと通じる扉を開ければ、ちょうど部屋の前を通り過ぎようとしていた琴音と鉢合わせしてしまった。
二階は二部屋あり、私の部屋は階段の手前。そして琴音が奧だ。
どうやら階段を昇ってきた所を見ると、自室へと向かう途中だったらしい。
手には麦茶の入ったグラスを持っていることから、喉でも渇いたのだろう。。
それにしてもなんて珍しい光景なのだろうか。琴音がこの時間に起きているなんて。今まで一度も遭遇した事はないのに――
私の起床時間が五時半。
自分のお弁当作りや掃除などのお母さんの手伝いをするため、私は早めに起きるからだ。
一方の琴音は、送り迎えをして貰っているので比較的遅くに家を出る。そのため、朝はゆっくり。
だから、この家で暮らしてから一度もこの時間帯には遭遇した事がない。
「おはよう」
声をかけず通り過ぎるのもあれなので、私はそう声をかけた。
すると、琴音が柳眉を寄せ明らかに不機嫌そうな顔をしてしまう。
だが、すぐに何かに反応を示したらしく体を大きくビクつかせると、出かかった悲鳴をかみ殺しながら仰け反るように後ずさりしてしまう。
どうしたのかな? と首を傾げながら彼女の視線を追えば、どうやら私の鞄に付いているクマを凝視しているようだ。
その華奢な体を震わせ、まるで私の周りに視えないバリアでも張られているかのように、琴音が廊下の壁ギリギリを沿うように駆け抜けていき、部屋へと駆け込み扉の奥へと消えていく。そんな不意な琴音の態度に呆気にとられてしまう。
「……え?」
昨日は夕食を匠君と美智さん……それから、途中で合流した五王家の人達と済ませてきたので顔を合わせてはいない。そのため、琴音の顔を見たのはついさっき。
もしかして、匠君達との件で大人しくなったのだろうか?
得意なピアノも成績も美智さんの方が上。そのせいで、琴音のプライドがズタズタに切り裂かれてしまったから……
きっとあのような出来事は、琴音にとって初めてだったと思う。
両親の自慢の娘として溺愛され育てられた琴音。
それだけじゃない。親戚や父方の祖父と母方の祖父母といった周りの大人にも褒められ可愛がられている。そのため、私は祖父母の家や親戚の集まりが苦手。いつも琴音ばかりで私の存在は無いに等しいから……
そういった環境で育ったので、あの匠君と美智さんとの出来事は琴音にとってかなりの大打撃を受けたはずだ。
――……どうか、このまま穏やかに過ごせますように。
私はそう心の中で祈ると、お弁当を作るためにキッチンへと向かった。
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「……確か、予備のお弁当箱が二・三個あったはず」
私は屈み込むと食器棚の下部にある戸を開き、中を覗き込んだ。そこにはお弁当箱が数個積まれていた。その中から、紺色の長方形のお弁当箱を取り出すと戸を閉める。
――男の人ってどれぐらい食べるんだろ?
私は手中に収めているお弁当箱を眺めながら首を傾げた。
まだ真新しいそれは、お父さんが以前購入して来たものだ。
野菜を摂るためにお弁当に切り替えようとしたけれども、営業職のため仕事柄外回り中心。
そのため、お弁当を持ち歩くのが邪魔になると思ったらしく、外食のままにする事にしたそうだ。そのため、一度も使用されないまま現在に至る。
「佐伯さん、どれぐらい食べる人なのかな? 運動部に入っているとまた話が違ってくるし」
昨夜、豊島さんからコミュニケーションアプリ経由でメッセージが届いた。『材料費を支払うので、佐伯にお弁当をつくって欲しいの』と。
それには「私と同じお弁当内容で良ければ……」と、返事をした。
そのため、今日はお弁当が二つ。
――なんでも食べるって言っていたけれども、やっぱり佐伯さんに確認した方が良かったかなぁ? 苦手な食べ物とかあると思うし。それに、ちょっと気になる事もあるんだよね……
豊島さんがカラオケで結構私の事を佐伯さんにゴリ押ししていたから、ちょっとそれが引っ掛かる。
そのため、色々と頭の中に浮かんできてしまっている疑問や不安。
けれども、これからお弁当を作ったり、お風呂掃除などもしなければならないので時間がない。そのため、私は佐伯さんに確認を取らないまま作業に取り掛かる事にした。
「……出来た」
お弁当箱には卵焼きやショウガ焼き、それからおひたしなどのおかずが詰められている。
本当に普通のお弁当で大丈夫なのだろうか? 六条院の生徒なので、きっと舌が肥えているだろうし……それに食堂のランチの方が断然美味しいと思う。
六条院には食堂があるため、毎日厳選された食材を使用した美味しい食事を堪能できるそうだ。昼だけじゃなく、朝や放課後の利用も可。お茶やお茶菓子などもあるようで、放課後になれば生徒達の憩いの場となるみたい。
そのため、大半の生徒が食堂を毎日利用しているそうなので、かなり広々としているのだろう。
うちの学校は食堂が無いため、ちょっと憧れる。
そんな事を匠君達に言ったら、学園祭――六条院祭では一般開放され誰でも利用できるから六条院祭においでと誘って貰った。
けれども、六条院祭は私が知っている学園祭とは違うので躊躇している。
在校生から招待券を貰い、事前に学校側に届を出さなければならないのだ。
他にも身分証明書の提示などがあるらしい……
――そういえば、六条院祭の音楽科講演会の選抜っていつだっけ?
音楽科では六条院祭で毎年コンサートを開催している。全員参加ではなく、選ばれた人のみ。その選抜がそろそろだったはず。
琴音は去年、見事選ばれ参加。
けれどもそれが決定するまで琴音の機嫌が荒れて酷かった。両親も神経をすり減らす日々。家の空気は本当に重苦しかった。
そんな事を思い出していると、「おはよう」という女性の声がキッチンに響き渡る。そのため、私の意識はそちらへ。
「おはよう、お母さん」
その声がした方向――右手にある扉へと視線を向ければ、そこには皺一つないスーツに身を包んだお母さんの姿があった。落ち着いた色合いで染めた髪を一つに結い、ばっちりとメイクをしている。
「あら? 朱音。貴方、今日はお弁当を二つ持っていくの?」
「あっ……」
お母さんはステンレス台の上――私がちょうど蓋をしようとしているお弁当を凝視。
「以前も言ったと思うけれども、もしお付き合いしている人がいるなら連れて来なさいね。ちゃんとした人かどうか確認しないとならないのだから」
「……違うよ。これはクラスメイトに頼まれたものなの……だから今日だけ」
「そう」
「うん……」
私は頷くと、視線を外してお弁当箱を袋へと入れた。
これ以上は何も言うつもりはないのか、お母さんは私の背後を通り過ぎてその奥へ。おそらく食器棚から珈琲を取り出すのだろう。朝、一杯の珈琲を飲むのがお母さんの日課だから。
「ねぇ、朱音」
バタンという扉が閉まる音と共に、お母さんの声が広がる。
「琴音の様子が昨日からおかしいの。いつも休日は外出するのに、ずっと部屋に籠もっていたし……貴方、何か知らない?」
「え?」
「聞いてもなんでもないって言うし……心配だわ。あの子、凄く繊細だから。それにもうすぐ秋に開催される六条院祭の音楽科の選抜が始まるし。朱音、お姉ちゃんなんだから支えてあげなさいね」
『お姉ちゃんなんだから』その言葉が石のように圧し掛かり、手にしている保冷剤のように体が凍ってしまう。
私はいつまで『お姉ちゃん』をやればいいのだろうか?
社会人になって独立した瞬間?
結婚した時?
子供を産んだら?
それともずっと一生?
答えはいつか出るのだろうか――
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私が通学に使うのは、乗り換えなしで高校の最寄り駅まで到着出来る電車。
いつものようにそれに乗って駅へと降りた私は、そのまま学校へは向かわず駅前にて佇んでいる。
豊島さんの話によると、お弁当は佐伯さんが受け取りに来てくれることになっていた。そのため、それを手渡すために待ち合わせの場所である大時計前にいるのだ。大時計は一時間ごとに音楽を鳴らし駅前に時刻を知らせてくれるようになっている。
――そろそろ来るころだよね?
私は肩から提げている鞄を下ろすとスマホを取り出す。
もしかしたら、佐伯さんから連絡が来ているかもしれないと思ったからだ。
「……あれ? 匠君から来ている」
ディスプレイには、コミニュケーションアプリのメッセージが表示されている。
『おはよう。琴音の件大丈夫だったか?』
どうやら匠君は私の身を心配してくれているようで、昨夜も電話で尋ねられた。
琴音に何も言われなかったか? とか、何もされてないか? って。
けれども、まだ顔を合わせていなかったのでそう伝えた。
そのメッセージを読むと、私は今朝の出来事を記載して送る事に。
するとやや間があいたけれども、すぐに返事が返ってきた。
『琴音があのクマを見て、怯んで避けたのか。まるで魔除けだな。ずっと加護が続くといいんだが』
「……魔除け」
そう私が呟いた時だった。「露木さんっ!」というほんの少しだけ焦りを含んだ声をかけられたのは。それに反射的に顔を右手へと向ければ佐伯さんの姿が。
六条院の制服に身を包んだ彼は、自転車に乗りながらこちらにやって来た。
「自転車……」
予想してなかった通学手段のため、私の口からそんな呟きが零れる。
私が通う榊西のような普通の高校ならば珍しくもないが、六条院生なので違和感が。自分勝手なイメージだけれども、六条院は各家々から車で送迎って思っていたから……
「佐伯さん。おは……――」
「本当にごめんっ!!」
「え?」
傍にやってきた佐伯さんは自転車を降りると開口一番謝罪。そのため、私は首を傾げてしまう。
「あの……?」
「俺、昨日の夜に豊島と電話で話をしていて、手作り弁当を食べたいって言っちゃったんだ。引き受けてくれたから喜んでいたら、まさか露木さんに頼んでいるなんて。もっと早く気づけば良かったんだけど、今朝『駅に露木さんが待っていてくれるから』って書かれていて、それで気づいたんだ……本当にごめん。迷惑かけてしまって」
「えっと……それはつまり、佐伯さんが食べたかったのは、豊島さんが作ったお弁当ってこと……?」
「本当にごめん。俺のせいで迷惑かけて」
深々と頭を下げる佐伯さんに、私は首を左右に振った。
「ううん。気にしないで。お弁当は誰かに食べて貰うから」
保冷剤が入っているとはいえ、今は夏なので夕食に食べるのはちょっと無理。
――これどうしよう……お弁当を忘れてきた人や、購買で昼を購入する予定の人に食べて貰えるか頼んでみようかな。
「いや。その……ずうずうしいかもしれないけど、弁当は俺が貰ってもいいかな? せっかく露木さんが作ってくれたから」
「うん。それは大丈夫」
「ありがとう」
「ううん。こちらこそ食べて貰えて助かる」
そう告げれば、やっと佐伯さんの表情が少し緩んだ。ここに来てからずっと眉を下げたまま強張っていたので、ほっと胸を撫で下ろす。
「帰りに弁当箱返すから、榊西に寄るよ」
「あっ、それなら私立図書館でもいいかな? わざわざうちの学校まで来て貰うのも悪いから……」
放課後は匠君と美智さんとテスト勉強をする予定。そのため、五王の図書館で待ち合わせをしている。それに図書館の方がうちの学校に来てもらうよりも近いので、待ち合わせ場所として適している。
「私立図書館って五王の?」
「うん。友達と個室借りて勉強会するの」
「そっか。わかった。なら、図書館に着いたら連絡するよ」
「連絡待っているね。あっ、お弁当の量は足りるかな? 部活とかやっているかわからなくて……」
「部活は入ってないんだ。俺が所属しているのは、せ……――」
佐伯さんの声を遮るように人工的な鐘の音が響き渡った。それは大時計から聞こえてきたもので、見上げれば針は八時を指している。うちの学校はここから歩いて五~七分ぐらい。そのため余裕。けれども六条院は――
「ごめん! 俺、そろそろ行かなきゃ」
「うん」
「じゃあ」
「うん。気をつけてね」
私は自転車に乗った佐伯さんに手を振った。